GB EMI ASD2525-2526 オイストラフ、ロストロポーヴィッチ&セル ブラームス・ヴァイオリン協奏曲&二重協奏曲
商品番号 34-21924
通販レコード→英初期カラー・スタンプ・ドッグ盤[オリジナル]
二度と望めない鮮烈な個性のぶつかり合いによって生まれた、この奇跡の名盤にブラームスの音楽美と愉悦は語り尽くされている ― このブラームスの協奏曲集は、ダヴィッド・オイストラフとムスティスラフ・ロストロポーヴィチの至芸を愛でる者にとっては格別のレコードです。一聴すると全盛期の彼らの芸風は、より感情の起伏を織り込んでいるようで、かなり感情的な演奏になっています。1970年代前半の彼らの巧さ・重厚さは改めて声を大にして言うことでもありませんが、驚異的なドライヴを展開しています。テンポも速からず、ゆったりと歌い上げる。多少速めに弾いている曲でも、なぜかゆったりして恰幅を感じる。彼の語り方一つ一つに感動させられ、滋味に溢れ、しかも聴き応え充分。飽きる事なく針を落とすと必ず最後まで聴き終えざるを得ない。おそらく、彼独特の線の太さも貢献してると思う。何れにしても豊満な美音で悠然と歌う、しかし時には威嚇するとでも表現した方が相応しいフレーズも散見される真骨頂。しかも指揮はハンガリーの厳格独裁者ジョージ・セル。セル、オイストラフ両者にとって最晩年の代表盤にも数えられるヴァイオリン協奏曲は、円熟味を増しながら瑞々しい情感にも不足なく、真正面からこの名作に向き合っています。
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音楽CDが世の中に出たのが1982年。今から約35年前のこと。それ以降、みなさんご存知のとおり「レコードからCDへ」という流れが生まれました。ところで世界初のデジタル録音を成し遂げたのは、CD誕生の10年前となる1972年のこと。スメタナ四重奏団を招き、世界初のデジタル録音を日本で行ったモーツァルトの「弦楽四重奏曲第15番ニ短調 K.421」と「弦楽四重奏曲第17番変ロ長調 K.458《狩》」でした。このときの記念すべき演奏はレコードとして発売されましたが、CDとしての発売は十年以上待たされた。デジタル録音は一般化していきますが、1960年代後半から1970年代前半のステレオ録音最盛期のレコードが今でも評価の高い中心でしょう。トマス・エジソンが『フォノグラフ』を発明したのは1877年のこととされるが、それから百年のレコーディングを振り返ってみれば時間とともに消え去るはずの音楽が、これほどまで正確に記録されるようになったと驚かないわけにはゆかないであろう。それは演奏の方法や様式感にも計り知れない影響を及ぼしている。それ以前の名演奏家たちは伝説として語り伝えられているが、レコードの発明以来、この分野も科学の時代に入ったのである。こういう時代を考えないではジョージ・セル(George Szell)について正しく語ることは出来ない。はじめはピアニストとして活躍していたがリヒャルト・シュトラウスに認められて、指揮界に進出した。1946年からクリーヴランド管弦楽団の常任指揮者になったが、それ以前にはドイツやチェコ、それにアメリカの多くの管弦楽団を指揮してもいた。セルの魅力と長所は、クリーヴランド管を指揮した時に最高度に示される。セルは完全主義者といわれるだけにオーケストラとも作品とも少しの妥協を許さず、厳しいアンサンブルの中で歪んだところのない音楽をつくりあげてゆく。クリーヴランド管の名声が世界に轟いたのも、このセルのおかげだったのである。シンフォニー・オーケストラの窮極的な機能を追求し、クリーヴランド管という完全無欠なアンサンブルを造り出したことはセルの個人的な業績であるばかりでなく、すでに確固たる歴史的な達成として認められることである。それがレコードとしてもセルの死後ますます輝かしい光を放っている。その他の誰もが達し得ない程の高い完成度を、どうして否定できようか。現代の演奏は如何に主観主義的な表現を行おうとも科学的考察の対象になるのであって、音楽もまた神話や伝説の領域に留まるものではない。セルはこういう時代に与えられた指揮者の最高の使命を担って全うしたのである。セルの極めて厳格な耳と審美感覚はオーケストラという非常に人間的な集団から不透明な人間臭を排除し、純粋な音楽を抽出した。そのため完璧なアンサンブルを掌中にしようとする鬼ともなり、冷たいとか非人間的とかいわれたが、むしろ暖かみがあるのやら人間味があるのやらと称される演奏以上に高度な音楽的表現をすることが出来た。それこそレコードに聴く、信じられないような透明無垢のハーモニー、鮮やかな色彩を見せる絶妙なバランス、表情の豊かなアゴーギグを持つ生気溌剌としたリズム、各パートが常に音楽と一体となって呼吸していて決して乱れないアンサンブル、なのである。セルの指揮するクリーヴランド管は凡そ全ての人間的な弱点や欠陥を克服して、この世に在らざるかのような彼岸の美に到達していたといって良い。
