GB DGG 2740 149 オイゲン・ヨッフム ワーグナー・ニュルンベルクのマイスタージンガー(全曲)
ドミンゴのドイツ語には違和感が漂っています。 ― ワーグナー作品の光と影の両面を温かく、かつ的確に描き出し、多くの名演を成し遂げてきた巨匠オイゲン・ヨッフム。彼の指揮したワーグナーのなかで最高傑作の一つに数えられるのが1976年録音の『ニュルンベルクのマイスタージンガー』です。キャストに、バリトンのディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ、テノールのプラシド・ドミンゴ、ソプラノのカタリーナ・リゲンツァなど大物歌手を擁しているのも大きな聴きどころです。カール・ベームのバイロイト・ライブ録音を実現できなかったドイツ・グラモフォンはベームを使いたかったかもしれないけれど、ヘルベルト・フォン・カラヤンの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が東独シュターツカペレ・ドレスデンとの共演を選んだのか、このヨッフム盤の高尚さを聴くに連れ理解が出来そうだ。スウェーデン生まれのリゲンツァ(Catarina Ligendza, 1937年10月18日生まれ)は、この録音の頃にバイロイト音楽祭ではイゾルデを歌ってますが録音の方ではあまり名前を見かけません。バイロイト音楽祭ではでてしまうローカルさ、俗語感のようなイントネーションは本盤のオーケストラからは後退して端正過ぎるほど、第2幕第7場での夜半の乱闘の場面から市井の空気は浄化されている。特別な狙いで取り組まれた製作ではなかっただろうと思える「ワーグナーのお好みのままに」の趣向か、丁寧で端正な演奏に圧倒させられる。若き騎士であるヴァルター役のドミンゴ35歳時の録音で、若々しい歌声が印象的。色彩豊かで迫力満点のオーケストラともども、熱演が繰り広げられている。数多くの実力派が育っている現在、今なおオペラ歌手として世界で最も一般に有名なのは間違いなくドミンゴでしょう。持ち前の美声と優れた歌唱表現、凛々しいヴィジュアルなどを併せ持ったドミンゴは、ソリストとしてはもとより、3大テノールのひとりとしても世界中から愛されるだけでなく、指揮者としても活躍の場を拡げたり、ワシントン・ナショナル・オペラやロサンジェルス・オペラの芸術監督も務めるなど、多彩な活動を繰り広げています。また、1993年からはオペラリア(プラシド・ドミンゴ国際オペラ・コンクール)というオペラ歌手のコンクールを開催し、若い才能にチャンスを与えることに熱心なことでも知られています。ニーナ・シュティンメやブライアン・アサワ、ホセ・クーラ、森麻季、ロランド・ビリャソンらがここから巣立っています。
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ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウのハンス・ザックス役、プラシド・ドミンゴのヴァルター役に、カタリーナ・リゲンツァのエヴァ役、クリスタ・ルードヴィヒのマグダレーナ役、ペーター・ラガーのポーグナー役、ゲルト・フェルトホフのコートナー役にローランド・ヘルマンのベックメッサー役。本盤の魅力は、何といっても両主役であるザックスとヴァルターに、それぞれフィッシャー=ディースカウ、ドミンゴを配している点であろう。フィッシャ=ディースカウは、いつものように巧すぎるとも言える歌唱を披露しているが、ドミンゴのドイツ語には違和感が漂っています。音楽之友社刊「名作オペラ・ブックス」(アッティラ・チャンバイ、ディートマル・ホラント編の“rororo operabücher”の日本語版)の中では批判的に書かれている。この点が、このオペラを解釈するときのチャームポイントになるものです。それは本盤の配役を解釈もできる。本盤とほぼ同時期に録音されたヘルベルト・フォン・カラヤン&ドレスデン国立歌劇場管弦楽団盤が空前絶後の超名演だけに、その陰に隠れて過小評価されている演奏である。さすがに指揮者やオーケストラの格などに鑑みると、どうしても旗色が悪い演奏ではあるが、歌手陣なども加味するとなかなかの佳演と評価してもいいのではなかろうか。靴屋の親方ザックスは大衆人気抜群の人物なはずなのに、フィッシャー=ディースカウは威厳がありすぎて少し強面だが、それでも本盤ではそうした巧さがほとんど鼻につかない。ドミンゴはいかにも色男らしさを描出しているが、それが若き騎士であるヴァルターという配役と見事に符合している。素姓の分からない歌手の役をドイツ・オペラのイメージ浅かりし頃のドミンゴが歌うという設定が面白い。もちろん実際の歌唱もガチガチのドイツ語、美声を訴えるイタリア・オペラ風の歌いっぷりで素晴らしい。
