ピアノ一台でオーケストラの迫力がある ― うまい表現が見つかりませんが、マルタ・アルゲリッチは楽器として持っているピアノの能力をフルに使って、彼女自身の音楽を紡ぎだしている演奏家で、アレクシス・ワイセンベルクは「これはピアノか?」と思える、不可思議な感動を呼ぶ異質なものです。ワイセンベルクはデビュー後19年もの長い期間を活動を休止し、研鑽を重ねています。そして、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカによる三楽章」で再デビューを果たし、大成功を収めました。ワイセンベルクのピアノは一音一音、精密な彼のコントロールが行き届いている。音の長さ、強さ、次の音への引き継ぎ方は、感情のままに情熱的に、というタイプではない。聴き手はどこまでが彼の抑制、制御でどこからが彼の熱い思いなのかの見極めが着かなくなる。それで結局は一曲全体が、これがワイセンベルクだという世界に引きずり込まれる。ヨアヒム・E.ベーレント著、由井正一訳の「ジャズ その歴史と鑑賞」の一節に、
音楽は普通メロディ、リズム、ハーモニーの3要素で成り立つと言われる。しかしジャズにおいてはもう一つサウンドというのが大切なのである。楽譜に音価として書かれている、メロディ、リズム、ハーモニーを、そのとおり演奏すれば同じものになる。これが再現音楽としてのクラシック音楽の理想とするところですが、その同じ音符で演奏していても演奏者が変わると別の音楽になる。実はそこに、今のところは演奏者の個性の全てが表れると言ってもいいくらいだと思う。それにしても、ワイセンベルグはどのようにも、ピアノが弾けた人だった。超絶技巧で名を馳せたワイセンベルクですが、何よりその音色に魅せられています。どこまでも透き通っていて冷たいその音色は、まるで絶対零度の宇宙空間に浮かぶ透徹なクリスタルの如きで、そこに超絶技巧が加わるのだから、音楽は基本的に何を弾いても極めて怜悧なものになる。本盤は、ワイセンベルクが充電から復帰した翌年の録音。2曲のピアノ協奏曲以外にショパンが書いたピアノと管弦楽のための作品をすべて収めています。硬質で透明な音色、洗練された演奏は、その後の世界的名声を納得させるもの。スタニスワフ・スクロヴァチェフスキは求心力が大きく、パリ音楽院管弦楽団とともに美しい演奏を披露。この演奏を聴いて、これがショパンかと言う人は数多くいるだろう。そういう点では非常に好みが分かれるところだが、この冷たい響きのショパンが、何とも言えない。ショパンは1830年、20歳のときにポーランドを発ち、ウィーンを経てパリに住み、ついに2度と故郷の土を踏むことはありませんでした。たくさんの恋がパリで生まれ、たくさんのピアノ曲がパリで作曲されました。ワイセンベルクは、凡庸な演奏家が思い入れをこめて歌うところで、むしろ悲しみに似た抑制をもって音楽を確かめる。機械的に弾き流すところで、楽しそうに歌をうたう。ワイセンベルクとスクロヴァチェフスキは、ショパンのピアノ協奏曲2曲も同時期に録音しており、高いテンションに貫かれた両者の演奏は、思わず襟を正したくなる見事さです。
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非情な状況の中、ショパンの音楽を守るように弾いた、映画「戦場のピアニスト」と重ねてしまいたくなるピアニストが、ここにも一人いる。彼もまた、ユダヤ系の家系に生まれピアニストとして生涯を送った。母がピアニストだったので、幼い頃から音楽に親しみ、3歳からピアノを習っていたアレクシス・ワイセンベルクは、8歳の年にはコンサートで演奏している。それは1937年、つまりはヒトラーのナチスが暴虐の限りを尽くしていた時代に少年期を過ごした。1941年、アレクシス少年が育ったブルガリアはナチス・ドイツと同盟を結んだ。彼の母は息子とともにトルコへ亡命しようとするが失敗し、強制収容所へ入れられる。収容所でアコーディオンを弾いていたら、音楽好きのドイツの将校に気に入られ、その将校は母子を駅に連れて行き放置した。つまり逃がしてくれたのだ。こうしてこの未来の大ピアニストはホロコーストの犠牲にならず、トルコを経て、イスラエルへ移住した。第二次世界大戦が終結すると、ワイセンベルクはニューヨークのジュリアード音楽院で学ぶことになり、渡米する。その時、イスラエルでのワイセンベルクの師だったレオ・ケステンベルクは、ニューヨークにいるウラディミール・ホロヴィッツとアルトゥル・シュナーベルへの紹介状を書いてくれた。ワイセンベルクは1947年にレーヴェントリット・コンクールで優勝、フィラデルフィア管弦楽団のコンクールでも1位を取るなど、華々しいスタートを切るが、これはホロヴィッツがウィリアム・スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団とのコンサートをキャンセルし、代役にワイセンベルクを推薦したので実現したものだった。次から次へとコンサートのスケジュールが組まれ、「自分がこなせる量より、演奏会の予定が20も多くなる」状況となった。1956年、彼は「自分自身を深く見つめ、ひたすら自分の勉強に打ち込みたかった」と、「隠遁」してしまう。ちょうどこの時期、ホロヴィッツもまた長い隠遁生活に入っていた。ワイセンベルクはアメリカを離れ、コンサートもしなければ、レコーディングもすることなく、パリで暮らすようになっていたワイセンベルクは、1965年に映画に出た。これがストラヴィンスキーの「ペトルーシュカによる三楽章」の映像化で、ワイセンベルクが自ら説明するには、「あらゆる角度から、弦を通して撮影し、下からも上からも撮影できるように、ピアノを部分的に取り外す」などの手法で撮った、1960年代の前衛的な映像の一つとなった。映画で演奏したのを引鉄に1966年1月、パリでリサイタルを開いて成功した。そして翌67年春には、ニューヨーク・フィルハーモニックのコンサートで、スタインバーグの指揮のもとラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」を弾いた。これはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリがキャンセルしたため、スタインバーグの求めに応じた復帰という形になった。さて、映画「ペトルーシュカによる三楽章」のピアニストを協奏曲のソリストに起用してみようと注目していた、ヘルベルト・フォン・カラヤンは、ワイセンベルクとチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」の映画の撮影を行い、1967年9月、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のシーズン最初のコンサートにワイセンベルクは登場した。ついに、ワイセンベルクの長い隠遁生活に終止符が打たれ、カラヤンとの蜜月が始まり、ピアノ協奏曲の名曲の数々が録音された。
- Record Karte
- アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 作品22、「ラ・チ・ダレム・ラ・マノ(お手をどうぞ)」の主題による変奏曲、ポーランド民謡による幻想曲 イ長調 作品13、ロンド「クラコヴィアク」 ヘ長調 作品14、1967年9月パリ、サル・ワグラムでのステレオ(アナログ/セッション)録音。Producer - Michel Glotz, Balance Engineer - Paul Vavasseur
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