34-19885
通販レコード→英ワイドバンド、ED2盤[オリジナル]

GB DECCA SXL6227 ケルテス ブルックナー・交響曲4番「ロマンティック」

商品番号 34-19885
碧い瞳の美青年。テルアビブで水死しなければ指揮者の世界はケルテスを中心に動いただろうか。 ― 不滅のロンドン ffss ステレオ名盤。若手指揮者のホープのブルックナーは、はちきれそうな生命力にあふれ、シューベルト的な〈歌〉と〈舞踏〉の精神を高らかに歌い切った青春の記念碑だ。》テルアビブの海岸で散ったケルテスがベストパートナーだったロンドン交響楽団と残してくれた逸品。ホルンの名手、バリー・タックウェルも在籍していた当時のロンドン交響楽団は、技術はもちろん、表現力にもかなり高度なものがあり、また、英 DECCA の優秀な録音技術もあって、この作品本来のロマンティックな味わいを満喫することができます。冒頭のホルンのコクのある響きと上手さ、速めのテンポによるダイナミックな進行、そしてゆるやかな部分でのしなやかな旋律の歌。35歳の若きケルテスによる清新で意欲的なブルックナー演奏です。現代のブルックナー交響曲全集が頻繁に横行していると思いもよらないだろうが、当時30歳代半ばという年齢にしては意外な、ブルックナーの「交響曲第4番」という重厚な作品をケルテスに録音させたのは英断というより、その才能を高く評価していたとはいえ、英DECCAの冒険だ。だが、ケルテスのブルックナー演奏は、この作曲家の作品の演奏で良く聴かれる響きとかなり異なり、活力のある朗々とした響きでグイグイと推進していく。最初から全力投球して走り出して開放感にあふれている。徐々に昇りつめて法悦を迎える練達ではなく全体の流れは、絶倫。はちきれそうな生命力にあふれ、リズムは活力に満ちて生き物のように蠢いて大きな揺れ動きに包まれた歌がどこまでも続く。ブラスの鳴りっぷりと歯切れの良さが生み出す迫力は素晴らしい。第2楽章はウィーン・フィルとのシューベルトの緩徐楽章に感じる弾むように軽快なリズムと、濃厚かつ美しい歌いまわしがたっぷり楽しめる素晴らしい演奏に通じるものを感じる。しかし、そこはブルックナーで、シューベルトの天使の羽毛を思わせる美しさには至っていない。然るに当時のデッカの迫力ある音調と、ケルテスの覇気に満ちた指揮ぶりがうまく結びついたみごとな仕上がりで有名。弦楽器の静かなトレモロにのってホルンが美しいソロを奏でる冒頭がとても印象的なブルックナーの第4交響曲は、『ロマンティック』というタイトルや比較的コンパクトな構成から、ブルックナー作品の中では最も人気のある曲となっています。若くして事故死してしまったケルテスが、首席指揮者を務めていたロンドン交響楽団を指揮したこの録音は彼の代表的名盤ともいえる演奏です。ケステスはブダペストに生まれ、リスト音楽院で大作曲家ゾルタン・コダーイに学んでいます。1955年からブダペスト国立歌劇場の指揮者となりましたが、1956年ハンガリー動乱で西側に亡命。1960年にアウクスブルク国立歌劇場の音楽総監督に就任し、1963年から亡くなるまでケルン国立歌劇場の音楽総監督を務めました。コンサート指揮者としては1965~68年までロンドン交響楽団の首席指揮者を務め、同時に英デッカにドヴォルザークの交響曲全集を始めとして数多くの録音を行いました。そしてウィーン・フィルへの客演や録音も軌道に乗り、いよいよ巨匠への飛躍の時期だった1973年4月、イスラエル・フィルに客演した際、テル・アビブの海岸で遊泳中に高波にさらわれ溺死しました。まだ43歳でした。ニキッシュに始まり、ライナー、フリッチャイ、オーマンディ、セル、ショルティと続くハンガリー指揮者界の栄誉を受け継ぐ期待のホープであったケルテス。もし、彼が、これからという時期に他界しなかったら、アバドや小澤世代のケルテスの存在は20世紀末の指揮者の勢力地図を大きく塗り替えていたろうと誰もが思っています。1961年録音のウィーン・フィルとの《新世界より》が大評判を呼び、その続編として第8番がロンドン交響楽団と録音されました。以降、1967年に発売された再度の《新世界より》を含め、1968年の序曲集までも録音したドヴォルザークの交響曲、管弦楽曲の全集。ストラヴィンスキーを予見させるような新鮮なモーツァルト、ウィーン・フィルとのシューベルトはとにかくも、ブラームスのセレナードまで含めた交響曲全集へと、DECCAレーベルの入れ込みようは並々ならず。ウィーン・フィルをカラヤンの指揮で録音するための契約が上手くいかなかった場合の保険にしては、カラヤンを煽っている感じ。カラヤンより21歳年下の若さは旺盛にDECCAの要望を熟していく。このブルックナーの表紙写真の美しさといったら、精悍せいかんとか威厳の美しさと違った目を引き付ける美しさだ。レコードケースに収めないで、飾って眺めていた愛好家も多かっただろう。電蓄からステレオ装置が普及し始めた時代。デラックス版と銘打った、豪華な仕様のレコードが登場してきます。そうしたレコードが店頭の棚を飾った時に、とても目を引くでしょう。レコード店員に、それを聞かせて下さいと尋ねやすいくらい。なるほど、カラヤンは録音面ではステレオ時代の到来を待ってようやく1957年に実現したベルリン・フィルとの交響曲第8番が最初でしたが、その後、ベルリン・フィルとの録音が本格化した1960年代にはなぜかブルックナーの録音は行われず、業を煮やしていた音楽ファンにようやく1971年になって届けられた4チャンネル=クワドロフォニック盤としてリリースされた《ロマンティック》の表紙は、横顔のカラヤンで。その瞑想している表情には安堵感さえ感じてしまいます。後のDGへの再録音以上に人気の高いブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」と、革ジャンを着たカラヤンの写真をジャケットに使ったことで有名なバルトークの「管弦楽のための協奏曲」、リヒャルト・シュトラウス「英雄の生涯」にカラヤンのいひゅがえしを感じてしまいます。ステレオ録音黎明期(れいめいき)1958年から、FFSS ( Full Frequency Stereo Sound )と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国 DECCA レーベル。レコードのステレオ録音は、英国 DECCA が先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマン SX-68 を導入するまで続けられた。英 DECCA は、1941年頃に開発した高音質録音 ffrr の技術を用いて、1945年には高音質 SPレコードを、1949年には高音質 LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英 DECCA は LP・EP にて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でも LP 3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとして ffss( Full Frequency Stereophonic Sound )が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。
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