人は成功のためではなく、自分が信じるもののために生きる。重要なのは、自分の達成と思わず自然から与えられたものだと思うこと。 ― ウラディーミル・アシュケナージの名言ですが、後進の若いピアニストに向けられた箴言ととることもできるとともに、ショパン国際ピアノコンクールで第2位に輝き、彼が世界的なピアニストとして名声を確立したころの心得ともしていたを表した言葉なのではとも思われる。この時にアシュケナージが優勝を逃したことに納得できなかったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが審査員を降板する騒動を起こしたことはよく知られているものですが、イツァーク・パールマン、アシュケナージの初共演盤となった、このレコードを聴いて想いついたのです。イヴァン・ガラミアンと、ドロシー・ディレイに徹底的に鍛えられたパールマンは、従って造形はあくまでも端正に処理され、表情がどれほど情熱的な場合も感覚的に濁りがない。パールマンはフランスのヴァイオリニストではないが、その国際性と現代性において、全くフランス的と形容して良いのである。こうした場合、ここではフランクのソナタが、その厳しさと逞しさに耐えて、いっそう底光りのする真価を発揮するが、本盤を成功に導いた、そこにはアシュケナージの伴奏にあるといえるだろう。それが異形の魅力となったショパンの「バラード」 ― 19世紀の作曲家の多くが触発されたバラードの録音でも、アシュケナージ曰く、「ピアノではオクターブ、 連打の技術が最も難しい」。ヴァイオリンには、その甘美で華麗な音色を聴いて味わうのに相応しいイメージがあるのではないでしょうか。しかし、フランス的な香りと後期ロマン派らしい重厚なロマンを併せ持ったフランクの名曲「ヴァイオリン・ソナタ」は、ヴァイオリンの代わりにチェロで演奏されることがあるのも頷ける音楽です。ベルギーの作曲家フランクの「ヴァイオリン・ソナタ」は、独得の循環形式を用いた彼の最高傑作。パールマンとアシュケナージという、録音当時若手の中では最高のデュオとされた演奏です。パールマンが23歳、アシュケナージが31歳の時の録音。フランクでの若きパールマンの颯爽としたヴァイオリンが、まことに清々しい。パールマンは、持ち前の美麗な音色を駆使して、技術的に完璧な演奏を繰り広げています。また彼は後年、自らの技術の冴えに溺れて底の浅さを感じさせるような側面を見せることがありましたが、この23歳という若い時期に曲に真摯に向き合い、誠実でデリケートな演奏をしています。アシュケナージのピアノは流麗。その持ち味である温かく輝かしい音色、繊細で細やかな歌心で、前に出ることなく、作品の隅々まで神経の行き届いた極めてバランスがよく質の高い演奏を聴かせてくれます。サポートに廻った時の、アンサンブルとしても非常に精妙です。この演奏にはフランス的な香気とか、重厚さとかは、存在しません。若い演奏家が瑞々しい感性で、技術的に非常にハイレベルな演奏をしています。そこに「バラード」のドラマ性よりも、抒情性に重きを置いた、ショパン演奏の現代のスタンダードと呼べる真摯で真面目なスタイルによる正統派の演奏だったことに通じる仕事だったと感じられるのです。この曲にフランス的な香りのようなものを求める方や情熱的な演奏、あるいは重厚感を求める方には不満の残る演奏かもしれませんが、この曲の背景を抜きにした〝純音楽〟として聴かせてくれる非常に優れた演奏です。このパールマン&アシュケナージのコンビは、以降1960年代後半から1980年代前半にかけて、ベートーヴェンやブラームスのヴァイオリン・ソナタ全曲を録音するなど、良い仕事をしています。そう発展していく、初手合わせにフランクの「ヴァイオリン・ソナタ」を選んだのは興味深い。珍しい編成のブラームスでも、ホルンの名手バリー・タックウェルのノーブルな音色が効果的。3者のアンサンブルが見事だ。この時期だからこそ表現しえた稀代の演奏と言えるだろう。
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イツァーク・パールマン(Itzhak Perlman)は1945年8月31日にイスラエル、テル・アヴィヴに生まれた。テル・アヴィヴ音楽院で学んだ後、彼が13歳のときニューヨークに渡ると、1958年「エド・サリヴァン・ショー」への出演をきっかけに演奏活動を開始。ジュリアード音楽院の教授イヴァン・ガラミアン、ドロシー・ディレイに徹底的に鍛えられた話は余りにも有名である。1964年にレーヴェントリット国際コンクールで優勝。以来、世界の主要なオーケストラとの共演やリサイタルを行っている。その圧倒的なパフォーマンスと実績は、まさにクラシック界を代表するスーパースターと呼ばれるに相応しい。しかし、それを多忙なコンサート・ツアーの間にいかにして保持してゆくかという問題について、パールマンはこんなふうに答えている。
