34-9265

商品番号 34-9265

通販レコード→英ブルーライン盤

束縛されない自由さと同時にエキサイティングで筋の通った論理的な指揮 ― クナッパーツブッシュの伝統の音とはまた違った、その明晰な響きは強烈な魅力がある。 ―  1970年にドイツ・グラモフォンよって制作された「パルジファル」、1966年にバイロイトに登場し新風を巻き起こした40歳代気鋭のピエール・ブーレーズが作品の神秘性にとらわれることなく、ストレートで透明で力に満ちた演奏を実現しています。バイロイトでの上演と並行して録音セッション組んだと云われ、当時のオペラ録音としては第1級のサウンド・クオリティに仕上げています。歌手陣も、ジェイムズ・キングのパルジファル役、ギネス・ジョーンズのクンドリー役、フランツ・クラスのグルネマンツ役を中心に、トマス・スチュワートのアンフォルタス役、カール・リッダーブッシュの国王ティトゥレル役とドナルド・マッキンタイヤのクリングゾール役と名歌手たちが揃い強烈な存在感のキャストで有名なハンス・クナッパーツブッシュと同じプロダクションでありながら、その演奏時間が1時間以上違うといった強烈な魅力がある。この「パルジファル」は1951年から1973年まで行われたヴィーラント・ワーグナーの演出でステージには円盤しかない「新」バイロイト形式のクナッパーツブッシュが指揮していた頃と、ほとんど変わりない演出ですが、舞台装置は同じでもブーレーズの演奏はクナッパーツブッシュとは全く異なる。クリスチャン・ティーレマンは、この時のブーレーズの「パルジファル」を聴いて、何ものにも束縛されない自由さと同時にエキサイティングで筋の通った論理的な指揮ぶりに圧倒され、それは彼にとっての「ダマスカスへの道 ― 使徒パウロのキリスト教への転向のこと ― であったと言っています。そのクナッパーツブッシュより一時間も速い演奏時間が物証ですが、しかし、その明晰な響きはクナッパーツブッシュの伝統の音とはまた違った強烈な魅力を持つ。音のひとつひとつにエネルギーとパッションが迸り、枯れていない。時間の長さを感じることなく「聖金曜日の音楽」でさえ決然とした響きでなく、実に柔らかく魔法に包み込まれるような、何事もないかのように音楽がとても素直に感じられる。「パルジファル」は、歌劇でも、楽劇でもなく「神聖祝典劇」とあるが、祝祭劇場の演目という程度の受け取りが良い。「指環」までのワーグナー作品に見られるエゴイスティックは、歳とって息子を得、自分専用の劇場を持つことで、傲慢を張る必要が無くなったのだろう。もちろん、その管弦楽法は高尚化しているけれど、「リエンツィ」や「恋愛禁制」より前に、ワーグナーが書きたかったオペラではないのか。純粋に音楽として、あるいは物語として鑑賞するほどに、実に深遠な意味を汲んでとれた感じが、熊本地震を体験してからは殊更に強まっています。
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最初から最後まで美しい音楽が波打ち、時に高潮することはあっても、過剰な表現はとらない。メンデルスゾーンの「宗教改革」でもお馴染みの「ドレスデン・アーメン」が効果的に使われ、神聖な雰囲気を作り出している。イエスが十字架に架けられた金曜日は19世紀以降、俗に「13日の金曜日」と呼ばれるようになった受難の日であるが、人々に救いと恵みが与えられた神聖な日でもある。実生活では多くの女性たちとの快楽に溺れ、「キリスト教は芸術とは無縁の存在」と書いたこともあるワーグナーがこのような物語を綴ったことに、ワーグナー作品のすぐれた指揮者であったオットー・クレンペラーは、「偽宗教的なガラクタの山」と酷評していたとピエール・ブーレーズは証言している。作品の宗教的性格ゆえ、多くはテンポをゆったり演奏する傾向があるが、ワーグナーは遅いテンポを拒否していた。その証拠に初演のリハーサルでは、指揮のヘルマン・レーヴィに「もっと速く、ぐずぐずするんじゃない」と何度も命じていたという。