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商品名GB EMI ALP1041 フルトヴェングラー ベートーヴェン・交響曲6番「田園」

モーツァルトのデモーニッシュというものの権化 ― そこがフルトヴェングラーの悪い癖、いや、超スローテンポが次第に加速していく意思的な表現になっているところがフルトヴェングラーらしい》先輩格のニキッシュから習得したという指揮棒の動きによっていかにオーケストラの響きや音色が変わるかという明確な確信の元、自分の理想の響きをオーケストラから引き出すことに成功していったフルトヴェングラーは、次第にそのデモーニッシュな表現が聴衆を圧倒する。当然、彼の指揮するオペラや協奏曲もあたかも一大交響曲の様であることや、テンポが大きく変動することを疑問に思う聴衆もいたが、所詮、こうした指揮法はフルトヴェングラーの長所、特徴の裏返しみたいなもので一般的な凡庸指揮者とカテゴリーを異にするフルトヴェングラーのキャラクタとして不動のものとなっている。全く機械的ではない指揮振りからも推測されるように、楽曲のテンポの緩急が他の指揮者に比べて非常に多いと感じます。しかし移り変わりがスムーズなため我々聴き手は否応なくその音楽の波に揺さぶられてしまうのである。キリスト教世界においては「デーモン」はもっぱら「悪霊」、ないし「悪魔」という忌み嫌うべき存在の意味となっているが、これは善なる霊である「天使」との対照であることを見逃してはいけない。語源はギリシャ語の「ダイモーン」に由来し、そこでは、善悪を問わず、人と神中間に位置する存在を指した。それは人と神との仲介をし、しばしば超自然的な声をもって、人間に働きかけた。それがモーツァルトを論じるとき必ず引き合いに出されるようになったのは20世紀に入ってからであるが、小林秀雄の『モオツァルト』の与えた影響が日本では大きい。モーツァルトの音楽は人間どもをからかうために悪魔が発明した音楽だ、とゲーテの評言を冒頭に、モーツァルトのト短調交響曲を例題にして、モーツァルトの美しい音楽の中に悪魔が住んでいるというイメージを印象深く論じていた。だが、おりおり短調を使っていることでデモーニッシュを、片付け短絡軽薄の傾向にある。短調をデモーニッシュとするなら、長調が天使だろうか。それではデーモンの本質である超自然的な活動性、人間に及ぼす怪しく不思議な働きかけの魅力が見失われてしまう。デモーニッシュと呼ぶべきなのは、とらえ難く変転し天翔けるモーツァルトの音楽における、絶えず浮遊する要素だ。フルトヴェングラーのモーツァルト演奏はオールマイティではないが、モーツァルトのデモーニッシュをベートーヴェンがリスペクトしたものがあるのかもしれない。フルトヴェングラーはブラームスを評して「非常に客観的な音楽家」といい、「音楽における客観とは、音楽と精神、精神と音楽が結び付いてひとつになった時に起こるのである」といっています。この偉大な指揮者はブラームスの音楽は彼の哲学そのものであると喝破したのです。それは、そのままベートーヴェンにも当てはまり。それがドイツの交響曲に対する彼の表現方法なのだろう。ここでは弦楽器の美しいウィーン・フィルの特質が活き、十分に歌わせ柔らかく艶やかな音色が音楽に寄り添って、かつての田園風景に誘います。超スローテンポで始まる前半。第2楽章が特に遅い。一方、第5楽章は次第に少しずつ速くなっていってしまう。しかし、それはテンポを支える内容の濃さを持っている事にほかならない。フルトヴェングラーの音楽を讃えて、「音楽の二元論についての非常に明確な観念が彼にはあった。感情的な関与を抑制しなくても、構造をあきらかにしてみせることができた。彼の演奏は、明晰とはなにか硬直したことであるはずだと思っている人がきくと、はじめは明晰に造形されていないように感じる。推移の達人であるフルトヴェングラーは逆に、弦の主題をそれとわからぬぐらい遅らせて強調するとか、すべてが展開を経験したのだから、再現部は提示部とまったく変えて形造るというような、だれもしないことをする。彼の演奏には全体の関連から断ち切られた部分はなく、すべてが有機的に感じられる。」とバレンボイムの言葉を確信しました。これが没後半世紀を経て今尚、エンスーなファンが存在する所以でしょう。戦後のスタジオ録音でフルトヴェングラーの録音の中では音が良い。 ― 一概にフルトヴェングラーの音が悪いというのは、演奏された響きに対して録音の響きが浅いのだ。 ― フルトヴェングラーの EMI 録音のなかでは音の彫りが深く、ヌケが良くウィーン・フィルの弦楽、木管、ホルン等が美しく聴こえます。フルトヴェングラーの音に悩まずに済むレコードです。
GB EMI ALP1041 フルトヴェングラー ベートーヴェン・交…
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