34-18900

商品番号 34-18900

通販レコード→英カラー・スタンプ・ドッグ盤[オリジナル]

20世紀生まれの英国作曲家のヴァイオリン協奏曲集 ― 20世紀最大のヴァイオリニストが同世代の作曲家のヴァイオリン協奏曲を紹介している。オーストラリア生まれで、その音楽はイギリス穏健派のマルコム・ウィリアムソン(Malcolm Williamson, 1931〜2003)と、仏近現代の色濃いレノックス・バークリー(Lennox Berkeley, 1903〜1989)。マイナーながらモダンな響きが聴きやすい。ギリギリだがオーストラリアに生まれているので、戦争を知らない世代のウィリアムソンは11歳でシドニー音楽院に入学。ピアノとフレンチホルンを学び、また作曲をユージン・グーセンスに師事する。1944年に音楽学士号を得て卒業。1950年にロンドンに移住し、新ウィーン楽派や、メシアン、ブーレーズといった作曲家のセリー音楽と出会う。1953年から作曲の修練を積み、エリザベス・ルーティエンスや、エルヴィン・シュタインの元で学ぶ。そしてナイトクラブのピアニストなど、多方面にわたる仕事に従事して自分の芸術活動を支えていた。こうした中で様々なタイプの音楽に触れた経験は、ストラヴィンスキーやメシアン、そして19世紀後半のドイツやイタリアの作曲家たちの音楽からの影響とともに、当時の彼の作風に反映された。イギリスに居住するよう女王からの要請を受けて、1950年代からイギリスに暮らしていたが、ウィリアムソンは依然として自分の音楽は基本的にオーストラリア的であると考えていた。「私の音楽の大半は、オーストラリア的だ。だがそれはブッシュや砂漠のようだというのではなくて、オーストラリアの都市がもつ自信過剰なまでの活気のことだ。オーストラリア人は『引く』と書いてあるドアを押すようにして生きているが、それを形成しているあの活気のことである。」と述べている。ウィリアムソンは1960年代初め以降、順調にも作曲だけに専念することが出来た。「同世代の中で最も委嘱されることの多い作曲家」と記載されていたのは、彼の出版社から出された50歳を祝う作品目録のなかでのこと。1975年、彼は19人目のマスター・オブ・クィーンズ・ミュージックとなる。イギリス人以外でこの地位を得たのは初の人物となる栄誉を獲得した。作品には、交響曲、舞台作品、室内楽、合唱曲、宗教曲、映画音楽がある。彼はまた子供向けの音楽の作曲に強い関心を示した。いくつもの子供向けのオペラを作曲しており、その中にはオスカー・ワイルドの「幸福な王子」に基づくものがある。また聴衆参加型の小規模なオペラや、また若い人々、精神的・肉体的に障害のある人々のための音楽にも関心を寄せた。
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20世紀有数のヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインのレコードを聴きこむとき、まず考えておかなければならないことがある。メニューインは、ベラルーシから移民してきたユダヤ系ロシア人を両親に1916年、ニューヨークに誕生。早くからヴァイオリンに興味を示し、10歳代前半ですでに海外でも活動を開始するなど、天才少年として大きな注目を集めながら演奏を続け、戦後まもなくキャリアの頂点を極めることとなります。またメニューインはヒューマニストとしても知られており、戦時中は連合軍のための慰問活動を熱心に行い、戦後は、アメリカ楽壇の顰蹙を買いながらもヴィルヘルム・フルトヴェングラーを擁護、イスラエルから受勲したときも、演説でパレスチナへの占領活動を非難するなど、人権に対する公正な考えを常に示しており、欧米では大きな尊敬を集めてもいました。彼は解釈しない典型的な演奏家で、メニューインの演奏はどの曲も明確なアーティキュレーションで、決してヴィルトゥオーゾ的な技巧や美音の魅力に溢れた演奏でもないが、彼のインド行から10年を経た1960年代、メニューインの音楽が次第に穏やかなものに変化していくのがよくわかる。