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〝理想のコンビが贈る理想の名演〟 ― オリエンタル・ムード溢れる異色の名曲。ヘブライ狂詩曲《シェロモ》は1916年にジュネーヴで作曲された。それまでエルネスト・ブロッホは旧約聖書中の『伝道の書』を声楽と管弦楽のために書きたいと思っていたが、ヘブル語の難しさに手をこまねいていた。1915年ブロッホはジュネーヴでロシアのチェリスト、アレクサンドル・バルヤンスキーと彫刻家である夫人のカテリーヌの芸術家夫妻と親しくなった。バルヤンスキーはチェロのための曲を書くようにすすめ、折りから夫人はソロモン王の像を完成した。生に疲れ、富に疲れ、己の権力に疲れたソロモン王の像を観た時、ブロッホの楽想は大きな刺激を受け、ソロモン王のイメージをチェロと管弦楽のための曲に生かそうと思い立ったという。曲はバルヤンスキー夫妻に献呈されている。《シェロモ》(Schelomo)とは、英語のソロモン、ドイツ語のザロモン、フランス語のサロモンのことで、ヘブル(ヘブライ)語読みを発音どおりに綴るとシェロモとなる。ソロモン王は紀元前10世紀のイスラエル王国第3代の王で、イスラエル第2代の王ダビデの末子に当たる。その治世はイスラエル王朝の黄金時代で文化興隆の盛時であった。ソロモンはその英知と勇気と高貴によって知られ、一代の栄華を極めたので、後世キリストも「栄華を極めたソロモン…」と語ったと伝えられる。彼がエルサレムに造営した王宮と神殿の壮麗さは長く後世の語り草になった。貿易拡大や政治改革によってイスラエル王国に繁栄をもたらしたとされる人物である。しかし、知の王として敬われた彼も、晩年は享楽に溺れ、重税で民衆の生活を圧迫し、さらに偶像を拝したために宗教的対立を生み、結果的には王国の分裂を招いた。生活に疲れ、企業も疲れ、権力も疲れさせている新型コロナウイルス禍は、新しい生活様式を求め、アイデンティティーを問いなおす時になっている。日本は、人口当たりの感染者数や死亡者数を、G7、主要先進国の中でも圧倒的に少なく抑え込むことができている。世界は「日本の謎」と評価している「日本モデル」は、マスク着用に慣れている、お風呂にはいること、靴を脱ぐ生活習慣、魚を生で食べる調理習慣、日本人はどうも既にコロナウイルスか、コロナウイルスに類似したものに感染していた経験を持っていて免疫システムが働いているのではないかという説も出てきています。日本で新型コロナウイルス感染症による死者が欧米主要国に比べて少ないのは、「民度のレベルが違う」からだと麻生太郎財務相が2020年6月4日の参院財政金融委員会で、独自の説を展開した。そして、この認識が国際的にも「定着しつつある」とも説明した。ロックダウン(都市封鎖)などを伴わない日本の新型コロナウイルス対策をめぐり、自由という価値を守り続けてきたことを高く評価できる。ただし、憲法上できなかったから、結果としてなっただけであって、死亡率は人口比で100万人当たり日本は7人。同じアジア民族の中で、中国、韓国、台湾は更に少ない。日本が一番優れていたわけではなかったのは、明治以来欧米文化に傾いてきている結果かもしれない。イスラエルは「鎖国」即断。まだ国内の死亡者は0人だった。「国民の皆さんは、家にとどまって下さい。もはや要請ではありません。命令です」と首相は警告、罰則付きの厳しい外出禁止令を出した。しかし翌日、88歳の男性が死亡した。初の死者だった。それが2日後には感染者が1千人を超え、人口が10倍以上ある日本の感染者数を一気に抜き去った。結果、市場は閉鎖、「外出は自宅から100メートルの範囲まで」「違反者には罰金」 ― 規制はどんどん強まった。これは結構なことでしたが。もっとも、ブロッホがヘブライ狂詩曲《シェロモ》で試みたのは、ソロモンの伝記を音楽で表現することではない。彼は作曲の動機について、「ユダヤ民族の音楽的再建を企てようというつもりはない」とことわった上で、自分たちの魂の底に眠っている民族感情を掘り下げたかったと述べている。彼にとって大事なのは、純粋な意味での真摯な音楽、自分自身の中に流れている血の最も濃厚な部分を抽出して作曲することだったのである。そういう意味では、ブロッホ自身のアイデンティティーの結晶ということが出来るだろう。