オペラ界においては、陰翳をたたえた美声、充実した中音域、卓越した演技力、すぐれた歌唱技術によって、世界各国において幅広い人気と高い評価を得ているプラシド・ドミンゴ、パヴァロッティの後、声に芯のあるテノールは出てこないのでしょうか。ドミンゴは、スペインのマドリード生まれ。両親はサルスエラ歌手。1949年、サルスエラ劇団を経営する家族とともにメキシコに移住、両親の一座で子役として舞台に立っていた。若くしてバリトン歌手としてキャリアをスタートした後、テノーレ・リリコ(叙情的な声質のテノール歌手)に転向したが、元来はより重いリリコ・スピントの声質だった。ドミンゴはバリトン出身だけにテノールの聞かせどころの最高音域は不安定であるが、美声と洗練された歌い口でオペラ通や批評家をうならせたのだった。特筆すべき多様性をもつ歌手であり、ヴェルディ、プッチーニなどのイタリア・オペラ、フランス・オペラ(『ファウスト』、『サムソンとデリラ』など)、ワーグナーなどのドイツ・オペラと広汎な演目をレパートリーとしている。その陰翳を帯びた声質と自在な表現力を生かして、30歳代で数あるテノールの役の中でも特に重厚な歌唱を要するオテロもレパートリーに加えた。ドミンゴのオテロは彼の世代の第一人者と見なされている。そして、3大テノールでドイツ・オペラに積極的なのは彼一人だけである。1968年には西ドイツのハンブルクでローエングリンを歌ってワーグナー作品にも進出したが、声帯障害を引き起こしてしまう。同年、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場にチレア作曲「アドリアーナ・ルクヴルール」マウリツィオ役でのデビューが決定、リハーサルを行っていたドミンゴだったが、同役を演じていたスター歌手フランコ・コレッリが突然出演をキャンセルしたため、劇場は代役をドミンゴに依頼、隙かさず劇場に駆けつけてマウリツィオを演じたドミンゴは、思いがけず数日早まったメトロポリタン・デビューを成功させる。また、1969年にはエルナーニでミラノ・スカラ座、1971年にはカヴァラドッシを歌ってロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスにデビューし、世界的な名声を確立した。またドミンゴは、ロマンチックなオペラのヒーローに相応しい、端正な顔立ちと高身長にも恵まれている。『愛の妙薬』のネモリーノのような軽いレパートリーにおいても、リリックに柔らかに歌う発声と演技力により評判になった。しかし、声が成熟して重みと厚みを増すに従いワーグナーの諸役も無理なく歌えるようになり、徐々に彼の主要なレパートリーとなっていく。また伊仏独の多くのオペラに加え英語の新作オペラやオペレッタの英語版まで歌い、のみならずロシア語オペラの『エフゲニー・オネーギン』や『スペードの女王』を原語で歌うなど、語学能力も高い。ドミンゴのレコード&CD録音は、オペラ全曲盤、オペラ・アリア集、ポピュラーソング集など膨大な数にのぼる。RCA、EMI、ドイツ・グラモフォン、デッカ、ソニークラシカルなど多くのレコードレーベルで録音を行っており、長年デッカと専属契約を結んでいたパヴァロッティとはこの点でも対照的である。ドミンゴはヴェルディのテノール向けのアリアを、ヴェルディが上演国に合わせてそれぞれの言語で作曲したオリジナル版からの複数版を含めて全数収録したCDセットを録音し、批評家からも概ね好意的な評価を得ている。近年は再びバリトン歌手として活動しており、『シモン・ボッカネグラ』の題名役や『椿姫』のジェルモン役で高評価を得ている。