メニューインは「神童」や「巨匠」といった言葉で語られてきたが、今あらためて聴き直してみると独特の味わいはあるのだけれども、技術的には今の若手のトップ・クラスの方がうまい。1960年代はレコード録音史の上で最も収穫のあった時期で、世代交代や価値観の転換など新鮮で興味深い出来事が次々に起こっていた。もちろん、演奏というものは常に時代を反映して塗り代えられていくもので、それは今日でも変わらない。時代を先取りしていく才能ある演奏家はいつでもいるが、1960年代は戦後の新しい世代の台頭がステレオ再生装置の普及と高度経済成長の波に乗って、正に百花繚乱の観があった。巨匠時代の終焉が「1960年代」なのですが、1970年代末にCDが登場。程なくして平成バブルを迎えると1960年代の録音を聴き直す人は少なかったと思います。「温故知新」を求めて「1960年代」の演奏を聴くということの意味は当時もありましたが、今では、更に積極的な意味があるかも知れません。
サー・エイドリアン・ボールト(Adrian Boult, 1889~1983)は、20世紀の英国の生んだ最もノーブルな指揮者として知られています。オックスフォード大学を経て、ライプツィヒ音楽院に留学、マックス・レーガーに作曲を学ぶかたわら、ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者だったアルトゥール・ニキシュに私淑し、大きな影響を受けています。イギリスに帰国後、直接親交のあったエドワード・エルガー、グスターヴ・ホルスト、レイフ・ヴォーン=ウィリアムズらイギリスの作曲家の作品を取り上げて高く評価され、1930年には新しく創設されたBBC交響楽団の初代首席指揮者に就任、幅広いレパートリーをイギリスに紹介しています。中でもボールトの代名詞ともいうべき作品がホルストの組曲「惑星」です。1945年のBBC響とのSP録音(EMI)を皮切りに、ボールトは生涯に「惑星」を5回録音も録音しています。1918年9月ロンドンのクイーズ・ホールにおける作品の非公開の全曲演奏(私的初演)が行われた際にホルストからの依頼で指揮をとったのがボールトであり、その成功によって《惑星》に初めて輝きをもたらし、作曲者の感謝を受けたエイドリアン・ボールトにという献辞の書き込まれた印刷譜を作曲者から送られています。戦後はロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、バーミンガム市交響楽団の首席指揮者を歴任しつつ、イギリス音楽界の大御所として1981年、92歳という高齢で引退するまで矍鑠とした指揮活動を続けました。ボールトはJ.S.バッハからハヴァーガール・ブライアンまで、幅広いレパートリーで卓越した演奏を聴かせる指揮者でしたが、最も得意とするのはイギリス音楽と、ニキシュの影響を強く受けたドイツ・オーストリア音楽でした。前者では、エルガーの交響曲第2番の復活初演やヴォーン=ウィリアムズの「ロンドン交響曲」改訂版の初演など、作曲者から盤石の信頼を置かれていたボールトならではの業績は数多く残されています。
サー・エイドリアン・ボールトというと、長命だったこともあってか晩年の老成した演奏のイメージが強いのですが、1950年代までの彼は、ときにかなりアグレッシヴな演奏も行うという、爆演も辞さぬ積極的な芸風の持ち主であったことはマニアにはよく知られています。エルガーやホルスト等も得意としたイギリス音楽のスペシャリストとされるボールトによるヴォーン=ウィリアムズは、サー・ジョン・バルビローリ指揮のものと並んで決定版と言えるものです。ボールトは「私は常に指揮をとるということは、船の船長になるようなものだと思ってきた。私には石油のドラムカンといっしょにころげまわる理由はまったくない」と言った。ボールトはウェストミンスター・スクール在籍中のディナー・パーティでエルガーと出会い、自作の総譜を見せられつつ解説を受けた。オックスフォード大学で音楽の学位を得たのち、ライプツィヒ音楽院でマックス・レーガーに作曲をハンス・ジットに指揮を学びますが、この地でボールトが最も感銘を受けたのは、アルトゥール・ニキシュによるリハーサルやコンサートの数々だったといいます。