大器晩成の作曲家エドゥアール・ラロ〜スペインの血の共鳴と、サラサーテのヴィルトゥオージが協奏曲へのモチベーションを与えたラロの出世作。 ― 1823年といえば、ワーグナーが10歳、シューマンとショパンが13歳の時である。この年、ラロはスペイン系の血を引いてフランスのリールに生まれた。パリ音楽音でヴァイオリンと作曲を学んだが、彼が作曲家として知られるようになったのは50歳近くなってからのことで、その点で彼は大器晩成型の人であった。そこで彼は成功するまではアルマンゴー(Jules ARMINGAUD, 1820〜1900)=ジャカール(Léon JACQUART, 1826〜1886)弦楽四重奏団のヴィオラ奏者をつとめたり、サロン風の音楽を作って糊口をしのぐ有様だった。ラロが作曲家として認められた作品は、オペラ=リリック座のコンクールに入賞した歌劇「フィエスク」からのバレエ音楽『嬉遊曲』(1872年)だが、当時の欧州楽壇に名声を轟かせたスペイン生まれの大ヴァイオリニスト、パブロ・デ・サラサーテ(Pablo de Sarasate y Navascuéz, 1844〜1908年)のために書いた「ヴァイオリン協奏曲第1番ヘ長調」(1872年)が1874年にサラサーテによって演奏され、それが大好評を博したことは、彼にとって大きな転機となった。ラロはそれに力を得て、翌年には再びサラサーテのために「スペイン交響曲」を作曲して捧げたが、これは1875年2月7日、コンセール・ポピュレール演奏会(クラシック音楽大衆演奏会, Concerts populaires de musique classique)に於ける初演で同じくサラサーテが弾いて素晴らしい大成功を収め、一晩にしてラロの名は器楽作曲家として不動の地位を得たのである。その後、彼は歌劇「イスの王」、「チェロ協奏曲」等の傑作を書いているが、最も広く知られているのは「スペイン交響曲」であって、彼の作曲家としての成功の裡に、大ヴァイオリニスト、サラサーテの力が授かって大であることは見逃すことが出来ない。本盤はユーディ・メニューインの古典的様式感の手堅いヴァイオリンの歌わせ方と、エキゾチックなユージン・グーセンスの解釈で、面白いコントラストを聴かせる。伴奏が破天荒にはじけていて、荒馬を御しているのはメニューインの図柄。ワクワクさせる「スペイン交響曲」の一つの公準とみなすこともできるでしょう。
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この曲が何故「ヴァイオリン協奏曲第2番ニ短調ニ短調」と呼ばれないで、「スペイン交響曲(Symphonie espagnole)」と名付けられたかは分からない。普通の協奏曲と違って5楽章から出来ているばかりでなく、独奏者の技巧を誇示する長大なカデンツァがない。そして第1楽章こそソナタ形式だが、全体は組曲風だし、また交響曲と言うには独奏ヴァイオリンが管弦楽に融け込んでいない。むしろ逆にヴィルトゥオーソ風の華やかな技巧を十分に発揮させるように書かれている。というわけで、組曲でも協奏曲でも、もちろん交響曲でもないが、そこは重味をつけ印象を強くさせるために交響曲という名を持って来たものだろう。言うまでもなく、その名の示すようにスペイン風のリズムと独特の節回しを使っている上に、サラサーテのために書いた曲だという点も含みに入れて、斯くして「スペイン交響曲」が誕生したのであろう。随所にスペイン的な主題が使われ、フランスにおけるスペイン趣味の流行の前触れを告げ、初演はビゼーの歌劇《カルメン》の初演に先立つこと実に1ヵ月であった。また、チャイコフスキーがヴァイオリン協奏曲ニ長調(1878年)を書く際に、その民族色豊かな内容や音楽構造を研究し参考にしたと言われている。19世紀から20世紀前半までは、第3楽章「間奏曲」をカットする習慣が続いたが、20世紀後半にユーディ・メニューインなどが全曲演奏および全曲録音に着手してから、現在ではカットなしの演奏が一般化している。サラサーテの華麗な名人芸は、チャイコフスキーやブラームスなどにも影響を与えた。