ブーレーズが1970年にバイロイト音楽祭で振ったときのライヴ録音は、このエピソードを踏まえた上でテンポを速めに保ち、一切の緩慢さを排除し演奏全体を通して聴きやすい。パルジファルが記憶を失い、家を飛び出し、親が悲嘆に暮れて死ぬのも、すべて「神の思し召し」とされ、その力の大きさを象徴するかのように、音楽はあらゆるものを包括し、矛盾なく、淀むこともなく、ある意味容赦なく進行して聖杯の儀式に収斂されることで一件落着する。この物語が孕んでいる問題点は議論の対象になるだろうことは、ワーグナー自身が良く判っていただろうが彼はそれを放置している。であればこそ勧善懲悪のわかり易さで、聖杯伝説の世界にのめり込めるような音楽的空間に浸ることだけを、わたしは楽しんでいる。ワーグナーは1813年、ドイツのライプツィヒに生まれた。彼の父親は警官だったが、ワーグナーが生まれて半年後に死んでしまい、翌年母親が俳優であったルートヴィヒ・ガイヤーと再婚した。ワーグナーは、特別楽器演奏に秀でていたわけではなかったが、少年時代は音楽理論をトーマス教会のカントル(合唱長)から学んでいた。これが後の彼の作曲に大きな役割を果たすことになる。23歳の時にはマグデブルクで楽長となり、ミンナ・プラーナーという女優と結婚した。1839年ワーグナー夫妻はパリに移り、貧困生活を味わった後、彼のオペラ「リエンティ」の成功で、ザクセン宮廷の楽長となった。しかし幸せは長く続かず、ドレスデンで起こった革命に参加した罪で、彼は亡命を余儀なくされる。スイスに逃れた彼は友人の助けで作曲を続け、1864年、やっとドイツに帰国することが出来た。とはいえ、仕事もなく、彼は借金まみれになってしまった。そのときバイエルンの国王で彼の熱烈な崇拝者だったルートヴィヒ2世が救いの手を差し伸べてくれた。彼らの友情は長続きしなかったが、その後ワーグナーはスイスに居を構え、1870年リストの娘であるコジマと再婚し(ミンナは少し前に死去)、バイロイト音楽祭を開くなど世界的な名声を得た。彼のオペラはそれまで付録のようについていた台詞を音楽と一体化させるという革命的なもので、多くの作曲家に影響を与えた。しかし、第2次大戦中ナチスによって彼の作品が使用されたため、戦中戦後は正当な評価を受けることが出来なかった。
リヒャルト・ワーグナーの死の前年、1882年1月13日に『パルジファル』は完成され、7月26日にバイロイト音楽祭で初演された。バイロイト祝祭劇場の構造に最適化され、理想的に構想された作品が不道徳な劇場や聴衆の手に委ねられている現状に不満を抱き、「せめて最も神聖なこの最後の作品だけでも、世のオペラが辿りがちな運命から守った方がよいのではないか」(1880年9月28日付 ルートヴィヒ2世宛書簡)と考え、当初はバイロイト音楽祭以外での上演は禁じられていたが、1913年12月31日深夜に解禁され世界各地で上演されるようになった。物語の舞台は中世。聖杯と聖槍を守護するモンサルヴァート城は今、危機的状態を迎えていた。偉大な王ティトゥレルに追放された魔法使いクリングゾールの策略により、ティトゥレルの息子アンフォルタスが魔性の女の誘惑に陥り、聖槍を奪われた挙げ句、槍で脇腹を刺され重傷を負っていた。聖杯を通じて告げられた主の予言は、「同情によりて知を得る清らかなる愚か者。われの選びたるその者を待て」である。しかし、いつまで待てばよいのだろうか。アンフォルタスは肉体と精神の苦痛のため、絶望している。アンフォルタスの痛みを和らげるために薬を持ってきた謎の女クンドリは、まだその正体を明らかにしていない。先行きの見えない日々が過ぎるばかりのある朝、老騎士グルネマンツの前に白鳥を射落とした少年が現れる。「この聖なる日に白鳥を殺すとは」、とグルネマンツは窘めるが少年は自分の名前も過去も忘れている。グルネマンツはもしやと思い、少年を聖餐式に連れて行くが、聖杯を見ても、苦しみながら儀式を執り行うアンフォルタスを見ても少年は何の反応も示さない。