1956年の「モーツァルト・イヤー」を記念して発売されたLP。 ― 生誕200年を記念したモーツァルト・イヤーの1956年。この年はモーツァルティアンには、嬉しい年だ。3月のニューヨークでは、モーツァルトの十字軍であるブルーノ・ワルターによる一連のコンサート並びにオペラ上演が開催されました。米CBSはロベール・カザドシュとジョージ・セル&クリーヴランド管弦楽団でピアノ協奏曲選集を録音開始し、室内楽のレコードを表看板としていたウェストミンスターは弦楽四重奏曲をコンプリートして面目躍如。4大オペラは大手レーベル各社から目白押し。英デッカはエーリッヒ・クライバー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で「フィガロの結婚」、蘭フィリップスはカール・ベーム指揮ウィーン交響楽団で「フィガロの結婚」、ヨーゼフ・クリップス指揮ウィーン・フィルの「ドン・ジョヴァンニ」。フェレンツ・フリッチャイは「魔笛」をベルリンRIAS交響楽団と独ドイツ・グラモフォンで。催事やレコーディングだけでなく、モーツァルト生誕200年イヤーに南ドイツのバート・テルツで結成されたテルツ少年合唱団は約200人ほどで構成され、有名なオーケストラや指揮者たちと共演、ファンを魅了し続ける「バイエルンの天使」。2006年の生誕250年は、それ以上の期待で胸だけ大きくふくらんだままで、湯の屁のようなクロスオーヴァーや、コンピレーションものばかりがリリースされるだけで、ドイツ・グラモフォンが50年前にモーツァルトの生誕200年を記念してリリースしたスペシャル・ジュビリー・エディションを復刻したことだけが大本命となった。モーツァルトの葬儀が行われたシュテファン大聖堂での1955年の式典をレコード史上初のライヴ録音したオイゲン・ヨッフム指揮ウィーン響「レクィエム」を筆頭に、バイエルン国立歌劇場管弦楽団を振ってフリッチャイがドイツ・グラモフォンに残したオーケストラ作品全録音をメインに、ルドルフ・バウムガルトナー指揮のルツェルン祝祭合奏団で、ミエチスラフ・ホルショフスキが弾いた「ピアノ協奏曲第14番変」など。これは良かった。たくさんの大作曲家の中で、モーツァルトというのは全く別格の人気を誇っていたことの顕れのようなものですが、と同時に現代的モーツァルト演奏へと変化する節目となるのです。1953年からシカゴ交響楽団の音楽監督に就任したフリッツ・ライナーは、米RCAと専属契約を結び、最初のシーズンの後半に録音を開始しました。1954年3月にはステレオ史上画期的な録音といわれるリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』『英雄の生涯』の録音を成し遂げ、そのほぼ2ヶ月後のセッションではモーツァルトの後期交響曲4曲が立て続けに収録され、モーツァルト生誕200年記念の1956年に2枚組LPとして発売されました。同様に1956年に発売された名曲『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』と『ディヴェルティメント第17番』では、シカゴ響の弦楽セクションの見事さを刻印した名演です。
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特に、逞しさと軽やかさを兼ね備えた低弦群が凄い。チェロの首席は、メトロポリタン歌劇場から移籍のヤーノシュ・シュタルケルが座っている。悪かろうはずがない。彼が就任した当時のシカゴ交響楽団は虚名のみあって沈没寸前のオーケストラだったとあるが、フリッツ・ライナー就任直前、ジュリアス・ベーカー(フルート)ら、多くの名手が退団したことによる。前任のラファエル・クーベリックを慕ってのこととして、本音はライナーを嫌っていたのかもしれないが、早速ライナーは、ヴィクター・アイタイ(コンサートマスター)、シュタルケル、レオナルド・シャーロー(ファゴット)といった優秀な楽員を引き連れてきた。〝弾丸ライナー〟という言葉があったように、ライナーのテンポは滅法速い。しかし、その飛び去るごとくの音をライナーの耳がキッチリ捉えているので、少しも弾き飛ばした感じにならない。いやはや、驚異的な耳である。沸き立つようなリズムが素晴らしい。現代的モーツァルト演奏を予言している。ステレオ録音の黎明期だったので、モーツァルトの交響曲第41番『ジュピター』のみはステレオ・テイクを同時収録しています。1953年10月6日に、レオポルド・ストコフスキー指揮の管弦楽団による演奏で、エネスコ作曲「ルーマニア狂詩曲第1番」ほかを2チャンネル・ステレオ録音で初めますが、ステレオ・レコードを発売するのは1958年6月まで待つことになります。〝ステレオ史上画期的な録音〟といわれるから、直後にステレオ・レコードで発売された。と思い込んでしまいますが、1955年に、2チャンネル・ステレオ・テープで発売されて、ステレオ録音を紹介するものです。また45回転のEP盤を初めて実用化したRCAだけに、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』はドーナツ盤での発売がある。本盤が英EMI発売となっているのも、1956年に提携関係にあった英EMIが米キャピトルを買収したため、同社との提携関係が切れたためによる。以後、同社のヨーロッパでの発売は英デッカを通じて発売されることとなる。