ジョージ・セルは1897年6月7日にハンガリーのブダペストで生まれたが3歳からヴィーンに移り住み、ヴィーンの音楽を身に受けて育った。事実、セルの様式感はヴィーンの伝統を受け継いでいる。このことはクリーヴランド管弦楽団の浮世離れした美感ゆえなかなか気づかれなかったようであるがハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの解釈にはヴィーンの流れをくむセルの揺るぎない様式感が打ち出されている。そうした古典様式の美学を踏まえて、セルはメンデルスゾーンやシューマンやブラームス、ワーグナーやブルックナーやマーラー、ドヴォルザークやチャイコフスキーなど、いわゆるロマン派の世界に乗り出していったのであり、そこにセルの神髄が見いだせる。第2次世界大戦後、アメリカでのみ可能な最高のメカニズムを実現して未曾有のザ・クリーヴランド・オーケストラが造り出されたが、それはヴィーンで培われたシンフォニズムに根差したものに他ならない。そして、クリーヴランド管とともに1970年に来日し素晴らしい演奏を聴かせてくれたが、セルは日本の演奏旅行から帰った直後の6月から心臓病で入院し、7月30日にクリーヴランドで没した。そういう演奏の透徹ぶりを目の当たりにして驚嘆した日本の聴衆にしてみれば何かが植え付けられたはずである。ヨハン・シュターミッツの指揮するマンハイム宮廷管弦楽団や、ハンス・フォン・ビューローの指揮するマイニンゲン管弦楽団は伝説の中に生きているけれども、セルとクリーヴランド管は科学的考察の下に絶対的美感を示しつつ生きながらえるであろう。レコードが、その証言となる。
ソ連の誇るヴァイオリニストであり世界のヴァイオリン界の巨星でもあったダヴィド・オイストラフ(David Oistrakh)は1974年10月24日にアムステルダムへの演奏旅行の折に、かねてからの持病の心臓病で死去した。66歳だった。このオイストラフは来日公演を通じて日本に大きな影響を与えたし、また音楽愛好家を大いに喜ばせもし日本にとっても親しい存在だったのである。オイストラフはオデッサの名教師ピョートル・ストリアルスキーに師事し、1926年に同地の音楽院を卒業した。その名を全ヨーロッパに知られるようになったのは、1937年にブリュッセルのイザイ国際コンクールで優勝してからだった。このオイストラフがはじめて日本を訪れたのは、1955年秋である。この当時は戦後10年を経過したわけではあったが、日本はまだソ連の楽壇の事情がよくつかめていないためにオイストラフの名は一部の愛好者だけに、よく知られているといった程度だった。その時オイストラフは47歳、器楽の演奏家として、まさに油ののっていた時期だった。その演奏を聴いて音色や技巧に難点がなく、音楽に新鮮な美感が漂っていたことに驚かされたのだった。オイストラフは、それから何回か来日した。そして、その都度、感銘の深い演奏を聴かせてくれた。このオイストラフのヴァイオリン演奏の大きな特色は、渋み溢れているということである。そこに盛られた温かいロマン性は、やはりオイストラフが年来持ち続けているものである。そしてオイストラフの演奏には、作品そのものが持つ様式からの離脱がない。そして、オイストラフの人間の誠実さと人情味が演奏という面に反映している。勿論、技巧だけにとらわれている演奏ではない。ありふれた言葉でいえば、深い精神内容がそこにある。そしてデリケートではあるが、線の細さを感じさせない。オイストラフは聴く人に音楽で訴えるわけだが、いわゆる後期ロマン派的な主情主義を尊重しているわけではない。ソ連では主情を表面に押し出した演奏様式が、かなり長い間に渡って幅を利かせてた。それをヴァイオリンの方面でいち早く打破したのはオイストラフだった。こうしたわけでオイストラフの演奏には、訴える力は強くあっても不自然さはない。それを、楽譜の読みが深い演奏と言ってもいいだろう。しかも、年齢とともに深味を増してきている。ここにオイストラフのヴァイオリン演奏家としての偉大さがある。確かにオイストラフが出現しなかったなら、ソ連のヴァイオリン音楽は現在あるものとは違っていただろう、オイストラフはソ連の新しいヴァイオリンの演奏様式を確立したばかりではなくて、1943年以来モスクワ音楽院の教授となり数多くの門下生にそれを伝えたのでもあった。それに加えて、その人柄と優れた演奏のゆえにソ連の数多くの作曲家から新作の献呈も受けもした。プロコフィエフ、ミヤスコフスキー、カバレフスキー、ラーコフ、ハチャトゥリアン、ショスタコーヴィチなどのヴァイオリン・ソナタや協奏曲には、オイストラフがいなければ生まれなかったものがある。
