ボストン響の音楽監督に就任する前の若き小澤征爾の演奏 ― 1969年にショルティが音楽監督に就任し、まさに黄金期のスタート期にあった、シカゴ交響楽団。本盤は小澤征爾がまだ、30歳代の本当に脂の乗り切った時期で、小澤の若さ溢れるタクトに、シカゴ響のパワー炸裂、互いに丁々発止の演奏が息を呑むよう。ヤナーチェク・シンフォニエッタ冒頭のファンファーレ、トランペットのアドルフ・ハーセスを筆頭にブラス軍団のブリリアントかつパワフルなサウンドはスカッとする。人間味溢れる両者の鬩ぎ合いに、オーケストラが生き物のように反応するのがすばらしい。「城塞(シュピルベルク城)」、「修道院(ブルノの王妃の修道院)」、「街路(古城に至る道)」では、ヤナーチェクの故国モラヴィア民謡が盛られている、曲のイメージによって多彩な楽器が繰り出されて民族的メロディをのせていく。終曲「市庁(ブルノ旧市庁舎)」では哀愁をおびたフルートの響きがどこか懐かしく親しみを感じさせる。小澤のアプローチは、純音楽的にリズムの躍動感を大切に、あらゆる楽節をバランスよく表現することに腐心しているようだ。バッハや、ベートーヴェンだと様式だとか、慣習だとかが足枷になりますが、ここではそうした柵を開放して自分たちのスタイルを貫いているのもいいものです。思い切りリズムの躍動感を強調しつつ打楽器と管楽器を前面に立てたクリアで切れのよいサウンドを刻んでいく。ソロも指揮者もオーケストラも、アグレッシヴで瑞々しい感性を持ち合わせていた時代の芸風を知るには恰好の一枚。シカゴ響は録音会場を転々としているが、3階4200席を擁した大劇場としてオープンしたメディナ・テンプルの広大な空間は、シカゴ響の本拠地であったオーケストストラ・ホールのドライで引き締まった響きとは異なり、ここは過剰な残響音のために、混濁を避けるためにマイクは近接され、音は深みに欠ける。彼らは、メディナ・テンプルを嫌ってシカゴ郊外のウィートンのエドマン・チャペルを新たに録音会場に選んだが、期待したような音響が得られずボツになる。再び、メディナ・テンプルに舞い戻ってあらためての録音セッションをこなすことになる。しかし、左右のレンジを広くとった録音が表現の幅をひろげることに成功。弦楽器の豊麗さと管楽器の甘い音響があいまって素晴らしい出来になった。録音技術によって曲想のコントラストがよりはっきりと出ている。巨大な編成のオーケストラによる作品に相応しいゆとりのあるサウンドを無理なく作り出すことができる環境でもあったのだ。また最初と最後のファンファーレでの、ブラスの応答の遠近感の差異も見事に再現されています。限られたスケジュールの中で、満足できる音響を求めて、場所を変えて録音セッションに挑む。スーパー軍団と若き小澤のバイタリティ、その手腕には驚嘆させられる。
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小澤征爾がEMIに残した名演。35歳の小澤が、スーパー・ヴィルトゥオーゾ集団、シカゴ交響楽団を指揮して、東欧の民族色の濃い2つの管弦楽曲を見事に描く。ポーランドの作曲家、ルトスワフスキが「管弦楽のための協奏曲」を作曲したのは1950~54年のことで、当時のポーランドは旧ソ連の表向きは重要な同盟国という統治下にあったこともあり、本作品もショスタコーヴィチなどと共通する雰囲気はあるが、ポーランドの民族主義的なメロディも盛られているとも言われる。恐らくバルトークの影響を強く受けているようですが、ポーランドの濃いパッションが随所に見られる、前衛化する前のドラマティックな作品。バルトークの同名の曲とともに、小澤がシカゴ響と本曲を取り上げたことは冷戦下にあって野心的な取り組みである。
