34-20637

通販レコード→GB NARROW BAND ED4 120㌘重量盤

GB DECCA SXL6814 ゲオルグ・ショルティ シカゴ交響楽団 チャイコフスキー 交響曲6番「悲愴」

商品番号 34-20637


《真空管アンプで聴くことにこだわりたいDECCA優秀録音盤》

豪快でダイナミックな中に、繊細な響きやピアニシモの磨かれた表情なども垣間見られる、純粋な音響美を追及したショルティらしい演奏。

レコードの冒頭、これでもかというくらいの最弱音がオーディオシステムのノイズに埋もれないで聴き取れるか。その後一気に炸裂して降りかかるブラスの怒号、ティンパニの轟き、弦楽器のうねるような迫力にスピーカーが悲鳴をあげないか。そして、最後は再び、聴き取れるか聞き取れないかの最弱音に音楽が消えていく。

交響曲第6番は、初演後チャイコフスキーが急死していることと、《悲愴》というタイトルのミステリーも相まって指揮者により演奏解釈が異なることが目立つ。特に1980年代後半になって自筆稿の研究が行われ、第4楽章の発想記号が元々「アンダンテ・ラメントーソ」と書かれており、そのアンダンテがペンで塗り潰されて「アダージョ」と書き換えられていることが判明した。さらに筆跡を調べた結果、「アンダンテ・ラメントーソ」は作曲者チャイコフスキーの手によるものだが、「アダージョ」に書き換えた筆跡は本人のものではなく、チャイコフスキーの死の13日後、この曲が再演された際に指揮をしたエドゥアルド・ナープラヴニークのものであった。他にも多数の発想記号がナープラヴニークの手によって追加されていたことも判明している。ただし、チャイコフスキーの友人であるナープラヴニークのこの加筆を、単に改竄と断じることは難しい。

ショルティ唯一の「悲愴」の録音 ― 引き締まった辛口なテイストと、飲み込まれそうなドラマティックな音響の渦。

名技集団シカゴ交響楽団のチャイコフスキー交響曲の録音を代表する、サー・ゲオルグ・ショルティとの第6番は、この終楽章を『アダージョ』として演奏しているが『アンダンテ』として演奏しているフェドセーエフよりは速い。ショルティ&シカゴ響と同じタイミングの1976年5月にヘルベルト・フォン・カラヤンが自身6度目となる「悲愴」の録音をベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮しておこなっています。無用な感傷はばっさり捨てて、楽譜情報を真摯に組み上げるショルティのチャイコフスキーは内声も重視したもので、経過的な部分にまで端正な造形感覚の反映されたシンフォニックなスタイルが目立った特徴となっています。
ショルティとシカゴ響は、感情過多にならずに、メランコリーになりすぎずに、あくまで作品をそのままの作品として演奏している。あらゆる点で均衡のとれた、模範的といってよい演奏だ。ゆっくりのテンポの美しい旋律は、とてもワーグナーの楽劇「ラインの黄金」のドンナー(ショルティの看板レコード)を収録した同じ指揮者とは思えません。
本盤では、その名器(=名技集団)を完璧にドライブ、尤も数が尋常でないのでドライブできない指揮者では手におえない。ハンガリー生まれのマジャール気質を十分に発揮。「精神性」を尊ぶ日本のクラシック音楽ファンの間では賛否が別れたが、マッチョな力感が魅力のシカゴ響だともってこい。とにかく凄まじい演奏。冒頭からただならない気配が支配し、その空気が全曲を覆う。
コントラバスが奏でるかすかな響きにファゴットの不気味な旋律が加わる途端に心奪われる。それでもロマンに溺れないヴァイオリンの引き締まってキビキビとした演奏。抑圧が最高潮に高まると、第1楽章だけは金管がたくましい音を鳴らし、ティンパニーが轟き、弦楽器が煽るように緊張感を高めるが、第2楽章では優雅なチェロ、うっとりさせるようにヴァイオリンは奏でる。運動機能抜群のシカゴ響の明るい音色を活かして、弦楽器が幾重にも重なるハーモニーが美しい演奏だ。
第3楽章のリズムは厳格、ワルツに揺れることはなく、〝ラメントーソ悲しげに〟の第4楽章は耽美的になりすぎずシンフォニックに描いていきます。クライマックスに達したときのオーケストラの厚みがすごい。オーケストラがシカゴ響、レコーディングがデッカのセッションということで、チャイコフスキーの重要な要素である劇的な盛り上がりなどは強烈なサウンドで仕上げられており、迫力ある大交響曲としての重量級の存在感には特別なものがあります。
オーケストラの響きは深々としていて実在感があり、息の長い旋律には生命感が漲り、押しと引きの対比も鮮やかで、精鋭シカゴ響の持ち味である驚異的な表現力の幅がいかんなく発揮されています。
ショルティ&シカゴ響ならではともいうべき圧倒的な迫力に満ちた名演。金管の咆哮はエフゲニー・ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の演奏と双璧ではないでしょうか。チャイコフスキーのドラマチックな展開を堪能できます。