このチェロ奏者のムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(Mstislav Rostropovich)も、日本に馴染み深い演奏家である。1927年にアゼルバイジャンのバクーで生まれた。父レオポリドはバクー音楽院(後のモスクワ・グネーシン音楽学校)のチェロの教授だった。ロストロポーヴィチは、この父からチェロを7歳の時から学び始め、早くも10歳の時にサン=サーンスのチェロ協奏曲を演奏するようになった。15歳の時に父と死別し、その翌年にモスクワ音楽院に入学した。そして1945年の全ソ・コンクール、1947年のプラハでの平和友好祭コンクール、1948年のブダペストでの平和友好祭コンクール、1950年の「プラハの春」のチェロ・コンクールに、それぞれ第1位優勝している。ロストロポーヴィチはチェロを、まるでヴァイオリンのように自在に操って演奏する。言い換えると、ヴァイオリンで可能なことはチェロでも可能だということを具体的に示しているような演奏家である。しかも技巧だけの問題ではなくて、チェロから新しい表現世界を開拓したのでもあった。そのため彼の演奏は、これまでのチェロという観念を打ち破るような幅広い表現力さえも見せるのである。そして、いかなる細部においても練り上げられている。このロストロポーヴィチは1974年に予てからの希望でソ連を去り、西ヨーロッパに定住することにした。そして新しいレパートリーをつくりあげ、以前から意欲を見せていた指揮活動も積極的に行うようになった。オイストラフもロストロポーヴィチも独奏や指揮の他に、室内楽活動でも目覚しい業績を上げてきた。そうした室内楽的なデリケートな感覚があるからこそ、このブラームスの二重協奏曲で目覚ましい演奏を聴かせることになったのでもある。この名手たちをセルが手兵のオーケストラと巧みに絡み合わせてもいる。流石に完全主義的な大指揮者といわれるセルだけあった、2人の独奏者の音楽的な感覚を殺すことなく、それを存分に活かしながら全体の手綱を引き締めている。指揮者と独奏者との、そのあたりの駆け引きと呼吸の合わせ方も、やはり名人たちの芸術のうまみによるのだろう。
ヨハネス・ブラームス(1833-1897)は、交響曲を4曲残している。その最後の第4番の交響曲は、1885年に書き上げられた。それ以後もブラームスは旺盛な創作力を失ったわけではなくて、交響曲も機会があれば作曲したいという意欲を持っていた。そして実際に、新しい交響曲についてある程度の構想を立てていたようである。というのも、この二重協奏曲は元来、第5番の交響曲として設計されたものだったし、その後の1890年に完成された弦楽五重奏曲第2番(作品111)も、はじめは交響曲にするつもりで計画されたからである。ブラームスは、この二重協奏曲を1887年夏にスイスのベルンに近いトゥーンで着想し、そこでの避暑の間に完成した。ブラームスは、このトゥーンが気に入り、その前後の夏も、そこに滞在している。前年の1886年夏にはチェロ・ソナタ(作品99)、ヴァイオリン・ソナタ(作品100)、ピアノ三重奏曲(作品101)といった弦を生かした室内楽的な作品を、そこで書いた。これはベルンに友人で詩人のヴィトマンが滞在していて週末にはブラームスは、そこを訪れて新作を披露したり室内楽を楽しんだりしたので、ヴィトマン家での演奏に向くものとして作曲されたからでもあった。それと同時にアルプスの雄大な景色に囲まれたトゥーンはブラームスに弦を用いた、たっぷりと歌う曲を書かせる気になったのかもしれないし、1885年の第4交響曲の完成で気分転換をさせることになったのかもしれない。そして翌1887年になって、たまたま交響曲への意欲を燃やしたのだろう。ところが現実では、これは交響曲とはならず二重協奏曲の形になったのである。交響曲になる筈のものがヴァイオリンとチェロのための協奏曲に変更されたのは、当時ブラームスが年来の親友だった大ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム(Joachim József, 1831-1907)と不和になっていて、その相互に硬化した感情を、この際ヨアヒムに意見を求めながら書いて軟化させようと考えたことが大きな原因だった。ヨアヒムは歌手である夫人とブラームスが友情以上の関係にあるのではないかと誤解したばかりでなく、夫人の演奏活動も制限してしまった。そこでブラームスが夫人に慰めの手紙を書いたところ、この手紙を見たヨアヒムがますます嫉妬の情を募らせたのである。これが1880年頃である。それでもヨアヒムはブラームスの音楽には相変わらず好意的だったのでブラームスとしては、なおさら重い心を抱かざるを得なかった。こうしてブラームスは以前のヴァイオリン協奏曲の時のように、独奏ヴァイオリンの扱い方についてヨアヒムから色々と有益な忠告を受けることにした。