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2013年に89歳の生涯を終えたハンガリー出身の名チェロ奏者ヤーノシュ・シュタルケル。彼の録音のなかから、エルネスト・ブロッホによるヘブライ世界をテーマにした作品のカップリング。ヘブライ狂詩曲《シェロモ》と交響詩《荒野の叫び》は、実質的には20世紀のチェロ協奏曲のひとつと言ってよい作品で、シュタルケルのチェロがブロッホの世界観を見事に描き出した名演です。ズービン・メータに鍛えられたイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団も民族的テーマの作品の演奏には定評があります。《シェロモ》はブロッホが熱情を込めて自由なラプソディー形式で書き上げた傑作。西欧的イメージと一線を画している旋律が、陰鬱な雰囲気で保ってチェロが奏で始めるや、私たちは壮大な叙事詩の中へと引き込まれ、古代イスラエルの民となり、やがて映画のような音のスペクタクルを目の当たりにする。そして独奏チェロは、時にソロモンの声となり、時に語り部(解説者)となり、オーケストラと触発し合い、狂乱、情熱、歓喜、残虐、官能、瞑想のドラマを描き出す。凶暴なまでに美しい夢幻。演奏時間は約20分にすぎないが、違う世界に行って戻って来たようなトリップ感がいつまでも残る。聴き終えると、またその世界へ行ってみたくなる。レオポルド・ストコフスキー指揮、フィラデルフィア管弦楽団の演奏による1940年の録音がSPレコード時代を代表する名演奏。良くも悪くもアクの強いストコフスキーだが、色彩感に溢れているアンサンブルでもって、エマヌエル・フォイアマンの意を汲んだ素晴らしいサポートぶりを披露している。フォイアマン自身ユダヤ人であり、波瀾万丈の人生を送っていたこともあって、《シェロモ》には格別の愛情と共感を抱いていたものと思われる。一音に漲る迫力と悲壮感、そして格調の高さに圧倒される。チェロにやたらと細かい表情がありすぎたり、フレージングに妙味を持たせすぎたり、大風呂敷を広げてドラマ性を強調しすぎたりすることで、作品の本質から遠ざかっている演奏も少なくない。過ぎたるは及ばざるがごとし。それらは全て茶番劇である。フォイアマン盤が存在する以上、何の価値もない、とさえいいたくなる。シュタルケルとメータが組んだ録音も名演。名ヴァイオリニスト、ブロニスラフ・フーベルマンによりパレスティナ交響楽団としてスタートしたイスラエル・フィルご自慢の弦楽の威力を活かしきった、鮮やかな棒さばきにも唸らされる。
ヤーノシュ・シュタルケル(Janos Starker)は、1924年7月5日、ポーランド系の父とウクライナ移民の母の元にブダペストに誕生。2人の兄はヴァイオリンを学んでいましたが、ヤーノシュは幼い頃からチェロを弾き、ブダペスト音楽院に入学、アドルフ・シファーとレオ・ヴェイネルに師事、11歳でリサイタル・デビューし神童ぶりをうたわれた。翌年には海外公演もおこなっており、さらに、14歳の時には、わずか3時間の練習で代役としてドヴォルザークの「チェロ協奏曲」に出演してコンサート・デビューも果たすほどの天才ぶりでした。しかし、シュタルケルはユダヤ系だったため、1939年にブダペスト音楽院を卒業すると、強制労働に従事させられ、大戦末期の3ヶ月間は両親と共に強制収容所にいました。その間、2人のヴァイオリニストの兄、ティボールとエーデは当時のドイツ政府によって殺されたと言われています。戦争が終わると、シュタルケルは、ブダペスト歌劇場とブダペスト・フィルハーモニー管弦楽団の首席チェロ奏者となりますが、翌年ソ連が侵攻してきたため、祖国を後にし、まずウィーンでコンサートを開いて成功を収めます。そして、ジュネーヴを経てパリに拠点を移し、コンサートやレコーディングに力を注ぎ、1948年、パシフィック・レーベルにコダーイの「無伴奏チェロ組曲」を録音、このレコードがディスク大賞を受賞すると名声が一躍高まります。