演奏旅行中にはとても充分な練習 ― プラクティス時間なんかありません。そこで、ぼくはインスタント・プラクティスと呼んでいるものをやっています。多くの人は練習に練習を重ねて、それから得るものが余り無いことをやっているようだが、ぼくはどこに問題があるかを知っているので、そこだけをチェックする。どんなひとにも調子のいい日と悪い日があるもんですよ ―― これは人間だから避けることが出来ません。だが、ぼくがやろうと努めていることは、たとえ調子が悪くとも、ある水準以下に下げないってことですね。上手く弾けてる時はいい気分です。上手くいってない時には、なぜそうなのかということを見極めようとするのです。リサイタルの最中に厄介なパッセージに差し掛かっていることを知ると、ここは練習のとき上手くいったんだから、コンサートで上手くやれないこと無いさ、と思い返すんです。ちくしょう!大丈夫できるさ、と全力投球するんですよ。これで上手くゆくんですね。パールマンの演奏がいつどこで行われても、常に完璧そのものなのは演奏中に彼が心の中で行う〝インスタント・プラクティス〟のせいだといっているのである。まことに凄いといわざるを得ない。フランスには古いヴァイオリン音楽の伝統がある。それはベートーヴェンよりもはるか以前にまで遡ることができるが、フランスは主として19世紀から20世紀にかけて、ヴァイオリン音楽に大きな貢献をしてきた。作品でいうとフランク、フォーレ、ショーソン、あるいはサン=サーンス、ドビュッシー、ラヴェルといった作曲者名を挙げるだけで、そのことが明らかになるだろう。フランス芸術というと必ずラテン的な感覚美が問題にされる。それは決して間違ってはいないが、フランスの芸術はさらに国際的な広がりを志向してきたのである。ところがパリは最もフランス的な都会であると同時に、世界でもまれに見る国際的な都市として知られている。そこでフランスの有名な演奏家はもとより、ここでは世界中のヴァイオリニストを聴くことができる。しかも第2次大戦後30年を経た今日、各国のヴァイオリン楽派はこぞって偏狭な地域性をかなぐり捨て、より合理的で高度な演奏を目指して進んでいる。
昔ならともかく、今やフランスのヴァイオリニストだから粋な感覚を売り物にし、ロシアのヴァイオリニストが名技主義的であるといった先入観は、ものの見方を誤らせる危険性があろう。このような状況のなかでフランスは優れたヴァイオリンの音楽と演奏家を生み出してきたわけだが、そこにもっともフランス的な精神が息づいていることと同時に、最も普遍的な芸術が育てられてきたことを見落とす訳にはいかない。そこでフランスのヴァイオリン音楽にしても、その普遍的・国際的な一面が発揮されることになるのは当然である。往年のフランスのオーケストラならではの明るく美しい色彩の世界を心ゆくまで堪能させてくれた、パールマンがジャン・マルティノン指揮パリ管弦楽団と共演したフランス音楽は、その典型とも言えるが、言うまでもなくパールマンはフランスのヴァイオリニストではない。彼は第2次大戦が終結した直後にイスラエルで生まれ、ジュリアード音楽院に留学してイヴァン・ガラミアンに師事、1964年のレヴェントリット・コンクールで優勝したという経歴である。だがここでまず問題なのは彼の経歴や国籍ではなく、その音楽性である。サン=サーンスやショーソンの作品にしても、まずはフランス的であるかどうかということより、単純に音楽としての格の高さを問題にせねばなるまい。とするとパールマンと作品の触れ合いもそこから出発する。当然である。このヴァイオリニストは自らの体質をさらけ出し、ごく自然に、率直に作品に対している。かつてしばしば音楽の造形面における憑依的な崩れがフランス的な洗練という名目によって容認されてきたが、それが仮にフランスの芸術家の手で行われたとしても結果的にフランス音楽の一つの面だけを誇張したことになるのはやむを得ない。さいわいパールマンは現代の演奏家として、そうしたことを認めてはいない。彼の演奏は、譜面に対して正確である。従って造形はあくまでも端正に処理され、表情がどれほど情熱的な場合も感覚的に濁りがない。今やフランスの演奏家といえども、そうしたことを求め実行しているのであるから、結果的にパールマンのフランス音楽がフランス的であるか無いかというより、音楽的であろうとするのは当然である。あえていえば彼のフランス音楽は、その国際性と現代性において、全くフランス的と形容して良いのである。こうした場合、これらの作品もその厳しさとたくましさに耐えて、いっそう底光りのする真価を発揮するが、マルティノン指揮のパリ管弦楽団が、そうしたパールマンに対して、あらゆる意味で見事な同質性をもって融合していることは、いわばパールマンのフランス音楽における正当性の証明である。