1949年には最晩年の作曲家リヒャルト・シュトラウスと出会い、貴重な助言を授かった。同年9月8日にリヒャルト・シュトラウスが亡くなった際、ショルティは葬儀でオペラの代表作「ばらの騎士」の一場面を指揮した。
英デッカのプロデューサー、ジョン・カルーショウは1958年、リヒャルト・ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」4部作初のステレオ全曲録音を名門ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で実現したとき、「従来のワーグナー指揮者にない感性と聴覚の鋭さ、すべての旋律を切り立たせる力を備えた鬼才」としてショルティ起用に踏み切った。結果は世界でベストセラーの大成功。これらリヒャルト・シュトラウスとリヒャルト・ワーグナーの作品は終生、ショルティのオペラ指揮の柱となった。
ショルティの音楽の特性はマジャール気質からくる硬派、豪快、ダイナミックで、甘えのない厳格かつ躍動感にあふれる演奏。その反面 、比類なき生彩に満ち満ちた輝きを放つ。早いテンポでオーケストラを煽り、楽器を鳴らしまくるため聞き逃されてしまうが、対位法などのオーケストレーションを含む曲の構造に留意し精緻なアンサンブルを要求するといった論理的なアプローチも特色の一つで、完全主義者といわれる所以でもある。
マーラーの交響曲演奏に於いても、バーンスタインがマーラーの歌謡性に重きを置いたのに対し、ショルティはポリフォニーの表出とオーケストレーションの再現が主眼となっている。マーラーの書いた音符すべてを明確に鳴らしきった結果、マーラーの弟子ブルーノ・ワルターが米Columbiaに録音した交響曲2番《復活》よりも ― マーラーのグロテスクさが全面に現れており現代のマーラー演奏が規範にしていると思われる。
もっとも、かなりいびつな構成をもつこの曲を、聞き手が受け入れやすいように、マーラーの師事を無視してまで、古典的な均衡をもつ名曲として聴かせたワルターの志向の延長線上にあるのではないか。この作品が内包している文学的アプローチよりも、音の構築物としてスコアと対峙する音楽作り。ショルティは自伝の中で『復活』は「ベートーヴェンに近い」と語っています。
知名度という点ではヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタインと並ぶ、20世紀、特に戦後を代表する指揮者。半世紀にわたり一貫してDECCAに録音し数々の名盤を遺した重要なアーティストであり続けた。そのレパートリーは多岐にわたり、ヨハン・ゼバスティアン・バッハからショスタコーヴィチまで幅広く網羅。おそらく有名交響曲作家で一曲もやっていないのはシベリウスぐらいではないか。意外なことに現在、ワーグナーの10大オペラ、マーラー交響曲全集、ブルックナー交響曲全集を出しているただ1人の指揮者でもある。
ショルティはデッカ・レーベルで、ゴードン・パリー、ケネス・ウィルキンソン、ジェームズ・ロックの3人に限って録音をしているほどだ。このチャイコフスキーの録音を行ったのが、ジョン・カルーショーの残党レイ・ミンシャルとケネス・ウィルキンソン。ケネス・ウィルキンソンは一部のファンから神のように崇められている。ショルティも第5番は何度も録音しているが、ショルティ唯一の録音。そういう気概はカラヤンと似ている。

  • Record Karte
    • 演奏:サー・ゲオルグ・ショルティ指揮、シカゴ交響楽団
    • 録音:1976年5月シカゴ、メディナ・テンプル。
    • プロデューサー:レイ・ミンシャル
    • エンジニア:ケネス・ウィルキンソン
    • チャイコフスキー:交響曲6番ロ短調作品72「悲愴」
    • 英国初出は「SXL6814」NARROW BAND ED4。

