34-15792
商品番号 34-15792
通販レコード→英ラージ・ドッグ・セミサークル金文字盤[オリジナル no stereo available]
スーパーヴィルトゥオーゾ(ニューヨーク・タイムズ) ― 日本での知名度は無名ピアニスト然とした扱いされるアビー・サイモンだが、ジョン・バルビローリ、ヨーゼフ・クリップス、ジョージ・セル、ラファエル・クーベリック、アンタル・ドラティ、カルロ=マリア・ジュリーニ、小澤征爾、ズービン・メータなど錚々たる共演歴を誇る。1940年、ナウムバーグ国際ピアノコンクールで優勝。ニューヨーク・タイムズに〝Supervirtuoso〟と紹介され、主にVOX、HMVにショパンとラヴェルのピアノ協奏曲と独奏曲全集の他、ブラームスとシューマンの主要作品のレコーディングを行い現在に至る。2016年のバレンタイン・デーに事故に遭い、右手の骨を折ってしまったが、一年の療養を経て97歳にして表舞台に復帰した。アメリカのピアニストで派手ではないが、ボールドウィン(Baldwin)ピアノで録音されていて、柔らかくふくよかな低音、音色変化の幅の広さが特徴的です。ボールドウィンは現在も続く数少ないメーカーの一つ。アメリカにピアノを普及させた立役者の一つ。創始者ドワイト・ハミルトン・ボールドウィン(1821〜1899)は、「普通の人々が真面目に働き、理想を追求した結果として生み出されたもの」であると、自らのメーカーのピアノを評していたという。彼はもともと音楽教師だったが、1873年にボールドウィン・ピアノ会社を設立しピアノ販売に力を入れる。1891年からはピアノ製作を開始し、第1号のグランド・ピアノが生まれたのが1895年だった。ところが1899年、ボールドウィンが死ぬと敬虔なキリスト教徒であった彼は、その資産を全て教会に寄付してしまった。この時会社は当然倒産の危機に瀕した。しかし経理を担当していたルシアン・ウルシンが、ジョージ・アームストロングと共に会社を買い取り存続へと至ったのである。彼らのボールドウィン・ピアノは1900年のパリ博覧会ではグランプリを受賞し、1920年代にはアメリカの有名なメーカーとなった。そして現在も世界中で美しい音色の楽器として愛されている。5年に満たない期間で歴史を閉じてしまったかもしれないボールドウィン・ピアノには熱心な有名ピアニストがいる。往時のボールドウィンはホルヘ・ボレット、アール・ワイルド、アビー・サイモン、アンドレ・ワッツ等々と引っ張りだこで潤っていた。楽器別でピアニストの演奏を聴き比べるのも楽しいものです。なかでもホルヘ・ボレットは、その対象に適している。ボレットはベヒシュタインも弾いていますが、ドビュッシーやメンデルスゾーンなどではボールドウィンを使用しました。
リスト:パガニーニによる大練習曲、フランク:前奏曲・コラールとフーガ、シューマン:アベッグ変奏曲。1959年録音。モノラル盤のみ。
GB EMI ALP1719 アビー・サイモン リスト&シュ…
GB EMI ALP1719 アビー・サイモン リスト&シュ…
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「ピアノのストラディバリウス」と呼ばれるほどの名器で、最高のピアノの代名詞であるベヒシュタインも、創業からの長い年月の中で度重なる苦難の歴史があった。1929年には世界恐慌で打撃を受け、さらに第二次世界大戦で工場が破壊されるなどしたため設計図やその他の重要な資料はもとより、熟練した職人などそのほとんどを喪失した。また、ヒトラーがベヒシュタインを「第三帝国のピアノ」としていたことで第二次大戦中ナチス・ドイツに協力したとして、戦後はドイツ人のナチズムからの脱却とともにその栄光の座から退いていくこととなった。それを救ったのがボールドウィンだった。戦後、アメリカのボールドウィン社に買収され、そのブランドは1962年にアメリカ資本で復活した。その結果、ベヒシュタインはかつてのクオリティを保つことが出来ず、戦後、多くのコンサートホールやリサイタルから、その姿を消してしまった。しかし1986年にボールドウィンからドイツ人のピアノ製造マイスターであるカール・シュルツェに経営権を買い戻され、再びドイツ国内で生産されるようになった。その後は資本増強を積極的に行い、1997年には株式会社(C. Bechstein AG)となり現在に至っている。ベヒシュタイン・アーティストはフランツ・リストに始まり、クロード・ドビュッシーからアルトゥール・シュナーベル、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヴィルヘルム・ケンプ、ヴィルヘルム・バックハウス、ヴァルター・ギーゼキングと、このブログのお馴染みが並ぶ。