ウラディーミル・アシュケナージは、エリザベート女王コンクールで優勝した後、1958年にアメリカへの演奏旅行を行い、西欧各国でも出演している。1965年春に初来日して演奏旅行を行なった。ステージに立った彼は、168センチ59キロという、日本人でも小柄の方で、ピアノの傍らに立っておじぎをする様子は、何か初々しく、詩人のような繊細な雰囲気が立ち込めていた。しかし、いったんピアノを弾き始めると、そのよく響くタッチと素晴らしい技巧で、小さなアシュケナージの姿が俄に大きくなってしまうような印象を与えられた。彼の演奏は、ヴィルトゥオーソ的なテクニックと、その風貌からも伺われる詩人的な感性の表出のバランスが絶妙を極めていた。音楽の心を全身に漲らせた類稀なピアニストの一人だったといえる。アシュケナージは圧倒的に広いレパートリーを持っており、そして、彼は大変な努力家で、1つ1つの作品に全精力を注いで、それらの作品からその魅力を最大限に引き出そうとする姿勢がデッカ経営陣の心を打ったと聞いています。デッカ社の財力を背景に完結させた全集企画の数では古今東西のピアニストの中では群を抜いている。バッハからロマン派、近代に及ぶこれらのレパートリーで目立つことは、アシュケナージは本当の意味での現代的なピアニズムを先天的に身に着けているということである。彼のメカニックは巧緻だが、その技巧に支えられた詩的表現は、フレージングとダイナミズムの幅広いニュアンスに独特のものを見せている。名手を数多く輩出したロシアのピアニストの伝統と西欧的なスタイルが、彼の中に見事なバランスを持って融合されているのである。彼を単に感受性に富んだピアノの詩人と見なすことは出来ない。アントン・ルービンシュタイン以来、セルゲイ・ラフマニノフ、ヨゼフ・ホフマン、ヨーゼフ・レヴィン、ウラディミール・ホロヴィッツ、スヴァトスラフ・リヒテル、エミール・ギレリスなどピアノ史上に不朽の名声を残した大演奏家を生んだロシアの伝統が、アシュケナージによって更に新しい面を見せてくれたといえよう。アメリカの評論家ハロルド・チャールズ・ショーンバーグは、ニューヨーク・タイムズで長年活躍した高名な音楽評論家。日本でも「ピアノ音楽の巨匠たち」をはじめ著書が翻訳されているが、当時次々と西欧に紹介されたソ連のピアニストの中で、アシュケナージを特に高く評価し、
彼はギレリスの確実さと、リヒテルの想像力を併せ持った詩的ピアニストだといっていたところに、アシュケナージの音楽的な本質を巧みに要約した、ニューゲイト・キャレンダーの筆名で同紙上で覆面ミステリ批評家としても活動していた彼ならではの評言だといえよう。
ショパン国際ピアノコンクールで2位となり、エリーザベト王妃国際コンクールで優勝したウラディーミル・アシュケナージ(Vladimir Davidovich Ashkenazy)は、英EMIや露メロディアからレコードも発売されるなど音楽院在学中から国際的な名声を確立します。1965年には来日も果たし、さらに英デッカと専属契約を結んで着々とレコーディングを行うなど、活躍の場の国際化とともに政府の干渉や行動制限が増えたため、1974年にはソ連国籍を離脱してアイスランド国籍を取得しています。この時期のアシュケナージの勢いにはすごいものがありました。主にデッカ・レーベルに膨大な録音をしているアシュケナージは、モーツァルトのピアノ協奏曲全集、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集、同ピアノ協奏曲全集はゲオルグ・ショルティ指揮シカゴ交響楽団と、ズービン・メータ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との2種、ショパンのピアノ曲全集、シューマンのピアノ曲全集、ラフマニノフ、スクリャービン、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチなどのほか、アンサンブル・ピアニストとしてもヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタ、ピアノ・トリオ、リートの伴奏などにも参加し、驚異的とも言える非常に膨大なレパートリーを誇っている大ピアニストである。