CDはアマゾンで

チャイコフスキー:交響曲第5番 他(限定盤)
サー・ゲオルグ・ショルティ
Universal Music
2022-08-24


チャイコフスキー:交響曲第4番
ショルティ(サー・ゲオルグ)
ユニバーサル ミュージック クラシック
2007-02-21


チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番、他
アンドラーシュ・シフ
ユニバーサル ミュージック
2019-11-20


関連記事とスポンサーリンク
ステレオ録音黎明期1958年から、FFSS(Full Frequency Stereophonic Sound)と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国DECCAレーベル。第2次世界大戦勃発直後の1941年頃に潜水艦ソナー開発の一翼を担い、その際に、潜水艦の音を聞き分ける目的として開発された技術が、当時としては画期的な高音質録音方式として貢献して、レコード好きを増やした。繰り返し再生をしてもノイズのないレコードはステレオへ。レコードのステレオ録音は、英国DECCAが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英DECCAは、1941年頃に開発した高音質録音ffrrの技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。1945年には高域周波数特性を12KHzまで伸ばしたffrr仕様のSPレコード盤を発売し、1950年6月には、ffrr仕様の初のLPレコード盤を発売する。特にLP時代には、この仕様のLPレコードの音質の素晴らしさは他のLPと比べて群を抜く程素晴らしく、その高音質の素晴らしさはあっという間に、当時のハイファイ・マニアやレコード・マニアに大いに喜ばれ、「英デッカ=ロンドンのffrrレコードは音がいい」と定着させた。日本では1954年1月にキングレコードから初めて、ffrr仕様のLP盤が発売された。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英DECCAはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLPレコード3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとしてFFSSが使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売。そのハイファイ録音にステレオ感が加わり、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。Hi-Fiレコードの名盤が多い。

どれほど素晴らしい音楽的才能に恵まれていても、忍耐に欠けている人は録音には不向き。ところが、どれほど困難な状況であっても、やり遂げてしまう気骨がショルティにはあった。

サー・ゲオルグ・ショルティ(Sir Georg Solti KBE, 1912.10.21〜1997.9.5)は20世紀に最も活躍した指揮者の一人で、ヨーロッパ、アメリカの音楽文化をリードしてきました。
実演、録音の両分野を通じオペラ指揮者として世界的評価を確立したのが実態だ。
最初のイギリス・デッカ・レーベル(DECCA)へのレコーディングは1947年、デッカの特別なアーティストとして半世紀にわたり250を超える膨大な録音を残し、そのうちの45はオペラの全曲です。
ゲオルグ・ショルティは日本では米国シカゴ交響楽団の音楽監督(1969~91年)として名声を博したが、57歳で同響に招かれるまでオーケストラに固定ポストを得たことはなかった。
ショルティのシカゴ響との注目すべきパートナーシップは1954年に始まり、その時ショルティはラヴィニア音楽祭で初めてこのオーケストラを指揮しました。
1956年リリック・オペラへ客演するためにシカゴに戻り、1965年12月9日シカゴ、オーケストラ・ホールでデビューを果たしました。
彼の音楽監督としての最初のコンサートは1969年9月でした。ショルティは22年間(1969〜91年)、音楽監督を務め、その後桂冠指揮者として7年間(1991〜97年)、死の直前までその活動を続けました。1971年に最初のツアーをスタートさせ、世界中にこのオーケストラの存在を広めた功績を忘れることはできません。
イギリス・デッカへのショルティの録音は、1970年3月にシカゴのメディナ・テンプルで行われたマーラーの交響曲5番の初期録音から、1997年3月にシカゴのオーケストラ・ホールで行われたショスタコーヴィチの交響曲15番まで、シカゴ響との演奏は世界における最も有名な指揮者とオーケストラのパートナーシップと高く評価され、グラミー賞も数多く受賞しました。ショルティの幅広いレパートリーには、ヘンデルのオラトリオ『メサイア』、ハイドンのオラトリオ『天地創造』、ベルリオーズの劇的物語『ファウストの劫罰』、リストの『ファウスト交響曲』、そしてまたショスタコーヴィチの歌劇『モーゼとアロン』のような20世紀の傑作なども見られます。シカゴ響とともに新しい作品に取り組み、現代作曲家を擁護し、マルティヌーのヴァイオリン協奏曲1番、デル・トレディチの『最後のアリス』、ティペットの交響曲4番と『ビザンティウム』、ルトスワフスキの交響曲3番などの初演も行いました。ショルティは生涯にわたりグラミー賞を33回受賞しましたが、そのうち24回はシカゴ響とともに受賞しました。