小澤征爾は2002年、ボストン交響楽団の音楽監督を離れた。就任から29年。アメリカのオーケストラの音楽監督として最も長い在籍期間だ。「世界のオザワ」がはじめて持った、「自分のオーケストラ」はトロント交響楽団で、1965年秋に音楽監督に就任した。欧米の名門オーケストラを若いうちから指揮する機会に恵まれたのは、小澤が物珍しい東洋人であったからだろう。遡ること、レナード・バーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督と成っていた1960年。小澤はバーンスタインとパーティーで会うと、街に連れ出され、飲み明かした。小澤には知らされていなかったが、この時点で彼をニューヨーク・フィルの副指揮者にすることが内定していた。明るくスマートでアクも少なく、リズムの扱いもていねいで好感が持てる。このオーケストラは翌61年4月下旬に日本公演を予定しており、話題作りとして日本人を起用してみようと考えたらしい。1970年秋、小澤は西海岸のサンフランシスコ交響楽団の音楽監督に就任し、1976年まで務めた。この間、1973年5月から6月にかけて、ヨーロッパ・ソ連ツアーに出掛けた。政府間は冷戦状態にあるが、なおのこと、文化・藝術面での交流は維持されていた。小澤は38歳の若さで1973年にボストン響の音楽監督に就任します。当初はドイツ・グラモフォンとの契約で、ラヴェルのオーケストラ曲集、ベルリオーズのオーケストラ曲集など、シャルル・ミュンシュの衣鉢を継ぐフランス音楽の録音を続けた。以来、その演奏は国際的なレーベル、ドイツ・グラモフォンから発売されるようになり、しかもこの国際的なレーベルから、その演奏が発売された日本人指揮者では小澤が初めてのことでした。その後マーラーの交響曲全集など、フィリップスへの録音を行った。大きなオーケストラに唯一人対峙する指揮者。NHK交響楽団や日本フィルハーモニー交響楽団との事件は彼の指揮者として目指していくスタイルを確信させた。 欧米のクラシック音楽の中心にはドイツ音楽精神が根強い。小澤の得意のレパートリーは何か、何と言ってもフランス音楽、そしてこれに次ぐのがロシア音楽ということになるだろうか。それは近年の松本でのフェスティバルでもフランス音楽がプログラムの核であることでも貫かれている。
ロシア音楽について言えば、チャイコフスキーの後期3大交響曲やバレエ音楽、プロコフィエフの交響曲やバレエ音楽、そしてストラヴィンスキーのバレエ音楽など、極めて水準の高い名演を成し遂げていることからしても、小澤がいかにロシア音楽を深く愛するとともに得意としているのかがわかるというものだ。小澤征爾が着任した時のボストン交響楽団は、ニューヨーク・フィルハーモニックおよびシカゴ交響楽団と共にアメリカ5大オーケストラの一つに数えられるが、どちらかと言えばきれいで色彩豊かな音を出していた。かつての音楽監督シャルル・ミュンシュやよく客演していたピエール・モントゥーらフランス人指揮者の影響だろう。その代わり、ドイツ的な重みのある音楽はあまり得意じゃなかったように思う。しかし小澤自身はドイツ系の音楽もしっかりやりたい。例えばブラームス、ベートーヴェン、ブルックナー、マーラー。あるいはやはり重みが必要なチャイコフスキーやドヴォルザークもやりたかった。そこで重くて暗い音が出るように、弦楽器は弓に圧力をかけて芯まで鳴らす弾き方に変えた。だけど小澤が就任した時のコンサートマスターのジョセフ・シルヴァースタイン ― その後、彼は指揮者となり成功している。 ― はそういう音を嫌がり、途中で辞めてしまう。それでも辛抱強く時間をかけて、ボストン響はドイツの音楽もちゃんと鳴らせるようになった。それでいてベルリオーズの「幻想交響曲」といったフランス物も素晴らしい演奏ができる。フランスの洗練とドイツの重み、両面を持つ良いオーケストラになった。一流オーケストラと数々の公演を成功に導いてきた小澤は、音楽への感度が全く違う。指揮者というのは「勉強しなきゃ、勉強しなきゃ」、と口癖のように言う、小澤は音楽に対して、自分に対して、どこまでもストイックなその背中で、オーケストラを率いていた。〝メロディーとリズムの微妙なせめぎ合い〟は殆ど感じられない、工芸品の美しさに人種の息吹を知るといったふうに、小澤らしさとはメロディーを奏するソロ奏者の手足を縛ったストイックさにこそあるといえる。フロント(ソロ)と大きな力(オーケストラ)の鬩ぎ合いではなく、お互いが融け合って進む方向を作る小澤の音楽作りがそのまま生きている。
- Record Karte
- 1969年(ヤナーチェク)、1970年(ルトスワフスキ)シカゴ、メディナ・テンプルでのセッション、ステレオ録音。
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