ほどなくアンタル・ドラティの招きもあってアメリカ移住を決意、まずダラス交響楽団の首席チェリストとなりますが、翌年にはフリッツ・ライナーの誘いを受けてメトロポリタン歌劇場帰属楽団の首席奏者に就任、その後、1953年にライナーがシカゴ交響楽団に移るとシュタルケルも一緒に動き、1958年に退団するまでライナーのもとで活躍します。米RCAレコードへの録音でも名声を博したシュタルケルはその間、1954年にはアメリカの市民権を得ており、1956年にはヨーロッパ公演も実施、1958年にはインディアナ大学の音楽学部チェロ科主任教授に就任し、インディアナ州ブルーミントンに居を構え、長年にわたって演奏家活動と教育活動を並行しておこなってきました。豪快なテクニシャンとうたわれたシュタルケルは年齢を重ねるに従い強靭な造形力のもとで心の歌を深くうたいあげる境地に達していった。そのレコーディング総数は160を超えると言われ、卓越したテクニックと音楽性、優れた音質によって、世界的に高い評価を得たものが数多く含まれています。レコーディングなどでの使用楽器は、1950年から1965年までは主に、「アイレスフォード卿」という名前で知られるストラディヴァリウス、1965年以降はゴフリラーを中心に使用していたようです。
1959年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、イスラエル・フィルを指揮してデビューし、大成功を収めたのは若干23歳の時。ヘルベルト・フォン・カラヤンの後継者に目されるほどの聴かせ上手だった若き日のメータは1962年からロスアンジェルス・フィルハーモニックの音楽監督に就任。デッカ=ロンドンの売れっ子指揮者として、録音効果のあがるダイナミックな音楽ばかりで勝負していくことになる。メータとロスアンジェルス・フィルが、UCLAのロイス・ホールでセッション・レコーディングで制作したアルバムは、どれも音質が良く、演奏も当時の彼らならではの勢いの良さとダイナミックな力強さが気持ちの良いものばかりで、そうした傾向と作品の性格が合致した場合は無類の心地よさを感じさせてくれたものでした。インドはボンベイ生まれのメータは生粋のヒンズー教徒だったかと思う。そのメータが、ユダヤの「イスラエル・フィル」の地位をかれこれ60年近くつとめているのも面白い。イスラエル・フィルの歴史はイスラエル国の歴史とともに歩んできた。1935年にパレスティナ交響楽団として発足した楽団は1948年イスラエル国の独立宣言と同時に楽団名も「イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団」と改称された。メータが25歳の1961年に初めてこのオーケストラの指揮台に立った。同楽団は創設以来常任指揮者を置かないポリシーを通してきたが、楽団員の総意によって、1969年からメータがミュージカル・アドヴァイザー(音楽顧問)に就任し、以来メータは実質的にイスラエル・フィルの常任指揮者の役割を果たし、また1977年からは音楽監督として今日に至っている。メータもイスラエル・フィルに惚れ込み、「世界第一級のランクに入るオーケストラだ。格別弦楽が素晴らしい」と手放しで褒めちぎられている。メータとイスラエル・フィルは精神的な統一感とともに奇跡の音楽を生み出してきました。総員110名のイスラエル・フィルは「イスラム国全代表のオーケストラ」といわれるほど親しまれており、年間フルに活動している。彼らの士気を鼓舞し、そのスピリットを奮い立たせる中心人物こそ、メータに他ならない。手兵だったロスアンジェルス・フィルハーモニックと兼務してきたメータは、1978年秋ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督就任後も、イスラエル・フィルの兼任を解かないと公表し、イスラエルの音楽企業を感激させている。宗教の問題は避けては通れないかもしれないが、メータはウィーンでみっちりウィーン流儀を学んだ異才だから、美音のイスラエル・フィルとの相性が良いのだろうし、禁門のワーグナーは得意なのに演らなかったりで、巧みに譲歩しながらその地位を保っている感じだ。世界最高の弦と賞賛される弦楽器、そして華麗なる管打楽器を持つイスラエル・フィルの濃密で豊麗なサウンド。その多くのレコードで、イスラエル・フィルの弦のシルキーな魅力が味わえる、メータとイスラエル・フィルは、ポルタメントは控えめに、あくまで楽譜に忠実に演奏しながら、随所に明るい微笑みを感じさせる。数々の名曲の最大公約数が、イスラエル・フィルの美音とデッカの名録音で味わえる。