思い違いであったか、グルネマンツは失望し、少年を城から追い出す。場面は変わり、モンサルヴァート城を追い出された少年が魔城に向かってくる。聖槍を手に入れた魔法使いのクリングゾールが住む魔法の城で、彼は次に、聖杯も我が物にしようとしている。クリングゾールはこの少年が愚かさという盾に守られた極めて危険な敵であることを見抜き、魔の花園で花の乙女たちに誘惑させる。しかし少年は動じない。そのとき、「パルジファル(清らかな愚か者の意)」と呼ぶ声がする。少年はそれが自分の名前であることを思い出す。呼んだのはクンドリだった。実は、クンドリはかつて十字架を背負ってゆくキリストを嘲笑した女だった。以来、彼女は魔性の女として、また、罪を悔いる女として、時空をさまよい、真の贖罪と救済を得なければならない身となり、いまだそれを得られずにいた。クリングゾールに利用され、アンフォルタスを誘惑したのも彼女だった。クンドリは記憶を失ったパルジファルの前歴を詳しく語って聞かせる。彼が突然姿を消したせいで、母親ヘルツェライデ(心の悩みの意)が悲しみ、傷心のあまり死んだことも。この話を聞いたパルジファルは嘆き、苦しむ。それを慰めるようにして、クンドリは彼を愛の虜にしようとするが、キスをされたとき、パルジファルの中にアンフォルタスに対する同情がはっきりと芽生え、覚醒する。覚醒を恐れていたクリングゾールはパルジファルに聖槍を投げるが、彼はクリングゾールが放った聖槍を頭上で止め、魔術を破り魔城を崩壊させ奪われた聖槍を取り返した。
長い年月が過ぎたモンサルヴァート城の近く、春の花咲く美しい野で倒れているクンドリを、老騎士グルネマンツは見つける。そこへ聖槍を持った騎士が現れる。パルジファルはクンドリに呪いをかけられ、各地をさまよい続けていた。グルネマンツと出会ったことで、自分がようやく来るべき場所に来たことを知るパルジファル。クンドリは魔法の力を使い果たしたのだ。グルネマンツはパルジファルが手にしている、その聖槍を見て奇蹟が起こったことを知り、パルジファルこそが救世主であることを悟る。聖金曜日の奇蹟により辺りの草花はいっそう美しく見える。かつてパルジファルから肉体的に拒まれ、彼を呪ったクンドリの様子も穏やかである。過ぎた時間の中でティトゥレル王は亡くなった後で、息子アンフォルタスは、ひたすら己の死を願っているので聖杯の覆いを取って儀式を進めることもしない。暗く重々しいモンサルヴァート城内へ、グルネマンツとクンドリに伴われて入ったパルジファルは、聖槍の先でアンフォルタスの脇腹にふれ傷を癒す。そして、「聖杯はもはや隠されているときではない」と言い、厨子を開かせる。クンドリは恍惚とパルジファルを見つめながら、ゆっくりと倒れて息を引き取る。彼女の長く苦しい彷徨はこうして終わりを告げた。パルジファルは祈る者たちの上に輝く聖杯をかざし、臆すること無く聖杯守護の儀式を受け継ぐ。ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)は1925年3月26日、フランスのモンブリゾンに誕生。リオンで数学などを学んだ後、パリ音楽院に進んでオネゲル夫人に対位法をオリヴィエ・メシアンに和声を師事し、その後ルネ・レイボヴィッツに12音技法を学びます。1945年ブーレーズは『ノタシオン」を作曲、翌1946年には『ピアノ・ソナタ第1番』、『ソナチネ』、『婚礼の顔』も書き上げています。この年ブーレーズは、プロとしての最初の本格的な仕事となるジャン=ルイ・バロー&マドレーヌ・ルノー劇団の音楽監督に就任します。仕事の内容は舞台演劇に音楽をつけるというものでブーレーズ自身、オンド・マルトノ演奏を行ったりギリシャ悲劇『オレスティア』のための音楽を作曲・演奏するなどして、1956年までの10年間に渡って活躍します。その間、『ピアノ・ソナタ第2番』、『水の太陽』、『弦楽四重奏のための書』などの他、代表作となる『ル・マルトー・サン・メートル(主のない槌)」を作曲。この頃のブーレーズは過激な言動でも知られていた時期で、「オペラ座を爆破せよ」、「シェーンベルクは死んだ」、「ジョリヴェは蕪」、「ベリオはチェルニー」といった数々の暴言が現在のブーレーズからは信じられない刺激的なイメージを伝えてくれます。そして1954年10月、過激な時期のブーレーズによって創設されたのが室内アンサンブル「マリニー小劇場音楽会」で、この団体は翌年には「ドメーヌ・ミュージカル」と名前を変え、以後大活躍をすることとなります。
