34-18554

商品番号 34-18554

通販レコード→英ブルーライン盤

父親がどちらで、息子はどちらを弾いているのか聴き分けることが出来ますか ― 音楽の父、ヨハン・ゼバスティアン・バッハのヴァイオリン協奏曲といえば、完全な形で現在に残されているものは、このレコードに収められている3曲だけである。つまり、2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調(BWV1043)を除くと、ひとつのヴァイオリンのための協奏曲が2曲あるだけにすぎない。しかし実際にはバッハは、もっと数多くのヴァイオリン協奏曲を作曲したものらしい。だが、それらは失われるとか散逸されるとかで、現在まで残っていないのだと考えられる。バッハ自身、ヴァイオリンの演奏に於いても並外れた腕前をもっていたのと、ケーテンで多くの合奏曲を作曲する機会があったこと、そして、当時の独奏協奏曲の主流がヴァイオリン協奏曲であったことを考えれば、このような論理が成立する可能性が十分にある。しかも、バッハの現存するクラヴィーア協奏曲のうちのヘ短調(BWV1056)とニ短調(BWV1060)がともにヴァイオリン協奏曲を原曲とするという説が現在では極めて有力になっている。それはともかくとして、バッハのヴァイオリン協奏曲はイタリアのヴァイオリン協奏曲の様式を無視しては成立しなかったものだろうが、それと同時に、対位法的な書法や感情面にドイツ的なものがあることはもちろん否定出来ない。2曲の独奏ヴァイオリン協奏曲でも、そうしたことがはっきりと認められよう。ソ連の名手オイストラフがステレオで録音したバッハのヴァイオリン協奏曲集。1番と2番はダヴィッド・オイストラフの弾きぶりによる演奏。2台の協奏曲はオイストラフ父子が共演。父子ならではの緊密な演奏を楽しめます。往年のイギリスの名指揮者ユージン・グーセンス指揮するロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団との共演で、往年の濃厚なバッハの魅力を味わえる、格調高くスケールの大きい名演です。ウェンブリー・タウン・ホールは、ドイツ・グラモフォンがロンドンで録音を行うときのスタジオとして、1960年代に主に活用され名盤が多い。エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団がヨーロッパ・ツアー中に録音した、チャイコフスキーの交響曲第4番が知られるだろうし、ウィーンのムジークフェラインザールで録音した第5番、悲愴と音響を比較しやすい。コンサート・ホールに比べて小さく、反響の少ないスタジオで、オンマイクで、しかもエフェクトなどで音をいじっていない録音のようで、響きは適度にあり、柔らかさを持つがぼやけ感はない。低域からどっしり感のある好録音。この息子のイーゴリも含めてストラディバリウスから引き出してくる音が手に取るように聞こえてきます。名器が放つ高音域のキラキラした倍音、楽器から音が飛び出してくるエネルギー、音自体に備わった凝縮感といったものが、ハッキリと判ります。静かなところで、目をつぶって耳を傾けていると、いつしかタイムスリップした気分になって、あの巨匠オイストラフが、自分だけのために目の前で演奏している。本盤は盤質も良好で、良質の録音は生々しく聴こえてきます。
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ソ連の誇るヴァイオリニストであり世界のヴァイオリン界の巨星でもあったダヴィド・オイストラフ(David Oistrakh)は1974年10月24日にアムステルダムへの演奏旅行の折に、かねてからの持病の心臓病で死去した。66歳だった。このオイストラフは来日公演を通じて日本に大きな影響を与えたし、また音楽愛好家を大いに喜ばせもし日本にとっても親しい存在だったのである。オイストラフはオデッサの名教師ストリアルスキーに師事し、1926年に同地の音楽院を卒業した。その名を全ヨーロッパに知られるようになったのは、1937年にブリュッセルのイザイ国際コンクールで優勝してからだった。このオイストラフがはじめて日本を訪れたのは、1955年秋である。この当時は戦後10年を経過したわけではあったが、日本はまだソ連の楽壇の事情がよくつかめていないためにオイストラフの名は一部の愛好者だけに、よく知られているといった程度だった。その時オイストラフは47歳、器楽の演奏家として、まさに油ののっていた時期だった。その演奏を聴いて音色や技巧に難点がなく、音楽に新鮮な美感が漂っていたことに驚かされたのだった。オイストラフは、それから何回か来日した。そして、その都度、感銘の深い演奏を聴かせてくれた。このオイストラフのヴァイオリン演奏の大きな特色は、渋み溢れているということである。そこに盛られた温かいロマン性は、やはりオイストラフが年来持ち続けているものである。そしてオイストラフの演奏には、作品そのものが持つ様式からの離脱がない。そして、オイストラフの人間の誠実さと人情味が演奏という面に反映している。勿論、技巧だけにとらわれている演奏ではない。ありふれた言葉でいえば、深い精神内容がそこにある。そしてデリケートではあるが、線の細さを感じさせない。オイストラフは聴く人に音楽で訴えるわけだが、いわゆる後期ロマン派的な主情主義を尊重しているわけではない。ソ連では主情を表面に押し出した演奏様式が、かなり長い間に渡って幅を利かせてた。それをヴァイオリンの方面でいち早く打破したのはオイストラフだった。こうしたわけでオイストラフの演奏には、訴える力は強くあっても不自然さはない。それを、楽譜の読みが深い演奏と言ってもいいだろう。しかも、年齢とともに深味を増してきている。ここにオイストラフのヴァイオリン演奏家としての偉大さがある。確かにオイストラフが出現しなかったなら、ソ連のヴァイオリン音楽は現在あるものとは違っていただろう、オイストラフはソ連の新しいヴァイオリンの演奏様式を確立したばかりではなくて、1943年以来モスクワ音楽院の教授となり数多くの門下生にそれを伝えたのでもあった。それに加えて、その人柄と優れた演奏のゆえにソ連の数多くの作曲家から新作の献呈も受けもした。プロコフィエフ、ミヤスコフスキー、カバレフスキー、ラーコフ、ハチャトゥリアン、ショスタコーヴィチなどのヴァイオリン・ソナタや協奏曲には、オイストラフがいなければ生まれなかったものがある。