ステレオ録音黎明期の1958年から英国デッカレーベルは、〝Full Frequency Stereophonic Sound(FFSS)〟と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた。レコードのステレオ録音は、英国デッカが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英デッカは、1941年頃に開発した高音質録音〝ffrr〟の技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英デッカはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとして〝FFSS〟が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。クラシックの録音エンジニアの中で、ケネス・ウィルキンソンは一部のファンから神のように崇められている。サー・ゲオルグ・ショルティはデッカレーベルで、ゴードン・パリー、ケネス・ウィルキンソン、ジェームズ・ロックの3人に限って録音をしているほどだ。録音の成功はプロデューサーにかかっている。また内田光子が「真に偉大なプロデューサー」と語ったエリック・スミス(1931〜2004)は、デッカとフィリップスで35年間にわたって活躍し、数々の名盤を世に送り出しました。名指揮者ハンス・シュミット=イッセルシュテットを父に持つ彼は、その父親と組んでウィーン・フィルハーモニー管弦楽団初のステレオ録音全集を完成させる。当時ウィーン・フィルのシェフであり、録音の偉業を望んでいたヘルベルト・フォン・カラヤンではなかった理由はそこにありそうだ。指揮者よりも、エンジニアが主導権を持っているようだったとセッションの目撃証言がある。またズービン・メータのムソルグスキーの「展覧会の絵」の第1回の録音セッションに居合わせたレコード雑誌の編集長は、デッカのチームはホールの選択を誤った、と感じていた。指揮者のメータはそれまでの分を全部録り直すようだろうと予見していたが、プレイバックを聴いたら、その場で聞く音とは比較にならない〝素晴らしい〟出来に化けていたという。もちろんそれが商品として世に出ることになる。マイク・セッティングのマジック、デッカツリーの威力を示すエピソードですが、デッカでは録音セッションの段取りから、原盤のカッティングまでの一連作業を同一エンジニアに課していた。指揮者や楽団員たちは実際にその空間に響いている音を基準に音楽を作っていくのだが、最終的にレコードを買う愛好家が耳にする音に至って、プロデューサーの意図するサウンドになるというわけだ。斯くの如く、演奏家よりレコードを作る匠たちが工夫を極めていた時代だった。
  • Record Karte
  • Engineer [Uncredited] – Kenneth Wilkinson, Producer [Uncredited] – Ray Minshull, Recorded 13 - 14 June 1969 at Santa Cecilia, Rome. Photography By [Cover Photo, "Rock Abstract"] – W. F. Davidson
  • GB DEC SXL6440 シュタルケル&メータ ブロッホ・ヘブラ…
  • GB DEC SXL6440 シュタルケル&メータ ブロッホ・ヘブラ…
Bloch: Schelomo
Universal Music LLC
2013-12-13