ウィーンっ子たちが、緩徐楽章のヴァイオリン・ソロのメロディーを口ずさんで往時を懐かしんだ ― というのは有名な話。〝シュミットの交響曲第4番〟はウィーン好きには堪えられない一枚です。日本では人気がありませんが、ブルックナーに馴染んでいれば、オペラ《ノートルダム》、交響曲4曲、《ハンガリー騎兵の歌による管弦楽のための変奏曲》へと聴き進んで欲しい。ブルックナーを師に持つフランツ・シュミットは終始調性を保持し、12音音楽の方向へ進むことはなく伝統的なスタイルの中で独自の作風を展開しました。しかも、変奏曲形式に対する愛着があったことは「ハンガリー騎兵の歌による管弦楽のための変奏曲 」の愛らしさに表出しているし、シュミットにとっての〝不安の時代〟の和音が支配する本盤でも魅力を発揮している。表現主義から無調、12音技法へと進み、20世紀前半の革命的は作曲家であったシェーンベルクと同い年で、1874年生まれのシュミットはブルックナーがウィーンで教えた直接の弟子にあたる人物であり、マーラーがウィーン国立歌劇場の指揮者を務めていた時代に音楽アカデミーを卒業後に宮廷歌劇場管弦楽団を経て、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団でチェロ奏者を務めていたそうなので、ドイツ後期ロマン派の時代にどっぷり生きた人物と言えるでしょう。同時に作曲家としても活躍、後にウィーン音楽アカデミー院長を務めた。《交響曲第4番》は、早生した娘の追悼のために書かれ、同院長時代の1933年に完成した。単一楽章だが楽想は4つの部分に分かれる。冒頭のトランペットのテーマが第1部で濃密に展開、第2部で葬送行進曲的な部分が現れ、第4部では冒頭の主題が回帰して曲が締めくくられる、後期ロマン派の伝統を受け継ぐ大作。若きズービン・メータが29歳のときに、はじめてウィーン・フィルを指揮したブルックナーの交響曲第9番の名演は、1965年と66年にゲオルグ・ショルティの指揮で第7番と8番。1969年にはクラウディオ・アバドと第1番。1970年以降に、カール・ベームと第3番と4番。ロリン・マゼールと第5番、ホルスト・シュタインと第2番と6番を録音しウィーン・フィルによるブルックナーの交響曲全集がデッカにより完結、日本でも国内盤でそれが売り出される原動力となった。その成功を祝って録音した、ご褒美のような本盤。シュミットの《交響曲第4番》は個人的な追悼としての音楽ではあるのかも知れませんが、ウィーンの伝統に深く根ざした音楽もことさら深刻にならず、自然な流れの方が強く印象に残る。これは後期ロマン派における最大の交響曲作曲家の両雄であるブルックナーやマーラーの名演を数多く聴かせてくれるウィーン・フィルだからこその演奏でしょう。推薦盤。そう多くはありませんが、ハッタリのない〝シュミットの交響曲第4番〟の快演盤のひとつで、オルガンが伴っていそうな壮麗なサウンドをもったいぶらずに輝かしく響かせ音楽の大きなうねりが実に感動的なのですが、まっとうなテンポと声部バランスによって作品の細部に至るまで丁寧に示しています。第1楽章の情熱がアダージョに転じてから登場するチェロのソロは、ウィーン・フィルのエマヌエル・ブラベッツが憂いや悲しみの色合いが増した音楽の中に、その旋律を口ずさみたくもさせる際立った腕前を聴かせている。そのブラベッツは1956年にヒンデミットに率いられウィーン・フィルが初来日した際に同行しており、チェロ首席奏者としてブラームスの「二重協奏曲」のソロを引き受けている。スコアに含まれた〝歌〟を丹念に、耳にはっきり聴こえるようにクローズアップしていく録音。木管のソロは、スポットライトを当てるのも当然と言えるほどの美しさ。その美しさは煌びやかさや光沢の度合いではなく、特徴あるウィーン・フィルの楽器の音色をリアルな質感で捉え、ゾフィエンザールを満たす豊かな響きを捉えた、1960年代から1970年代にかけてのウィーン・フィルのデッカ録音の魅力全開。
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フランツ・シュミットが《交響曲第4番》を手がけたきっかけは一人娘に先立たれたためだったそうで、曲は1933年に完成されました。最初の妻カロリーネは精神に変調をきたし精神病院に収容され、1932年には娘エンマが出産の直後に死去する。そういった経験が、曲に暗い影を落としている。まず曲は大きく4つの部分に分けられますが、45分強の間、切れ目なく続きます。曲にはアダージョ楽章やスケルツォ楽章に相当する部分が存在するが、同時に全体が一つの大きなソナタ形式となっている。冒頭のトランペット1本で22小節もの間、アレグロ・モデラートのテンポで静かに奏でられる主題は、調性と無調の間をたゆたいながら我々の心に言い知れぬ不安感を呼び起こす。この第1主題は作曲家が黄泉の世界にいる娘に発した呼びかけ(モールス信号)である。そのトランペットの流れは全管弦楽に広まってやがて落ち着くと、今度は深い溜息にも似た旋律が現われます。