「ドメーヌ・ミュージカル」は当時のブーレーズが音楽監督を務めていた劇団の舞台でもあるパリのマリニー劇場を本拠地とし、件のジャン=ルイ・バローと、その夫人のマドレーヌ・ルノーがパトロンになって発足したもので創立者にはブーレーズと、この両名が名を連ねています。彼らは最初から現代音楽に特化したアンサンブルだったわけではなく、1954年のシーズンにはマショーやデュファイ、バッハといった古楽プログラム、ドビュッシー、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、ストラヴィンスキー、バルトーク、ヴァレーズといった近代プログラム、シュトックハウゼン、ノーノ、マデルナなどの現代プログラムが3つの柱として存在しており、年を経るに従って現代プログラムの占有率が高くなっていきました。さらに、この団体の活動は演奏会の開催だけにとどまらず機関紙や研究書の発行にまで至り、ヨーロッパのみならず世界の現代音楽シーンに多大な影響を与えることとなります。作曲も順調で、『プリ・スロン・プリ』、『ストローフ』、『ピアノ・ソナタ第3番』、『エクラ』、『ストリクチュールⅡ』なども手がけています。その間、注目されることになったブーレーズは1960年から1963年にかけてバーゼル音楽アカデミーの教授を務めたりしましたが1967年には、フランス政府の音楽政策に抗議してフランス国内での演奏活動の中止を宣言、「ドメーヌ・ミュージカル」をジルベール・アミに託し(1973年に解散)、自らは指揮者としての活動に本腰を入れBBC交響楽団やニューヨーク・フィル、クリーヴランド管弦楽団を指揮して国際的に活動するようになります。ちなみに「ドメーヌ・ミュージカル」。ブーレーズ時代13年間の公演数は約80、登場する作曲家は約50名、作品数は約150曲といいますから、当時からブーレーズのレパートリーの広さにはかなりのものがあったことが窺われます。1967年以降のブーレーズは英米の他、バイロイトにも登場して指揮者としての名声を高めていますが、その間にも作曲は行っており、『ドメーヌ』や『即興曲 ― カルマス博士のための』、『カミングス、詩人』、『典礼 ― ブルーノ・マデルナの追憶』といった作品が書かれています。そうした声望を受け1976年にはフランスに設立されたIRCAMの所長に就任、同時に創設された現代音楽専門のアンサンブル「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」の音楽監督も兼任し、1990年代まで現代音楽に集中的に取り組むようになり、『レポン』、『デリーヴ』、『ノタシオン管弦楽版』、『固定/爆発』といった自身の作品の発表を行います。1990年代初頭、国際的な指揮の舞台に復帰したブーレーズは1995年からはシカゴ交響楽団の首席客演指揮者となり、以後、欧米各国のオーケストラを指揮して数々のコンサートやレコーディングも実施。そのため作曲の方は少なくなりましたが、それでも『アンシーズ』、『シュル・アンシーズ』、『アンテーム1』、『アンテーム2』の他、80歳となった2005年には『天体暦の1ページ」を書くなど、継続的に作品発表を行っているのは流石です。
解説書付属、1970年8月、バイロイト祝祭劇場録音。プロデュース、エンジニア:ハンス・ヒルシュ&クラウス・シャイベ 。
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