ボールトは20歳代初めの若い頃、ライプツィヒで偉大な指揮者ニキシュに私淑したが、晩年に至るまで讃仰の気持ちは変わることがなかった。ニキシュは私などよりももっと簡素だった。今日、若い世代の指揮者たちには余りにも跳び回る傾向がある。もっとも、彼らはそうすることを期待されているのかもしれないがね。また最近の傾向としては、総体的な建築的構成を犠牲にしてディテール(細部)をほじくることが著しく目立っていると思う。とは、ボールトの現代批判であるが反面、聴き手はボールトに一種の安全弁のようなものを見出していたようである。少なくともイギリス人はそうであった。ボールトが英国音楽だけでなく独墺系音楽も得意としていたのは、そうした事情が背景にあるとも思われ、これまでにも両分野での人気には絶大なものがありました。日本で発売されたボールトのレコードは伴奏録音が多かったのと、紹介された録音がイギリス音楽中心だったために、我が国では「惑星」専門の指揮者のような扱いを受け不当に軽い評価しか受けませんでしたが、ベートーヴェン、ワーグナーやブラームスなどのドイツ系の作品にも説得力のある名演を残しています。ボールトはニキシュのみならず、ハンス・リヒターやフリッツ・シュタインバッハ、フェリックス・ワインガルトナーと接触があり、クロード・ドビュッシーの演奏も直接聞いている。
ユーディ・メニューインの初期盤は、余りにも発売枚数が多すぎて、当時の音楽ムーブメントで期待が高かったことで、レコード会社の意気込みが伝わる。それが現在の中古レコードの世界では、この優れた演奏に対して 低い評価 ― 価格が安い ― がなされているのは良質の盤に出会いやすいことでは幸いをもたらした。戦後同世代のヤッシャ・ハイフェッツらと共にヴァイオリニストとして名声の頂点を極める。また、メニューインはヨガや菜食主義を実践し、健康管理を怠らず壮年期になるまでソリストとしての活動に取り組んだ。その証左として膨大な音源が英EMIに録音された。ゴージャスを尽くしたセッション環境での演奏は申し分なく、本盤もメニューインの松脂が飛び散っています。強い精神が本盤でも随所に聴けます。いずれも地味だが、なかなかの好演。やや固い締まった響きで音楽の運びはオーソドックスだが独特のバランス感覚を持ち合わせた演奏です。19世紀までは聴衆にも、各地の演奏家にも有名演奏家が演奏旅行をするときにレパートリーとして貰うことで広まっていった作曲家の名声。20世紀になるとラジオで自作が演奏されるのを楽しむ様になった。英国を代表する、この作曲家は、そうしたメディアの時代に乗り合わせ国際的に評価を受ける存在になっていく。マイクロフォンの登場を受けて、エルガーは彼自身の指揮で数多くのレコードを残した。1932年、当時16歳のメニューイン少年は、エルガーの指揮により《ヴァイオリン協奏曲》の録音をアビー・ロード・スタジオにて行った。当初、この曲はエルガーがフリッツ・クライスラーに献呈したもので、クライスラーとの録音を考えていたのだが、都合がつかず、急遽このメニューインに白羽の矢が立てられたのだった。黎明期の英EMIのヴァイオリンもののレコードは、必ずと言っていいほど、この英国に帰化してサーと男爵の称号を得たメニューインが登場する。アメリカで経済的に困窮していたハンガリー人亡命者べラ・バルトークを助け、「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」を献呈され、ユダヤ系ながら第2次大戦後のドイツとの和解を訴え、ナチス協力者の烙印を押されていたヴィルヘルム・フルトヴェングラーと共演して彼の無実を擁護した。それが米国ユダヤ人社会の逆鱗に触れ、米国で支配的だったユダヤ人音楽家社会から事実上排斥されて欧州へ移住する運命となった。第2次大戦は欧州から米国へ移り住む多くのユダヤ人音楽家を生んだが、英国からドイツに出向いてフルトヴェングラーとの共演録音をしているのは彼ぐらいのものだ。フルトヴェングラーがフィルハーモニア管弦楽団を指揮したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。全曲が泰然としたテンポで進み、これだけオーケストラが立派な演奏は少ない。独奏がこれほど気品と風格にあふれ、古典派演奏の枠を超え人間味の限りをつくしたあたたかさが伝わる。