これが第2主題で、娘の幻影が立ち現れる。最初の部分はこれら2つの旋律で息の長い音楽として進められます。そしてこのパッショナート主題を再び奏でる独奏チェロによって絶望的で重々しい葬送行進曲を間に挟んだアダージョ部分が導入され、更に憂いや悲しみの色合いが増していきます。そこから一転して第3の部分は、動きのあるスケルツォですが、またもや「死」を連想させるタランテラのリズムが支配している。様々なモチーフはさながら行き交う人の動きのようでもあり、それをシニカルに見つめる作曲者自身の視点も感じられる。こうしたモチーフの動きが目一杯詰め込まれ、ついにホルンの咆哮により頂点に達したところで音楽は崩落し、最終部分として第1の部分が再帰してきます。最後は静かな弦の響きの上にまたトランペットが冒頭と同じ旋律を吹いて、静けさの中に帰って行きます。シュミットの他の交響曲も知らない訳ではありませんが、《第4番》の突出ぶりは異様なくらいで、この曲はもっと普遍的なレヴェルでの哀しみ、あるいは深い黄昏の色合いをも表した傑作であろうと思います。交響曲のうち第3番から第4番にかけてオルガンの響きや教会音楽を離れ、濃厚で芳醇な末期ロマン派色に染まってゆく。時代は哲学的に芸術を極めさせ、装飾のために装飾を施すスタイルが登場したりと過剰を追求した19世紀末のウィーンに於いて、ウィーン文化の重要な存在である音楽でも新たな道を切り拓こうとしてシェーンベルクが唱導した12音音楽も弟子のヴェーベルンやベルクに受け継がれ、この時代における最大の音楽潮流となった。しかしこの時代のすべての作曲家が12音技法を採用していたわけではない。しかし決して時代錯誤的な懐古趣味でウィーンの伝統的な音楽様式を復古させようとしたのではなく、そして「現代的」でないという批判など恐れるに足らないと考え、伝統の蓄積に敬意を払いつつ、その上に新たなる様式を創造することに心を砕いた。
フランツ・シュミット(Franz Schmidt, 1874年12月22日〜1939年2月11日)は、当時オーストリアであったプレスブルク(現スロヴァキアの首都ブラティスラヴァ)に生まれる。幼少の頃より傑出した天賦の楽才をみせ、音楽アカデミーを卒業後は宮廷歌劇場管弦楽団のチェロ奏者として採用され、ほどなくウィーン・フィルハーモニー管弦楽団にも加入した。同オーケストラに就職する際、13人のライバル候補を蹴落としたといわれる。マーラーにその能力を買われて首席奏者の座についたこともある。またピアニストとしても一流であり、音楽理論にも秀でていた上、1925年にウィーン音楽アカデミー理事に就任し、1927年には院長まで務めている。シュミットが1896年から1911年に宮廷歌劇場のチェリストだった時期は、ちょうど、マーラーが実権を握っていた1897年から1907年と重なる。だが、絶対者として君臨するマーラーに対しては反感をもち、マーラー嫌いを公言していたふしもある。シュミットは、おおむね保守的な作曲家と見なされている。しかし、作品の多くに見られるリズム面での巧妙さや和声の複雑さが、これを裏切っている。交響曲第4番の冒頭のトランペットの旋律は、彼にとっての《不安の時代》の和音とでも言うべきものだろう。シュミット自身の言によれば「人を永劫へと導く最後の音楽」であり、それゆえに、どれだけクライマックスを構築しても、それが栄華の表現にはならず、諦観の裏返しになったり、この世を儚む慟哭になったりする。聴き手はロマンティックな音楽に身を任せようとした途端に裏切られる。豊かな情感を保ちながらも、やがて、ある焦燥を感じさせながら疾駆していく何物かを聴衆に残す。ツェムリンスキーを思わせるようなロマンティックではあるが、調性に挑戦するかの如く危うげな雰囲気を伴って新たな時代に挑んでいく姿勢を見ることができる。オーストリアがファシズムに呑み込まれていく、困難で不安な将来を予感させる時代を象徴している。前衛的というには伝統的すぎるが、それにしては、演奏するのが至難なことでも評判が悪い。1970年代に彼の作品は地味な復活をとげたが、死後の評価は誤って伝えられたナチズム協力の非難のために長年にわたって好ましいものではなかったので、今も再発見や再評価の当時と変わっていない。シュミットがオーストリア共和国の消滅とともに世を去ったというのは、実に象徴的な出来事である。