数多くの録音と、数々の献呈されたヴァイオリン作品を誇るダヴィッド・オイストラフの演奏の特色として、弓幅を大きく豊かに使い、速くて振幅の大きいヴィブラートを用いて、豊潤で美しい音色を響かせる点が挙げられる。そしてブラームスやチャイコフスキー、ブルッフなど、より古典的なレパートリーにも通じていた。ロシア内外のオーケストラとの共演も数多く、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチやスヴァトスラフ・リヒテル、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とともに演奏したベートーヴェンの『三重協奏曲』、フランツ・コンヴィチュニー指揮のシュターツカペレ・ドレスデンとともに演奏したチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲およびブラームスのヴァイオリン協奏曲の録音が知られている。特にブラームスでは、ドイツのオーケストラの渋い音色が実に好ましい。教師としても声望に恵まれ、ギドン・クレーメル等が門人にいる。息子のイーゴリも指揮者、ヴァイオリニストとして著名で、しばしば親子で共演し、録音を残した。バッハは、まずその品格と格調の高さに心うたれます。オイストラフ父子の演奏は、必然的にベストとなります。機械人形と揶揄されたヤッシャ・ハイフェッツらが、レコード録音技術を活用してひとりで2つのヴァイオリン・パートを演奏した録音がありますが、親子でもここまで息のあった演奏とは、驚きです。オイストラフ父の太めの音、子供イーゴリの高域の音の繊細さ。イーゴリの腕前は父親に肉薄し、場合によっては凌駕することさえ有るし、楽器もいつも同じとは限らない。もちろん録音マスターの状態というものも考慮に入れないといけないが、残された音盤での判断になることは仕方ないこと。音盤によってヴァイオリンの聞こえ方が違うので、技術的なもの、あるいは癖などを考慮したいところだが、両者はとても良く似ている。両者のヴァイオリンは、どちらが腕前が良いとか悪いとかのレベルではない。対位法を意識してなのか、二人が競いあうような演奏も見かけるが、この演奏は二人の良さが倍増されたような感じを受ける。2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調(BWV1043)は最初に出るのがセカンドヴァイオリン、次に出るのがファーストヴァイオリン。ソロは第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリンの順番で登場する。録音風景でも、イーゴリがファーストヴァイオリン、ダヴィッドがセカンドヴァイオリンの前に立つが、ステレオ録音初期であり、マルチマイクでソロを際だたせるための配置だとすると判断材料にはならない。右チャンネルがダヴィッドではないかという心持ちはするが、どうでもいいことに思えてくる。
バッハのオルガン曲をエルガーがオーケストラ版に編曲した《幻想曲とフーガ》を初演したり、シドニー交響楽団のホールにその名が付いているサー・ユージン・グーセンス(Eugène Aynsley Goossens, 1893.5.26〜1962.6.13)は、ロンドン生まれ。3代続きの指揮者家系の出で、作曲家としても活躍した。名オーボエ奏者として有名なレオンは弟に当たる音楽一族。英国王立音楽院でヴァイオリンと指揮を学び、サー・トーマス・ビーチャムの下でアシスタントを務めた。1921年に「春の祭典」を英国初演するなど活躍。後に渡米して1931〜1946年の間シンシナティ交響楽団の首席指揮者、1947年にはオーストラリアのシドニー交響楽団の初代常任指揮者に迎えられ、同響の発展に寄与した功績によりサーの称号を得た。ところが1956年にポルノ写真を国外に持ち出そうとして空港で逮捕され、名声に傷が付く一幕も。だがオーケストラを大きく鳴らす能力は本物で、「ローマの祭」(1958年)などド迫力。リズムは少々危なっかしいが、当時の指揮ぶりを偲ぶなら得意の「春の祭典」(1960年頃)も面白い。1921年に「春の祭典」のイギリス初演を行なったのはグーセンス指揮ロンドン交響楽団でした。「春の祭典」は今日でこそ20世紀屈指の名作として親しまれていますが、1959年当時は録音の数も少なく、不協和音と野蛮なリズムに満ちた現代音楽として恐れられていました。それもあってか、イギリスの著名な音楽評論家から、史上最も不器用な「春の祭典」の録音を残した男と言われたグーセンス。しかし、この演奏は今日の耳でも、鮮度の高さ、情報量の多さ、分離、音場感の明快さに加え、物凄いエネルギーに満ちた名録音です。
1962年6月ウィーン、コンツェルトハウス(BWV1041&1042)、1961年2月ロンドン、ブレント・タウン・ホール(BWV1043)でのヴォルフガング・ローゼ(ディレクター)、ギュンター・ヘルマンス(エンジニア)による録音
GB DGG 138 820 オイストラフ親子 バッハ・ヴァイオリン…
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