8歳のときに初めての公演をし、10歳のときにスペイン女王イサベル2世の前で演奏を披露し、その後パリ音楽院で学び、13歳のときヴァイオリン科の一等賞を得たサラサーテは、1860年代ごろから演奏家としての活動を始め、1865年には一番初めに仲良くなったサン=サーンスと演奏旅行をした仲で、サン=サーンスはサラサーテに『序奏とロンド・カプリチオーソ』、『ヴァイオリン協奏曲第3番』などを献呈している。サラサーテはまた、ブルッフの『ヴァイオリン協奏曲第2番』、『スコットランド幻想曲』の初演者かつ献呈先でもある。ヴァイオリン協奏曲と公称されたラロの作品は《第1番ヘ長調》があり、交響曲と公称されたラロの作品は、サー・トーマス・ビーチャムに愛された《交響曲ト短調》のみ。
20世紀有数のヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインのレコードを聴きこむとき、まず考えておかなければならないことがある。メニューインは、ベラルーシから移民してきたユダヤ系ロシア人を両親に1916年、ニューヨークに誕生。早くからヴァイオリンに興味を示し、10歳代前半ですでに海外でも活動を開始するなど、天才少年として大きな注目を集めながら演奏を続け、戦後まもなくキャリアの頂点を極めることとなります。またメニューインはヒューマニストとしても知られており、戦時中は連合軍のための慰問活動を熱心に行い、戦後は、アメリカ楽壇の顰蹙を買いながらもヴィルヘルム・フルトヴェングラーを擁護、イスラエルから受勲したときも、演説でパレスチナへの占領活動を非難するなど、人権に対する公正な考えを常に示しており、欧米では大きな尊敬を集めてもいました。彼は解釈しない典型的な演奏家で、メニューインの演奏はどの曲も明確なアーティキュレーションで、決してヴィルトゥオーゾ的な技巧や美音の魅力に溢れた演奏でもないが、彼のインド行から10年を経た1960年代、メニューインの音楽が次第に穏やかなものに変化していくのがよくわかる。メニューインは「神童」や「巨匠」といった言葉で語られてきたが、今あらためて聴き直してみると独特の味わいはあるのだけれども、技術的には今の若手のトップ・クラスの方がうまい。1960年代はレコード録音史の上で最も収穫のあった時期で、世代交代や価値観の転換など新鮮で興味深い出来事が次々に起こっていた。もちろん、演奏というものは常に時代を反映して塗り代えられていくもので、それは今日でも変わらない。時代を先取りしていく才能ある演奏家はいつでもいるが、1960年代は戦後の新しい世代の台頭がステレオ再生装置の普及と高度経済成長の波に乗って、正に百花繚乱の観があった。巨匠時代の終焉が「1960年代」なのですが、1970年代末にCDが登場。程なくして平成バブルを迎えると1960年代の録音を聴き直す人は少なかったと思います。「温故知新」を求めて「1960年代」の演奏を聴くということの意味は当時もありましたが、今では、更に積極的な意味があるかも知れません。
ユーディ・メニューインの初期盤は、余りにも発売枚数が多すぎて、当時の音楽ムーブメントで期待が高かったことで、レコード会社の意気込みが伝わる。それが現在の中古レコードの世界では、この優れた演奏に対して 低い評価 ― 価格が安い ― がなされているのは良質の盤に出会いやすいことでは幸いをもたらした。戦後同世代のヤッシャ・ハイフェッツらと共にヴァイオリニストとして名声の頂点を極める。また、メニューインはヨガや菜食主義を実践し、健康管理を怠らず壮年期になるまでソリストとしての活動に取り組んだ。その証左として膨大な音源が英EMIに録音された。ゴージャスを尽くしたセッション環境での演奏は申し分なく、本盤もメニューインの松脂が飛び散っています。強い精神が本盤でも随所に聴けます。いずれも地味だが、なかなかの好演。やや固い締まった響きで音楽の運びはオーソドックスだが独特のバランス感覚を持ち合わせた演奏です。19世紀までは聴衆にも、各地の演奏家にも有名演奏家が演奏旅行をするときにレパートリーとして貰うことで広まっていった作曲家の名声。20世紀になるとラジオで自作が演奏されるのを楽しむ様になった。