20世紀オーケストラ演奏芸術の一つの極点を築き上げた巨匠フリッツ・ライナー(1888〜1963)は、エルネスト・アンセルメ(1883〜1969)、オットー・クレンペラー(1885〜1973)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886〜1954)、エーリヒ・クライバー(1890〜1956)、シャルル・ミュンシュ(1891〜1968)らと同世代にあたる名指揮者のなかで、19世紀の名残りであるロマンティックな陶酔よりも、20世紀の主潮である音楽の客観的再現に奉仕した音楽家です。ハンガリーのブダペスト音楽院でバルトーク・ベラらに作曲、ピアノ、打楽器を学び、1909年にブダペストで指揮デビュー。第一次世界大戦以前から、ブダペスト歌劇場(1911〜1914)、ザクセン宮廷歌劇場(ドレスデン国立オペラ)(1914〜1921)を経て、1922年に渡米しシンシナティ交響楽団(1922〜1931)、ピッツバーグ交響楽団(1938〜1948)の音楽監督を歴任。その後メトロポリタン歌劇場の指揮者(1949〜1953)を経て、1953年9月にシカゴ交響楽団の音楽監督に就任し、危機に瀕していたこのオーケストラを再建、黄金時代を築き上げました。その後、1962年まで音楽監督。1962/1963年のシーズンは「ミュージカル・アドヴァイザー」を務める。ライナー着任時のシカゴ響には、すでにアドルフ・ハーセス(トランペット)、アーノルド・ジェイコブス(チューバ)、フィリップ・ファーカス(ホルン)、バート・ガスキンス(ピッコロ)、クラーク・ブロディ(クラリネット)、レナード・シャロー(ファゴット)といった管楽器の名手が揃っており、ライナーはボルティモアからオーボエのレイ・スティルを引き抜いて管を固め、またメトロポリタン歌劇場時代から信頼を置いていたチェロのヤーノシュ・シュタルケル、コンサートマスターにはヴィクター・アイタイという同郷の名手を入団させて、「ライナー体制」を築き上げています。このライナーとシカゴ響は、ヘルベルト・フォン・カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ジョージ・セル&クリーヴランド管弦楽団、ユージン・オーマンディ&フィラデルフィア管弦楽団などと並び、20世紀オーケストラ演奏芸術の極点を築きあげたのです。
フリッツ・ライナー(Fritz Reiner, 1888.12.19〜1963.11.15)は、ブダペスト生まれ。生地のリスト音楽アカデミーで学び、卒業後ブダペスト・フォルクスオーパーの楽団員となった。ここで声楽コーチを兼任した彼は1909年にビゼー「カルメン」を指揮してデビュー。翌年ライバッハ(現リュブリャーナ)の歌劇場に移り、翌1911年ブダペストに戻りフォルクスオーパーの指揮者となり、1914年にはワーグナーの舞台神聖祝典劇「パルジファル」のハンガリー初演を行う。1914年からはドレスデン国立歌劇場の指揮者として活躍。ヨーロッパ各地に客演した。1922年米国に渡ってシンシナティ交響楽団の常任指揮者となり、この楽団の水準を高めたが、厳しいトレーニングと妥協を許さない方針への反発から1931年に辞任。同年カーティス音楽院の教授に就任。1936年にオットー・クレンペラーの後任としてピッツバーグ交響楽団の音楽監督となり、このオーケストラをアメリカ屈指の水準に高めた。1948年からはメトロポリタン歌劇場の指揮者を務め、1953年にラファエル・クーベリックの後任としてシカゴ交響楽団の音楽監督に迎えられた。ここでも彼の厳格なトレーニングと妥協しない頑固さは様々な対立を産み出したが、確かにこの時代にシカゴ響は世界最高水準の実力を持つ黄金時代を迎えたのである。同時にヨーロッパでも活躍。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも密接な関係を保った。先ずバルトークが代表的な名演奏。弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽。管弦楽のための協奏曲はオーケストラの力量も相まって古典的な名盤(1955,1958年)。ドレスデン国立歌劇場時代以来最も得意としたリヒャルト・シュトラウスは「ツァラトゥストラはかく語りき」(1954,1962年)、「英雄の生涯」(1954年)、「ドン・ファン」(1954,1960年)などがある。ベートーヴェンの交響曲は第2番のみ録音しなかったが、厳格で直截な力のある表現が快い。他のムソルグスキー「展覧会の絵」(1957年)、ドヴォルザーク「新世界より」(1957年)、レスピーギ「ローマの松、ローマの噴水」(1959年)などがあった。オーケストラの小品にも引き締まった演奏が多い。オペラ録音はメトロポリタン歌劇場時代の「カルメン」のみなのが長く歌劇場で活躍したライナーだけに惜しい。同曲も独特の厳密な音楽作りがユニークである。晩年にウィーン・フィルと録音したアルバムはいずれも円熟した芸風。シカゴ響の緻密さとは違った柔軟さがあった。ブラームス「ハンガリー舞曲」&ドヴォルザーク「スラブ舞曲」(1960年)、ヴェルディ「レクイエム」(1960年)、リヒャルト・シュトラウス「死と変容」&「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(1956年)などがある。
- Record Karte
- 1954年4月26日(36番)、1954年4月23日(39番)シカゴ、オーケストラ・ホール録音。
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