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とは縁のある作曲家といったお家事情によっかかる必要もなく、ウィーン・フィルの素晴らしさはもう言わずもがな。寡作であったフランツ・シュミットの作品は4曲の交響曲、室内楽曲、オルガン曲、そして最高傑作とされるオラトリオ『七つの封印の書』といったアカデミックな傾向のものが多い。そのためオペラ作曲家として成功をおさめたツェムリンスキーやシュレーカーのように大衆的人気を得ることはなかった。また最後まで調性を放棄しなかったがゆえに、オリヴィエ・メシアン、ピエール・ブーレーズら戦後現代音楽の旗手たちに注目されることもなかった。そして「ブラームスとブルックナーの遺産の番人」などといった皮相な評価を与えられ、第2次大戦後オーストリア国内を除いてほとんど忘れられた存在であった。作品がポピュラリティのない作品なので他の演奏との比較はできませんが、それでもズービン・メータの覇気の漲る指揮と名門オーケストラをよくドライヴしている様子は伝わってきます。1959年にはウィーン・フィル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団を指揮してデビューし、大成功を収めたのは若干23歳の時。いまや、コンサートのみならず、オペラにおけるレパートリーも広範にわたる。響きは豊潤、スケールは雄大であり、かつての巨匠指揮者を偲ばせる芸風である。ダイナミックな迫力、ティンパニのクリアな轟き、躍動的なリズム、艶っぽい響き、同じヘルベルト・フォン・カラヤン&ウィーン・フィルとはまるで異なる聴き応えです。力感も十分あり、特にホルンは他のオーケストラでは聴けない独特の音色を思いっきり強奏させて痛快。若いメータを迎えたウィーン・フィルとデッカ・スタッフが生み出した〝このときしか出来ない〟演奏だったのかも知れません。カラヤンの後継者に目されるほどの聴かせ上手だった若き日のメータは1962年からロサンジェルス・フィルハーモニックの音楽監督に就任。デッカ=ロンドンの売れっ子指揮者として、録音効果のあがるダイナミックな音楽ばかりで勝負していくことになる。メータとロサンジェルス・フィルが、UCLAのロイス・ホールでセッション・レコーディングで制作したアルバムは、どれも音質が良く、演奏も当時の彼らならではの勢いの良さとダイナミックな力強さが気持ちの良いものばかりで、そうした傾向と作品の性格が合致した場合は無類の心地よさを感じさせてくれたものでした。
ステレオ録音黎明期の1958年から英国デッカレーベルは、〝Full Frequency Stereophonic Sound(FFSS)〟と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた。レコードのステレオ録音は、英国デッカが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英デッカは、1941年頃に開発した高音質録音〝ffr〟の技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英デッカはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとして〝FFSS〟が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。クラシックの録音エンジニアの中で、ケネス・ウィルキンソンは一部のファンから神のように崇められている。サー・ゲオルグ・ショルティはデッカレーベルで、ゴードン・パリー、ケネス・ウィルキンソン、ジェームズ・ロックの3人に限って録音をしているほどだ。録音の成功はプロデューサーにかかっている。また内田光子が「真に偉大なプロデューサー」と語ったエリック・スミス(1931〜2004)は、デッカとフィリップスで35年間にわたって活躍し、数々の名盤を世に送り出しました。名指揮者ハンス・シュミット=イッセルシュテットを父に持つ彼は、その父親と組んでウィーン・フィルハーモニー管弦楽団初のステレオ録音全集を完成させる。当時ウィーン・フィルのシェフであり、録音の偉業を望んでいたヘルベルト・フォン・カラヤンではなかった理由はそこにありそうだ。指揮者よりも、エンジニアが主導権を持っているようだったとセッションの目撃証言がある。またズービン・メータの「展覧会の絵」の第1回の録音セッションに居合わせたレコード雑誌の編集長は、デッカのチームはホールの選択を誤った、と感じていた。指揮者のメータはそれまでの分を全部録り直すようだろうと予見していたが、プレイバックを聴いたら、その場で聞く音とは比較にならない〝素晴らしい〟出来に化けていたという。もちろんそれが商品として世に出ることになる。マイク・セッティングのマジック、デッカツリーの威力を示すエピソードですが、デッカでは録音セッションの段取りから、原盤のカッティングまでの一連作業を同一エンジニアに課していた。指揮者や楽団員たちは実際にその空間に響いている音を基準に音楽を作っていくのだが、最終的にレコードを買う愛好家が耳にする音に至って、プロデューサーの意図するサウンドになるというわけだ。斯くの如く、演奏家よりレコードを作る匠たちが工夫を極めていた時代だった。
- Record Karte
- 1971年9月ウィーン、ゾフィエンザールでのエンジニアはゴードン・パリー、プロデュースはジョン・モルドラーによるセッション、ステレオ録音。
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