そしてチェロのパートについては、ヨアヒム弦楽四重奏団のメンバーである優れたチェロ奏者のハウスマンに何回となく意見を求めた。ブラームスはヨアヒムとの不和の原因がヨアヒム夫人のことにあったため、ここでヴァイオリンを優れた歌手である夫人に例え、チェロをヨアヒムに見立てて両者が仲良く進んでゆくように設計したもののようである。2人の共通の友人であるクララ・シューマンは、これをブラームスとヨアヒムの「和解の協奏曲」と評したことがあったが、この和解は実はヨアヒムと、その夫人のことも指していたのであろう。この曲の公開の初演は1887年夏にケルンで、ヨアヒムとハウスマンを独奏者、ブラームスを指揮者として行われた。そして、この曲の結果ブラームスとヨアヒムの関係は、かなりよりを戻した。然しヨアヒムは夫人をめぐる嫉妬をまたも募らせ、結局夫人の側から離婚の裁判が起こされ1882年に、この夫婦の間の離婚は成立した。このように交響曲の計画は二重協奏曲に変更したのだが、これについてはブラームスとしては前年の室内楽曲で満たしきれなかったものを、ここでやはりヴァイオリンとチェロを用いて音楽化してみるということで大きな抵抗は感じなかったのでもあろう。曲はアルプスの堂々とした風光に囲まれた土地で作曲されたためもあって、質実で威厳に富む。ブラームスは作曲した時の環境を、その作品に反映することが少なくなかったのである。その管弦楽はブラームスの30年間の管弦楽法の研究の成果を十分に示すかのように、極めて独自の渋くて重厚な音色を持つ。ここでは当時の風潮のリストやワーグナーをはじめとする大編成の色彩的な管弦楽に対立するかのようで、小さな編成が採られている。
全体的には、晩年の枯淡な思想や人生の悲哀感が込められていることも否定出来ない。これは作曲の年にトゥーンに到着してから、すぐに友人の音楽研究家フェルディナント・ポールが死去した知らせを受けて大いにブラームスが落胆したことと、また外科医で友人のビルロートが肺炎で危篤になり幸いにも一命は取り留めたが、ブラームスに人生の無情を感じさせたことなどと関係がありそうである。そうしたこともあり本来は明るい華麗な演奏効果を出して良さそうな曲種であるのに、この曲は長調ではなくてイ短調という暗い調性で書かれるようになったのである。曲はもちろん2つの独奏楽器と管弦楽が掛け合う曲であるが、バロック時代の合奏協奏曲に倣っているわけではなく原則的には、よくある独奏協奏曲の根本原理に基礎をおいて展開する。バロック時代の音楽に造詣を持っていたブラームスの作品だけあって、そこにバロック時代の音楽様式の復活といった面も当然になる。モーツァルトの時代に誕生した交響曲と協奏曲の中間に位置する、いわゆる協奏交響曲からの影響、それ以外にもフルートとハープのための協奏曲、ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための協奏曲の影響といったものも無視できないだろう。クララ・シューマン(1819〜1896)は日記に、この作品を聴いて書いた文章があった。「私にはチェロとヴァイオリンを独奏楽器として共に活かしまとめあげるのは必ずしもいいことには思えない。そしてまた楽器には光彩が乏しい協奏曲で、私には将来性を持つとは信じられない。これはヨアヒムとブラームスが長い疎遠のあとで、またお互いに話をするようになった極めて興味のある曲だろうが、ある意味で和解の曲以上とみなすほどには、この曲には新鮮な温和な音楽でしか無い。」クララ・シューマンはピアニストとして曲を評価した意見を表明する結果になったが、本当にこの曲に将来性が乏しかったかどうかは結論しないが結果としては現在でも演奏される機会が少なく、数ある楽器の中で最も旋律的な音楽表現に富むヴァイオリンとチェロとを対等に扱い、さらにこの2つの楽器に高度の技巧を要求しているところから、この協奏曲は呼吸の合った高度な技術を持った2人の独奏者を迎えなければ曲本来の価値を発揮しないのである。この曲が二人の独奏者揃って素晴らしく演奏された時の感動は得難いものである。なお、この曲は管弦楽を用いたブラームスの最後の作品となった。
ヴァイオリン協奏曲は1968年4月、5月、二重協奏曲は1969年5月クリーヴランド、セヴェランス・ホールでの録音。レコード芸術、ステレオ芸術、朝日新聞試聴室推薦盤。2枚組。
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