ホルヘ・ボレットが奏でる1970年代から80年代にかけてデッカから出された一連のリスト作品集、ショパン、シューベルト、小品によるアンコール集などでの信じられないほどに多彩で輝きに満ちた美しい音は、他のピアノでは聴いたことのない音だ。ボレットはベヒシュタインとともにボールドウィンを愛用していて、デッカ録音でもドビュッシーの録音に使用している。ボレットはデッカに数々の録音を行う以前にボールドウィン・アーティストとしてRCAでリストの『作品集』の録音を行ったが、その当時もボールドウィンを使っていたとされる。チェコの名手イヴァン・モラヴェッツはコンサートではチェコの名機であるペトロフを弾くこともあった。最近の録音ではほとんどがハンブルク・スタインウェイによるものだが、1960年代に米国に渡って録音してモラヴェッツの名を世界に知らしめたドビュッシーの作品にボールドウィンが使用されたものとして知られる。
ところで、ドビュッシーの『前奏曲集』は様々な種類のピアノで演奏される機会が多い。フリードリヒ・グルダや、イェルク・デムスなどのウィーンのピアニストたちはベーゼンドルファーで弾いていて、ジョス・ファン・インマゼールは1897年製エラールで『前奏曲集第1巻』を弾いている。アルフレッド・コルトーもおそらく『前奏曲集』ではプレイエルを使い、その弟子の遠山慶子もプレイエル・ガヴォー時代の1962年製のピアノで演奏。ドビュッシーの『前奏曲集第1巻』を、デジタル録音で残している。また遠山はドビュッシーの『6つの古代碑銘』を、特にジャケットで製造年が記されていないプレイエルで演奏している。この録音が1989年なので、比較的新しい製造年のピアノと思われる。それらはルノアールの絵画にも例えられる柔らかなヴェールと、まろやかで繊細さを兼ね合わせた音色を見事に生かした演奏になっている。
重厚な低音、美しい中域音、そしてきらめくような高音。これらすべてを持ちあわせたピアノが私の理想ですが、ついにそれが実現しました。このピアノは繊細かつ鮮やかな演奏を可能にしてくれます。
YAMAHA CF Series への賛辞 ― アビー・サイモン
アビー・サイモン(Abbey Simon, 1922〜)はアメリカ合衆国のピアニスト。アメリカ生まれ。5歳でピアノを始め、カーティス音楽院にてジョセフ・ホフマンに師事。卒業後すぐにカーネギーホールにてデビュー。18歳でナウムバーグ国際ピアノコンクールで優勝。ニューヨーク・タイムズに〝Supervirtuoso〟と紹介され、その後数々の演奏活動、教育活動、レコーディングを行い現在に至る。
ロベルト・シューマン(Robert Alexander Schumann)は、 1810年6月8日にドイツのツヴィッカウに生まれました。5人兄弟の末っ子で出版業者で著作もあったという父親のもとで早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作に豊かな才能を示したといいます。ロベルト16才の年にその父親が亡くなり安定した生活を願う母親の希望で法学を選択、1828年にライプツィヒ大学に入学しますが音楽家への夢を捨て切れず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークに弟子入りします。作品番号1の『アベック変奏曲』が出版されたのは、同年のことです。翌31年からはハインリヒ・ドルンのもとで正式に作曲を学び始め、手を痛めて(指関節に生じた腫瘍が原因とされています)ピアニストへの夢を断念せざるを得なかったこともあり、作曲家、そして音楽評論家への道を選びます。シューマンは、まずピアノ曲の作曲家として世に知られました。作品番号1番から23番まではすべてピアノ曲で占められます。1834年の夏、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛から、『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれました。その後、ピアノの師ヴィークの娘で名ピアニストだったクララ・ヴィーク(シューマン)と恋に落ち、婚約しますが、ヴィークはこれに激しく怒り、若い2人はつらい日々を送ったとされています。『幻想小曲集』、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』、『子供の情景』などの傑作は、そのような困難の中で作曲されました。