とにかく、あの人は骨のある人で、自分の芸術に対しても真摯な態度を貫いており、効果だの立身出世しか眼中に無い芸術家ではありません。今日のような状況では、それだけですでに立派なものです!―フルトヴェングラー

一家はもともとシュテルン(「星」の意味)というユダヤ系の姓を名乗った。父親が子どもたちの将来を案じ、よりハンガリー風のショルティに改めた。ブダペストのリスト音楽院で大作曲家のバルトーク、コダーイ、エルンスト・フォン・ドホナーニ、ヴェイネルらの教えを受け、ピアノ、作曲、指揮を学び、最初はピアニストとしてコンサート・デビューを果たしました。13歳の時にエーリヒ・クライバー(カルロス・クライバーの父)が指揮するべートーヴェンの交響曲第5番を聴き、指揮者を志した。旧ハプスブルク帝国の一角だけに、ハンガリーでも歌劇場で指揮者を育てるシステムが整い、ショルティは18歳でブダペスト歌劇場のコレペティトゥア(指揮者の能力を備えた練習ピアニスト)に就職した。1936年にザルツブルク音楽祭のオーディションに受かり、ザルツブルク音楽祭でアルトゥーロ・トスカニーニの助手を務めました。最初の国際的な大舞台は、大指揮者トスカニーニが指揮したモーツァルトの歌劇「魔笛」で、かわいらしい音がする打楽器のグロッケンシュピールを担当したことでした。1991年のモーツァルト没後200年にザルツブルクで「魔笛」を指揮したショルティはグロッケンシュピールを打ち、トスカニーニの思い出を語った。良い時代は続かなかった。ナチスを恐れ、トスカニーニのつてでスイスから米国へ逃れようと考えたショルティは1939年8月15日、ブダペスト中央駅を旅立った。父が見送りに来て感極まり、息子は「1週間の別れで泣くなよ!」とたしなめた。「それが父を見た最後でした」一度は帰国を試みたが「母は何かを予感したのか、絶対にダメだと言った」。亡くなる5日前まで続いたBBC英国放送協会のインタビューで、ショルティは涙ながらに振り返った。番組は死後に日本のNHKでも放映され、大きな反響を呼んだ。生活に困りジュネーブ国際音楽コンクールのピアノ部門に応募したところ優勝、ようやく芽が出た。
終戦直後、ハンガリーでの復職を望んだが断られ駐留米軍人として欧州に戻ったリスト音楽院の同級生のつてでナチス崩壊直後のドイツ、しかも廃虚のミュンヘンでバイエルン州立歌劇場音楽監督のポストを得た。経験不足は明らかだったが「物資も資金も同じように不足、上演回数が限られていたので勉強する時間があり、助かった」という。1949年には最晩年の作曲家リヒャルト・シュトラウスと出会い、貴重な助言を授かった。同年9月8日にシュトラウスが亡くなった際、ショルティは葬儀でオペラの代表作「ばらの騎士」の一場面を指揮した。英デッカのプロデューサー、ジョン・カルーショウは1958年、リヒャルト・ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」4部作初のステレオ全曲録音を名門ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で実現したとき、「従来のワーグナー指揮者にない感性と聴覚の鋭さ、すべての旋律を切り立たせる力を備えた鬼才」としてショルティ起用に踏み切った。結果は世界でベストセラーの大成功。これらリヒャルト・シュトラウスとワーグナーは終生、ショルティのオペラ指揮の柱となった。
フルトヴェングラーは1954年に風邪をこじらせて急逝しているから、ショルティがリヒャルト・シュトラウスに出会ってからの以降を、どれほど知っていたかはわからないが、録音技術革新の1950年代。この時代に、ショルティのような指揮者が現れたことは、録音技術の〝黄金の50年(60年)〟を築く上でも幸運であったともいえる。特に「ニーベルングの指環」での功績は、ショルティの名前は永劫に偉業だったと記憶される存在になろうが、ショルティの芸風がそこから掴めることはないだろう。

