〝このときしか出来ない〟演奏。 ― ブルックナーの《テ・デウム》とモーツァルトの『レクイエム』を組み合わせることには曰くがある。1892年4月15日にハンブルクでグスタフ・マーラーの指揮により《テ・デウム》とモーツァルトの「レクイエム」が演奏され、その大成功を翌日マーラーは師であるブルックナーに次のような手紙を送り報告している。
昨日(聖金曜日)私はあなたの素晴らしい、そして力強い《テ・デウム》を指揮しました。一緒に演奏した人たちもすべての聴衆も、力強い構成と真に崇高な楽想に深い感動を与えられました。そして演奏の最後には、私が作品の最大の勝利と考えているものを体験しました。聴衆は黙って座り続け、身動きすることもなく、指揮者である私と演奏者たちが席を離れてから、はじめて喝采の嵐が巻き上がったのです…。『ブルックナー』は、今やハンブルクへの勝利に満ちた入場を成し遂げたのです。マーラーの言う「最大の勝利」を体感できる演奏会となった同日、聖フローリアンではベルンハルト・ドイブラーの指揮により、ブルックナー最後の教会典礼用作品である「王の御旗は翻る」が初演された。まことにモニュメンタルな人生一度きりであろうと思ったのであろう、「生きている」ことに感謝した演奏に出会うことがある。第9交響曲は未完に終わり、第4楽章の完成はかなわないと察したブルックナーは、この交響曲を演奏するときには終楽章の代わりに《テ・デウム》を演奏して欲しいと言い残した。〝ベートーヴェンの第9〟が脳裏をかすめたのか、未完で終わった自分への鎮魂を手向けて欲しかったのかは今となっては知れない。本声楽部分の処理が巧みなズービン・メータの棒による都会的でスタイリッシュともいうべき個性的名演。ブルックナーの宗教曲とメータ…あまり馴染みがないように思われるが、1970年代半ばのメータはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と組んで、耽美的なまでにロマンティックな演奏を展開していた。ここでもオーケストラとコーラスが一体となった敬虔で美しい世界を描き出している。作品がポピュラリティのない作品なので他の演奏との比較はできませんが、それでもメータの覇気の漲る指揮と名門オーケストラをよくドライヴしている様子は伝わってきます。1989年4月25日に初版が出版された、「新版・クラシックの名曲・名盤 (講談社現代新書)」で音楽評論家の宇野功芳による有名な批評文がある。
僕にいわせれば、たった一言で終わりである。「メータのブルックナーなど聴きに行く方がわるい」。知らなかったとは言ってほしくない。ブルックナーを愛する者は、そのくらいは知らなくてはだめだ。というのだ。この批評文は刊行当時から長きに亘って、愛好家の間に広く膾炙し、「メータのブルックナーなど聴くものではない。」という「聴かず済ます」を蔓延させることにもなってしまっている判断理由の裏付けとして要因として影響が強いとみているが、この宇野の評文は〝著作上のレトリック〟なのかもしれません。いまや、コンサートのみならず、オペラにおけるレパートリーも広範にわたる。響きは豊潤、スケールは雄大であり、かつての巨匠指揮者を偲ばせる芸風である。1959年にはウィーン・フィル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビューし、大成功を収めたのは若干23歳の時。ヘルベルト・フォン・カラヤンの後継者に目されるほどの聴かせ上手だった若き日のメータは1962年からロサンジェルス・フィルハーモニックの音楽監督に就任。デッカ=ロンドンの売れっ子指揮者として、録音効果のあがるダイナミックな音楽ばかりで勝負していくことになる。メータとロサンジェルス・フィルが、UCLAのロイス・ホールでセッション・レコーディングで制作したアルバムは、どれも音質が良く、演奏も当時の彼らならではの勢いの良さとダイナミックな力強さが気持ちの良いものばかりで、そうした傾向と作品の性格が合致した場合は無類の心地よさを感じさせてくれたものでした。ダイナミックな迫力、ティンパニのクリアな轟き、躍動的なリズム、艶っぽい響き、同じカラヤン&ウィーン・フィルとはまるで異なる聴き応えです。力感も十分あり、特にホルンは他のオーケストラでは聴けない独特の音色を思いっきり強奏させて痛快。若いメータを迎えたウィーン・フィルとデッカ・スタッフが生み出した〝このときしか出来ない〟演奏だったのかも知れません。本盤、1976年6月、12月ウィーン、ソフィエンザールでのセッション、デッカの名物プロデューサー、ジョン・カルーショーのチームの残党クリストファー・レイバーンとジェームス・ロックという二人の偉大な制作陣の業物、録音秀逸なのは言うまでもない。
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ステレオ録音黎明期の1958年から英国デッカレーベルは、〝Full Frequency Stereophonic Sound(FFSS)〟と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた。レコードのステレオ録音は、英国デッカが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英デッカは、1941年頃に開発した高音質録音〝ffr〟の技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英デッカはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとして〝FFSS〟が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。クラシックの録音エンジニアの中で、ケネス・ウィルキンソンは一部のファンから神のように崇められている。サー・ゲオルグ・ショルティはデッカレーベルで、ゴードン・パリー、ケネス・ウィルキンソン、ジェームズ・ロックの3人に限って録音をしているほどだ。録音の成功はプロデューサーにかかっている。また内田光子が「真に偉大なプロデューサー」と語ったエリック・スミス(1931〜2004)は、デッカとフィリップスで35年間にわたって活躍し、数々の名盤を世に送り出しました。名指揮者ハンス・シュミット=イッセルシュテットを父に持つ彼は、その父親と組んでウィーン・フィルハーモニー管弦楽団初のステレオ録音全集を完成させる。当時ウィーン・フィルのシェフであり、録音の偉業を望んでいたヘルベルト・フォン・カラヤンではなかった理由はそこにありそうだ。指揮者よりも、エンジニアが主導権を持っているようだったとセッションの目撃証言がある。またズービン・メータの「展覧会の絵」の第1回の録音セッションに居合わせたレコード雑誌の編集長は、デッカのチームはホールの選択を誤った、と感じていた。指揮者のメータはそれまでの分を全部録り直すようだろうと予見していたが、プレイバックを聴いたら、その場で聞く音とは比較にならない〝素晴らしい〟出来に化けていたという。もちろんそれが商品として世に出ることになる。マイク・セッティングのマジック、デッカツリーの威力を示すエピソードですが、デッカでは録音セッションの段取りから、原盤のカッティングまでの一連作業を同一エンジニアに課していた。指揮者や楽団員たちは実際にその空間に響いている音を基準に音楽を作っていくのだが、最終的にレコードを買う愛好家が耳にする音に至って、プロデューサーの意図するサウンドになるというわけだ。斯くの如く、演奏家よりレコードを作る匠たちが工夫を極めていた時代だった。
- Record Karte
- ジュディス・ブレゲン(ソプラノ)、マルガリータ・リロワ(アルト)、クラエス・ホーカン=アーンシェ(テノール)、ペーター・メーヴェン(バス)、ウィーン国立歌劇場合唱団(合唱指揮:ノルベルト・バラッチュ)、ヨーゼフ・ベック(オルガン)、1976年6月、12月ウィーン、ゾフィエンザールでのエンジニアはジェームス・ロック、プロデュースはクリストファー・レイバーンによるセッション、ステレオ録音。
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