英国を代表する、この作曲家は、そうしたメディアの時代に乗り合わせ国際的に評価を受ける存在になっていく。マイクロフォンの登場を受けて、エルガーは彼自身の指揮で数多くのレコードを残した。1932年、当時16歳のメニューイン少年は、エルガーの指揮により《ヴァイオリン協奏曲》の録音をアビー・ロード・スタジオにて行った。当初、この曲はエルガーがフリッツ・クライスラーに献呈したもので、クライスラーとの録音を考えていたのだが、都合がつかず、急遽このメニューインに白羽の矢が立てられたのだった。黎明期の英EMIのヴァイオリンもののレコードは、必ずと言っていいほど、この英国に帰化してサーと男爵の称号を得たメニューインが登場する。アメリカで経済的に困窮していたハンガリー人亡命者べラ・バルトークを助け、「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ」を献呈され、ユダヤ系ながら第2次大戦後のドイツとの和解を訴え、ナチス協力者の烙印を押されていたヴィルヘルム・フルトヴェングラーと共演して彼の無実を擁護した。それが米国ユダヤ人社会の逆鱗に触れ、米国で支配的だったユダヤ人音楽家社会から事実上排斥されて欧州へ移住する運命となった。第2次大戦は欧州から米国へ移り住む多くのユダヤ人音楽家を生んだが、英国からドイツに出向いてフルトヴェングラーとの共演録音をしているのは彼ぐらいのものだ。フルトヴェングラーがフィルハーモニア管弦楽団を指揮したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。全曲が泰然としたテンポで進み、これだけオーケストラが立派な演奏は少ない。独奏がこれほど気品と風格にあふれ、古典派演奏の枠を超え人間味の限りをつくした温かさが伝わる。メニューイン全盛期のテクニックが冴えわたるが機械的でなく、いつも知性と人の温もりを感じる。技術的には今の若者が優れているし、日本での評価が欧米より低いと思うが、音楽は楽譜に書いてある通り正確に音を出せばいいというものではなく、聴く者の心に深くこだまして納得感や感動という心の動きを作り出すのは題材にのって運ばれてくるその人の人間性の方だと思う。
ヨハン・ゼバスティアン・バッハのオルガン曲をエルガーがオーケストラ番に編曲した《幻想曲とフーガ》を初演したり、シドニー交響楽団のホールにその名が付いているサー・ユージン・グーセンス(Eugène Aynsley Goossens, 1893.5.26〜1962.6.13)は、ロンドン生まれ。3代続きの指揮者家系の出で、作曲家としても活躍した。名オーボエ奏者として有名なレオンは弟に当たる音楽一族。英国王立音楽院でヴァイオリンと指揮を学び、ビーチャムの下でアシスタントを務めた。1921年に「春の祭典」を英国初演するなど活躍。後に渡米して1931〜1946年の間シンシナティ交響楽団の首席指揮者、1947年にはオーストラリアのシドニー交響楽団の初代常任指揮者に迎えられ、同響の発展に寄与した功績によりサーの称号を得た。ところが1956年にポルノ写真を国外に持ち出そうとして空港で逮捕され、名声に傷が付く一幕も。だがオーケストラを大きく鳴らす能力は本物で、「ローマの祭」(1958年)などド迫力。リズムは少々危なっかしいが、当時の指揮ぶりを偲ぶなら得意の「春の祭典」(1960年頃)も面白い。1921年に「春の祭典」のイギリス初演を行なったのはグーセンス指揮ロンドン交響楽団でした。「春の祭典」は今日でこそ20世紀屈指の名作として親しまれていますが、1959年当時は録音の数も少なく、不協和音と野蛮なリズムに満ちた現代音楽として恐れられていました。それもあってか、イギリスの著名な音楽評論家から、史上最も不器用な「春の祭典」の録音を残した男と言われたグーセンス。しかし、この演奏は今日の耳でも、鮮度の高さ、情報量の多さ、分離、音場感の明快さに加え、物凄いエネルギーに満ちた名録音です。
℗1959, 1956年録音
YIGZYCN
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