大作曲家のレアな楽曲はもちろんのこと、マイナーな作曲家の楽曲も数多くレコーディングしており、そうした音楽的な好奇心に加え、世界中のオーケストラの指揮台に登って個々の音楽家と無理なくコラボレーションしていく姿勢には定評がある。そこにはソリストとして、様々な ― キリル・コンドラシン、ハンス・シュミット=イッセルシュテット、ユージン・オーマンディ、イシュトヴァン・ケルテス、ゲオルグ・ショルティ、ロリン・マゼール、アンドレ・プレヴィンといった名指揮者たちや有力オーケストラと共演してきたアシュケナージならではの観察眼やノウハウが活かされているに違いない。弾き振りも期待された、NHK交響楽団とは1975年に初共演。2004〜2007年には音楽監督を務め、現在では桂冠指揮者として定期的に共演を重ねている。
ウラディーミル・アシュケナージは持ち前の明るく口当たりの良いタッチで、良い意味で万人向きのピアノである。打鍵の粒が揃った演奏で、実に細部まで美しく彫琢された、現代的なすこぶる明快な演奏で、メロディラインははっきり聴こえる。磨きぬかれた輝かしい音色、ニュアンスに富んだ表現力、優れた音楽性、筋のよい安定したテクニックと、あらゆる面において現代のピアニストの水準を上を行く演奏を聴かせています。なかでも木の香り漂う温かいベーゼンドルファーの重心の低い響きと、その自然なタッチのもとに歌うシューマンの世界は格別、他のピアニストではけっして得られない独特の世界。シューマン作品のロマンティックな持ち味が、アシュケナージの抒情に富む表現によって写し出されている様な演奏です。音楽の都ウィーンの気品あるピアノ。ベーゼンドルファーのインペリアルが使用されており、重厚な音色を堪能できます。ベーゼンドルファーのピアノはフランツ・リストの激しい演奏に耐え抜いたことで多くのピアニストや作曲家の支持を得、数々の歴史あるピアノブランドが衰退していく中、その人気を長らくスタインウェイと二分してきた。かつてベーゼンドルファーのピアノは1980年までショパン国際ピアノコンクールの公式ピアノの一つであった。ベーゼンドルファーのピアノを特に愛用したピアニストとしてはヴィルヘルム・バックハウスが有名。ジャズ界においては、オスカー・ピーターソンが「ベーゼン弾き」としてよく知られている。木の香り漂う温かい響きが特色のメーカー。オーストリア・ウィーンで製造。ロンドン、デッカレーベルはベーゼンドルファーと契約しているようで、ラドゥ・ルプー、ホルヘ・ボレット、アンドラーシュ・シフ、アリシア・デ・ラローチャ、パスカル・ロジェ、ジュリアス・カッチェンなどはシューベルトの『ピアノ・ソナタ全集』やハイドンの『ピアノ・ソナタ』などウィーン古典派の作品を中心にベーゼンドルファーを弾いている。一方、ルドルフ・ブッフビンダーやシュテファン・ヴラダー、ティル・フェルナーなどの新しい若い世代のウィーンのピアニストはスタインウェイを弾いていて、あえて伝統的なベーゼンドルファーの使用を避けているようだ。音色は至福の音色と呼ばれる。ピアノ全体を木箱として鳴らす設計で、ズーンと太く伸びやかに鳴り響く低音域が魅力。スタインウェイを金管楽器に例えるなら、こちらは木管楽器といった印象でしょうか。ナチュラルホルンが倍音を響かせて鳴り響くような音の豊かさ、魅力がある。弱点は大ホールで演奏する際のパワー不足。
圧倒的に広いレパートリーを持ち、細部まで丁寧に演奏していること、そしてその結果として演奏の水準にほとんどムラがないことは特筆すべきことです。素晴らしいテクニックの持ち主だが、それをひけらかすことなく難しい作品もいとも容易く弾きこなしてしまう。それがウラディーミル・アシュケナージだ。アシュケナージは大変な努力家で、1つ1つの作品に全精力を注いで、それらの作品からその魅力を最大限に引き出そうとする姿勢がデッカ経営陣の心を打ったようだ。DECCAレーベルの入れ込みようは並々ならず。英デッカ社の財力を背景に完結させた全集企画の数では古今東西のピアニストの中では群を抜いている。1937年7月6日にソ連のゴーリキーで生まれ、幼少からピアノに才能を発揮。ショパン国際ピアノコンクール、エリザベート王妃国際コンクール、そしてチャイコフスキー国際コンクールと、ピアノコンクールの3大難関コンクールで優勝、または上位入賞を果たした。