1839年、シューマンとクララはついに裁判に訴え、翌40年に結婚が認められました。この結婚をきっかけに、それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンは歌曲の作曲に熱中、1840年からのわずか1年ほどの間に、『詩人の恋』、『リーダークライス』、『女の愛と生涯』など、幼少期からの文学的素養とピアノの天分とが結びついた傑作が次々と作曲され、この1年は特に「歌の年」と呼ばれています。1841年からは一転してシンフォニーの創作に集中、「交響曲の年」と呼ばれるこの年には、実際にはシューマン初めてのシンフォニーである第4交響曲の初稿、交響曲第1番『春』を作曲。このうち『春』は、3月31日に親友フェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によって初演され、大成功をおさめたとされています。1842年には『ピアノ五重奏曲』など室内楽曲が集中、翌43年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれています。1844年、ドレスデンに移住、傑作『ピアノ協奏曲』が作曲されますが、この頃から徐々に、青年期に罹患した梅毒に遠因があるとされる、精神的なバランスの不安定が顕れはじめ、その危機を逃れる目的もあってJ.S.バッハの研究に没頭、オルガン作品にその成果を残しています。
1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲。1848年、唯一のオペラ『ゲノフェーファ』を作曲。1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住、デュッセルドルフの明るい風光がシューマンの精神に好影響をあたえたといわれ、それを実証するように、交響曲第3番『ライン』や『チェロ協奏曲』、多数の室内楽曲を作曲、交響曲第4番の改訂がおこなわれ、大規模な声楽曲『ミサ曲ハ短調』や『レクイエム』が次々と生み出されます。しかし、1853年11月には楽員との不和から音楽監督を辞任、あまりにも内向的なシューマンの性格に原因があったとされています。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品ですが、クララやヨーゼフ・ヨアヒムなど、周囲から演奏不可能であるとされて公開演奏も出版もおこなわれず、ゲオルク・クーレンカンプによって1937年に初演されるまで埋もれたままになっていました。若きヨハネス・ブラームスがシューマン夫妻を訪問したのは、1853年の9月30日のことでブラームスは自作のソナタ等を弾いて夫妻をいたく感動させます。シューマンは評論「新しい道」でこの青年の才能を強く賞賛します。このブラームスの出現は晩年のシューマンにとって音楽の未来を託すべき希望であったとされていますが、一方では妻クララとの不倫疑惑に悩まされるという相反する感情を生じてしまい、この希望と絶望が、シューマンの精神に決定的なダメージを与えたとされています。1854年に入ると病は著しく悪化、2月27日、ついにライン川に投身自殺を図ります。一命をとりとめたものの、その後はボン・エンデ二ッヒの精神病院に収容され回復しないまま、1856年7月29日にこの世を去りました。精神病院で常に口にし、また最後となった言葉は「私は知っている。(Ich weis)」であったと言われています。作曲家兼指揮者として活躍したシューマンですが、評論家としての功績も忘れるべきではないでしょう。1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当、1836年には主筆となり、1844年に至るまで務めます。これに先立つ1831年、同い年のフレデリック・ショパンの才能をいち早く見出した「作品2」と題された評論の中の「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」という言葉はあまりにも有名。その他にも、メンデルスゾーンを擁護し、バッハ全集の出版を呼びかけ、若き日のブラームスを発掘したのも、エクトール・ベルリオーズをドイツに紹介したのもシューマンでした。特に、フランツ・シューベルトの埋もれていた「天国的に長い」ハ長調交響曲『グレート』を発見したことは、音楽史上の大成果と言えるでしょう。
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