理想主義者にして実用主義の一面もある。

そうした人生が反映して、ショルティの音楽のバネになっていると思う。マーラーの交響曲演奏に於いても、バーンスタインがマーラーの歌謡性に重きを置いたのに対し、ショルティはポリフォニーの表出とオーケストレーションの再現が主眼となっている。マーラーの書いた音符すべてを明確に鳴らしきった結果、マーラーの弟子ブルーノ・ワルターが米Columbiaに録音した交響曲2番《復活》よりも ― マーラーのグロテスクさが全面に現れており現代のマーラー演奏が規範にしていると思われる。もっとも、かなりいびつな構成をもつこの曲を、聞き手が受け入れやすいように、マーラーの師事を無視してまで、古典的な均衡をもつ名曲として聴かせたワルターの志向の延長線上にあるのではないか。この作品が内包している文学的アプローチよりも、音の構築物としてスコアと対峙する音楽作り。ショルティは自伝の中で『復活』は「ベートーヴェンに近い」と語っています。
知名度という点ではヘルベルト・フォン・カラヤン、レナード・バーンスタインと並ぶ、20世紀、特に戦後を代表する指揮者。なによりもショルティと ― この頃には ― 関係良好だったウィーン・フィルと後世に語り継がれるオペラをウィーンのソフィエンザールで次々と録音している。すでに定評があるショルティならでは、半世紀にわたり一貫してDECCAに録音し数々の名盤を遺した重要なアーティストであり続けた。そのレパートリーは多岐にわたり、ヨハン・ゼバスティアン・バッハからショスタコーヴィチまで幅広く網羅。おそらく有名交響曲作家で一曲もやっていないのはシベリウスぐらいではないか。 意外なことに現在、ワーグナーの10大オペラ、マーラー交響曲全集、ブルックナー交響曲全集を出しているただ1人の指揮者でもある。さて、ショルティの音楽の特性はマジャール気質からくる硬派、豪快、ダイナミックで、甘えのない厳格かつ躍動感にあふれる演奏。その反面 、比類なき生彩に満ち満ちた輝きを放つ。早いテンポでオーケストラを煽り、楽器を鳴らしまくるため聞き逃されてしまうが、対位法などのオーケストレーションを含む曲の構造に留意し精緻なアンサンブルを要求するといった論理的なアプローチも特色の一つで、完全主義者といわれる所以でもある。
ハンガリー人の激しい気性を表す、「マジャール気質」という言葉がある。ショルティも十分マジャール気質を発揮、還暦(60歳)過ぎても、激しく振り過ぎた指揮棒を自らの額に刺し、血を流す「事件」を起こした。演奏もマッチョな力感に溢れウィーン・フィルやシカゴ交響楽団、ロンドン交響楽団と行った来日公演も「精神性」を尊ぶ日本のファンの間では賛否が分かれた。ショルティの各楽曲に対するアプローチは、マーラーの交響曲だけにとどまらずすべての楽曲に共通していると言えるが、切れ味鋭いリズム感とメリハリのある明瞭さであり、それによってスコアに記されたすべての音符を完璧に音化していくということが根底にあったと言える。かかるアプローチは終生変わることがなかったとも言えるが、1980年代以降になると陰影が加わり、ジュゼッペ・ヴェルディの渋いオペラ「シモン・ボッカネグラ」などでの枯れた指揮ぶりは長年の聴衆を驚かせた。演奏に円熟の成せる業とも言うべき奥行きの深さ、懐の深さが付加され、大指揮者に相応しい風格が漂うことになったところだ。「ザ・ラスト・レコーディング」と銘打たれたブダペスト祝祭管弦楽団との1枚は40数年ぶりでハンガリーに帰郷、奇跡的に残った祖父母の墓参りを済ませた前後の1997年6月末に録音された。曲目はバルトーク・ベラの「カンタータ・プロファーナ」とヴェイネル・レオーの「小オーケストラのためのセレナード」、コダーイ・ゾルターンの「ハンガリー詩編」。リスト音楽院時代の恩師3人に捧げたアルバムで、ショルティは輝かしい盤歴を閉じた。シカゴで共演したピアニスト、田崎悦子に「忘れちゃいけないよ。明日もまた、鳥はさえずるんだよ」と声をかけた通り、ショルティのマジャール魂は最後の一瞬まで不滅だった。