1955年にショパン国際ピアノコンクールで2位となりますが、このときアシュケナージが優勝を逃したことに納得できなかったアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリが審査員を降板する騒動を起こしたことは有名な話。ちなみに優勝したのは開催国ポーランドのアダム・ハラシェヴィチ。その後モスクワ音楽院に入学し、翌1956年、エリーザベト王妃国際コンクールで優勝、活躍の場を一気に世界に広げ、音楽院在学中から国際的な名声を確立し、英EMIや露メロディアからレコードも発売された。1960年にはモスクワ音楽院を卒業し、1962年にはチャイコフスキー国際コンクールに出場してイギリスのジョン・オグドンと優勝を分け合います。アシュケナージがデッカと専属契約を結んで初めて録音をおこなったのは、チャイコフスキー国際コンクール優勝の翌年、1963年のことでした。1963年にはソ連を出てロンドンへ移住、まず3月に録音したのは亡命作曲家ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」で、指揮はソ連からの亡命指揮者であるアナトール・フィストゥラーリが受け持ち、活動の場の国際化とともに政府の干渉や行動制限が増えたため、ほどなく亡命することとなるアシュケナージがソロを弾くという亡命尽くしの録音でした。翌月には同じくロンドン交響楽団とチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」を録音しています。ここでの指揮は当時破竹の勢いだったロシアの血をひく指揮者ロリン・マゼールが担当しています。この年の9月には、ツアーに来ていたキリル・コンドラシン指揮モスクワ・フィルという祖国のチームとの共演でラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」を録音しており、この年のうちにアシュケナージは3つのロシアの有名協奏曲をロシアつながりの指揮者との共演で録音したことになります。
翌年からはソロの録音も本格化し、以後半世紀に渡って数多くの録音を英デッカで行うこととなります。ピアノ音楽の殆んど全てに及ぶほど、彼の録音したピアノ曲のレパートリーは幅広い。着々とレコーディングを行う一方、世界各国でコンサートをおこない、1965年には初来日も果たすなど、この時期のアシュケナージの勢いには凄いものがありました。その後、1970年代に入るとピアニストとしての活動に並行して指揮活動も行うようになり、1974年にはソ連国籍を離脱してアイスランド国籍を取得してからは、オーケストラ・レコーディングにも着手するなど、その指揮活動は次第に本格的なものとなって行きます。クリーヴランド管弦楽団との鮮烈なリヒャルト・シュトラウスやプロコフィエフのバレエ音楽「シンデレラ」、コンセルトヘボウ管弦楽団との美しいラフマニノフなど、ウラディーミル・アシュケナージの指揮の腕前がピアノのときと同じく見事なものであることを示す傑作が数多くリリースされた。もちろん彼の演奏するロシア音楽の素晴らしさは特筆すべきものがある。ピアニストとして傑出したキャリアを誇るだけでなく、アーティストとして多彩な活動を積極的に展開し、現在はアイスランド交響楽団、シドニー交響楽団及びNHK交響楽団の桂冠指揮者、スイス・イタリアーナ管弦楽団の首席客演指揮者に就任。特に桂冠指揮者を務めるロンドンのフィルハーモニア管弦楽団との関係は深く、英国各地に加え世界中の無数のツアーで指揮台に立ち続けている。EUユース管弦楽団の音楽監督(2000〜2015)、シドニー交響楽団の首席指揮者兼アーティスティック・アドバイザー(2009〜2013)、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者、そしてNHK交響楽団の音楽監督としても活躍。首席客演指揮者を務めたクリーヴランド管や首席指揮者兼音楽監督を務めたベルリン・ドイツ交響楽団とも深い繋がりを保ち続け、定期的に招かれている。
Recorded in West Hampstead Studio 3, London on 4th-6th October 1968 (Franck) and 11th-13th October 1968 (Brahms). Engineer – Alec Rosner. Producer – James Mallinson.
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