オックスフォード出身の作曲家レノックス・バークリーは20歳代の頃パリに留学し、高名なナディア・ブーランジェに音楽を学んだというだけあって、彼の作品からは至るところからフランス音楽の影響を感じられる。その作品には微妙な陰影と、シンプルな旋律、そしてアイデア豊かなリズム感覚があり、どれも忘れられない美しさを誇っています。もちろんその作風は少しずつ変化していきますが、どれも複雑なテクスチュアを丹念に整理した明快なものとなっています。ヴァイオリン協奏曲も曲、演奏ともに独奏が文句なしに素晴らしい。ユーディ・メニューイン全盛期のテクニックが冴えわたるが機械的でなく、いつも知性と人のぬくもりを感じる。技術的には今の若者が優れているし、日本での評価が欧米より低いと思うが、音楽は楽譜に書いてある通り正確に音を出せばいいというものではなく、聴く者の心に深くこだまして納得感や感動という心の動きを作り出すのは題材にのって運ばれてくるその人の人間性の方だと思う。フリッツ・シュタインバッハの薫陶を受けたサー・エイドリアン・ボールトにとって、ブラームスは特別な作曲家でした。自分が確信を持って指揮することができるようになった35才まで、ただ1回の例外を除いてブラームスの交響曲を演奏することはなかったもので。ブラームスの交響曲全集で、ロンドン交響楽団がボールトと共演した際に、その音楽性の高さに感激したメニューインが特別に楽団員としてヴァイオリンを弾いて録音に参加したというエピソードもある。ボールトは柔和な表情のうちに威厳を兼ね備えている。一見してイギリス人らしい風貌の持ち主である。イギリス人にいわせると軍服ならぬエンビの退役将軍、あるいはパブリック・スクールの老校長を想わせるというが、姿勢の正しさと無駄のないキビキビしたジェスチュアは、まさしく老将軍といった面影をそなえている。SPレコードが電気吹き込みになる以前の1920年代からイギリスの様々なレーベルに録音しているが、その中の大手である英EMIがボールトを発見したのは、1966年、ボールト77歳のときだった。80歳の誕生日祝いのコンサートを振った折り、ボールトはふと、こんなことをもらした。「レコード会社は、ほぼ10年ほど前に私がまだ生きていたってことに突然気づいた。こんなに忙しいのは嬉しいことだが、私がもっと元気だった、それより10年前(60歳代)に起こったらねえ」。一口にいってボールトは極めて地味な指揮者だったから、人気者で名物男だったサー・トーマス・ビーチャムが、1961年に82歳で没し、公衆のアイドルだったサー・マルコム・サージェントが1967年に72歳で没し、芸術の夕映えに輝いていたサー・ジョン・バルビローリが1970年に70歳で没したのち、後釜にボールトが浮上していたというわけである。晩年の10年間、ボールトの録音に協力したクリストファー・ビショップの談によると、80歳代の高齢にもかかわらずボールトの耳は以前としてシャープであり、老眠鏡もかけずに、こまごまとした手書きスコアを読むことができ、健康な食欲に恵まれ録音スタジオのキャンティーン(簡易食堂)で楽員たちと同じ食事をうまそうに平らげていたそうである。
℗1972, Recorded At – Abbey Road Studios. 1971年録音:Producer – Christopher Bishop(Williamson - Violin Concerto), Ronald Kinloch Anderson (Berkeley - Violin Concerto, Op 59).
GB EMI ASD2759 ユーディ・メニューイン ウィリアムソン…
GB EMI ASD2759 ユーディ・メニューイン ウィリアムソン…
Berkeley/Williamson/Panufni
Yehudi
EMI Classics
1996-09-02