ワーグナーは1813年、ドイツのライプツィヒに生まれた。彼の父親は警官だったが、ワーグナーが生まれて半年後に死んでしまい、翌年母親が、俳優であったルートヴィヒ・ガイヤーと再婚した。ワーグナーは、特別楽器演奏に秀でていたわけではなかったが、少年時代は音楽理論を、トーマス教会のカントル(合唱長)から学んでいた。これが後の彼の作曲に大きな役割を果たすことになる。23歳の時には、マグデブルクで楽長となり、ミンナ・プラーナーという女優と結婚した。1839年ワーグナー夫妻はパリに移り、貧困生活を味わった後、彼のオペラ「リエンティ」の成功で、ザクセン宮廷の楽長となった。しかし幸せは長く続かず、ドレスデンで起こった革命に参加した罪で、彼は亡命を余儀なくされる。スイスに逃れた彼は、友人の助けで作曲を続け、1864年、やっとドイツに帰国することが出来た。とはいえ、仕事もなく、彼は借金まみれになってしまった。そのときバイエルンの国王で彼の熱烈な崇拝者だったルートヴィヒ2世が救いの手を差し伸べてくれた。彼らの友情は長続きしなかったが、その後ワーグナーはスイスに居を構え、1870年リストの娘であるコジマと再婚し(ミンナは少し前に死去)、バイロイト音楽祭を開くなど世界的な名声を得た。彼のオペラはそれまで付録のようについていた台詞を音楽と一体化させるという革命的なもので、多くの作曲家に影響を与えた。しかし、第2次大戦中ナチスによって彼の作品が使用されたため、戦中戦後は正当な評価を受けることが出来なかった。
ようやく今、私は完全に諦めました。 — 私が離れることだけが、思いのまま自由に動く力をあなたに与えるのです。 — 1861年12月、マティルデに宛てたワーグナーの手紙。
逃亡中においても精力的に作曲活動は行っており、彼の周りに数々のパトロンも現れてくれました。『わが生涯』によれば、ワーグナーはチューリヒ時代(1849年〜1858年)のパトロン、オットー・ヴェーゼンドンク、マティルデ・ヴェーゼンドンク夫妻の招待により、1861年11月7日から11日にかけてヴェネツィアに旅した。アカデミア美術館でティツィアーノの絵画「聖母昇天図( Assunta)」を見たことで、「かつての気力がまた身内に燃え上がるのを感じ ― 『マイスタージンガー』を仕上げようと心に決めた」とされている。その決心から25年遡る、『恋愛禁制』を1836年に完成の後、ワーグナーはオペラ・コミックともヴォードヴィルとも異なる喜劇のスタイルを模索していた。1835年7月、マクデブルクの劇場と契約を結んだワーグナーは歌手集めの旅でニュルンベルクを訪れた。このとき、酒場で歌自慢の指物師の親方が満座の笑いものにされる場面に居合わせた。そしてその直後、些細なきっかけから起こった騒ぎが高じてあわや暴動になるかと思われたが、鉄拳の一撃を合図に潮が引くように静まる様子を目撃した。これらの体験は、本作でベックメッサーが歌いそこねて恥をさらす場面(第3幕第5場)及び群衆による「殴り合いの場」(第2幕第7場)に投影されている。また、「ラ・スペツィアの幻影」(『ラインの黄金』序奏)や「聖金曜日の奇蹟」(『パルジファル』)など、ワーグナーには作品の端緒を創作神話のように語る傾向がある。しかし、ヴェーゼンドンク夫妻の仲睦まじい姿を見せつけられたワーグナーは、かなわぬ愛に終止符を打つ決心をする。かつて想いを断った相手との再会は、もう一度青春の気持ちを取り戻したのだろうし、ワーグナーにとって地上での愛の実現を断念し、芸術によるエロスの昇華をめざす転機になった。ところが、リストの一番弟子であるハンス・フォン・ビューローが、コジマとのハネムーン中にワーグナーの家を訪ねていった。ビューローはワーグナーの熱烈なファンであったので、指揮者としてワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」や「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の初演で指揮をする状況の中で、ワーグナーとコジマはビューローとの3人での生活をし、普通の感覚では計り知れない複雑な関係を紡いでいきました。
オイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum、1902年11月1日〜1987年3月26日)は、バーベンハウゼン生まれ。アウグスブルク音楽院でピアノとオルガンを学び、1922年よりミュンヘン・アカデミーでハウゼッガーに指揮を学ぶ。1949年にバイエルン放送交響楽団の設立に関わり、音楽監督を1960年まで務め同楽団を世界的レベルにまで育てた。演奏スタイルに派手さはなく地味ではあるが、堅固な構成力と真摯な態度、良い意味でのドイツ正統派の指揮をする。やはり本領はバッハ及びロマン派音楽と思われる。彼は音楽を自己の内心の表白と考える伝統的ドイツ人で、したがってバッハ、ブルックナー、ブラームスに於いては敬虔な詩情を迸っている感動的な名盤を生むが、モーツァルトの本質を探ろうとするほどに湧き溢れて来るがごとき心理的多彩さや、ベートーヴェンの英雄的激情、それにリヒャルト・シュトラウスの豊麗なオーケストラの饒舌を表現するには乏しい結果となっている。ヨッフムがはたして、すでに成長すべき極言まで達してしまった人なのか、それともさらに可能性が期待できるのか、いつまでも巨匠の風貌に至らないのが、好感とともに焦燥を禁じえないが、おそらく同世代のカール・ベーム、エドゥアルト・ファン・ベイヌム、ヘルベルト・フォン・カラヤンたちに比べれば個性と想像力において弱く、名指揮者にとどまるのではないかと思われた。ところが、後年のヨッフムの録音活動の活発さは目を引いた。戦前のSPでは、わずかにテレフンケンのベートーヴェンの「第7」「第9」ほどだったのと比べて、彼が晩年型の指揮者と称されることを簡易に理解できる面だろう。ベルリン放送交響楽団(1932~34年)、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団(1934~49年)、バイエルン放送交響楽団(1949~60年)、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1961~64年)、バンベルク交響楽団(1971~73年)とオーケストラ首席指揮者を務めた変遷を見ると、バイエルン放送響以外は短いのに気づくが、同時に2つのオーケストラを兼務することをしていないことも見て取れる。そうした、一つ一つの歴任を経て来たことは彼の律儀な性格のあらわれかも知れない。でも彼の真価が本当に発揮されるのは1970年代に入ってからで、幾つかの楽団を渡り歩いたのちの70歳代になってからである。シュターツカペレ・ドレスデンとのブルックナー交響曲全集やロンドン・フィルハーモニー管弦楽団とのブラームス交響曲全集、そしてロンドン交響楽団とのベートーヴェン交響曲全集をのこしたのもすべてこの時代である。ヨッフムは若い頃からブルックナー作品に熱心に取り組み、やがてブルックナー協会総裁も務めるなど権威としてその名を知られるようになります。交響曲全集も2度制作しているほか個別の録音も数多く存在しますが、晩年に東ドイツまで出向きシュターツカペレ・ドレスデンを指揮してルカ教会でセッション録音したこの全集は、独墺でのさまざまなヴァージョンによる演奏など、数々の経験を膨大に蓄積したヨッフム晩年の方法論が反映された演奏として注目される内容を持っています。その演奏は重厚で堂々たるスケールを持っていますが、決してスタティック一辺倒なものでは無く、十分に動的な要素にも配慮され起伏の大きな仕上がりを示しているのが特徴でもある。ベートーヴェンの交響曲も重要なレパートリーとしており、交響曲全集についてもドイツ・グラモフォン(1952〜61)、PHILIPS(1967〜69)、EMI(1976〜79)と3度にわたって制作しています。長大なキャリアの最初から最後まで、常にレパートリーのメインに据えられた重要な存在だったベートーヴェンだけにロンドン響を指揮した晩年の録音でも、味わい深い演奏を聴かせてくれています。早熟な天才指揮者ではなかったが、長く生き、途切れること無くオーケストラを相手したことで職人指揮者で終わることもなかった。
解説書付属、1976年3月19日〜4月3日、ベルリン録音。5枚組。
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