34-20568

商品番号 34-20568

通販レコード→英ワイドバンドED2盤

DECCAでの短いが幸福な時期。オーケストラを信頼しきった芸術家本来の姿が感じられる。 ― 優美な歌と音色の魅惑に満ちた、ヘルベルト・フォン・カラヤンのウィーン時代の最高の成果の一つ。戦前は弦の黄金美の放射が凄まじかったウィーン・フィルハーモニー管弦楽団。この〝ウィーンの香り〟と喩えられる、絹のような弦楽器、チャルメラのようなオーボエ、まろやかなフルートの音色、柔らかでフワッとしながらも力強いウィンナ・ホルンの音が何とも優雅な、独特の音色を保っていた楽団をカラヤンの指揮で聴くことが出来たのは幸福なことだ。レコード録音に対して終生変わらない情熱を持って取り組んだカラヤンが、一時代を画した事になったのが英デッカでのウィーン・フィルとのステレオ録音プロジェクト。1959年、カラヤンはウィーン・フィルとのインド、日本、アメリカへの40日間の演奏旅行を控え、とくにアメリカでの自らのLPレコードの販路強化のために、米RCAと提携したばかりの英デッカと契約を結びます。カラヤン&ウィーン・フィルが演奏旅行の曲目としていたベートーヴェンの交響曲第7番、ブラームスの交響曲第1番などが事前にセッション録音され、日本やアメリカを訪れたタイミングでそのLPレコードが発売される、といういかにもカラヤンらしいスケジュールが組まれ、実行されました。演奏内容も50歳代前半の颯爽としたカラヤンの指揮に黄金時代のウィーン・フィルが最高のアンサンブルで応え、それを英デッカの優秀録音で存分にとらえきった名曲・名盤・名演奏揃いとなっています。当曲が録音された1961年は、5月にマリオ・デル=モナコ、レナータ・テバルディとのヴェルディの歌劇「オテロ」全曲盤、6月にレオンティン・プライスとのクリスマス・アルバムという名盤を相次いで録音し、9月にウィーン国立歌劇場のシーズンが始まると、オペラ上演と平行してウィーン・フィルとは、当アルバムのみならず、チャイコフスキー「くるみ割り人形」、グリーグ「ペール・ギュント」、アダン「ジゼル」、ホルスト「惑星」など、LPにして実に5枚分に相当する録音を集中的に行なっています。同じ時期の定期演奏会では録音曲目であるドヴォルザークの交響曲第8番《イギリス》を取り上げています。LP初発はSXL-6169 (1965年4月、日本盤初発は翌66年4月)。この1961年9月~10月のセッションのあと、米RCAのために録音されたプッチーニの歌劇「トスカ」とビゼーの歌劇「カルメン」の全曲盤を除くと、ウィーン・フィルとは1965年までにLP2枚分を録音したにすぎず、1961年暮れから始まるベートーヴェンの交響曲全集、1963年に始まるブラームスの交響曲全集など、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とのドイツ・グラモフォンへの録音により大きな比重が置かれるようになっていきました。名プロデューサー、ジョン・カルショーとのコラボレーションによってウィーン・フィルと進められた英デッカへの録音は、ちょうどステレオ録音が導入されて活気付いていたレコード市場を席巻する形になりました。その中でも特に充実した演奏と評価の高い1961年録音のドヴォルザークの交響曲第8番《イギリス》です。指揮者のニコラウス・アーノンクールがインタビューに答えて言っていたことによると、若い時のドヴォルザークは次々とメロディが湧き過ぎて困り、かえって良い曲が書けなかったのではないかと思うそうです。それを抑えて制御する術を身に付けてはじめて大作曲家になったのだと。天上からインスピレーションが降ってきても、それを見事に活かせるのは才能と技術の習熟のタイミングが大事でしょう。ブラームスが嫉妬しつつも尊敬していたというドヴォルザークのメロディを生み出す才能、それは「新世界」交響曲にも、弦楽四重奏曲「アメリカ」にも見られますが、一曲の中に次々と惜しげなく印象的なメロディーが出て来てもったいないぐらいの曲が、交響曲第8番《イギリス》です。その制御する術をドヴォルザークが身に付けるのが、交響曲第7番からだと、わたしは考える。カラヤンの天才は、機をとらえる巧さにある。英EMIのウォルター・レッグが、戦後にロンドンで新設されたフィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者の地位を提供したとき、カラヤンは一瞬もためらわずに引き受けた。彼のことをまったく知らない国に活動の場が与えられるだけではない。レッグが選りすぐった ― おそらくはロンドン史上最高のオーケストラの実権が与えられ、さらにオーケストラ曲とオペラを望むだけ録音できる、ほとんど無限の機会が与えられたのだ。ウィーン・フィルと専属関係を結んだ英デッカは、この結束を強めるためには、デッカが何か大きな仕掛けをすることが必要だった。中でもいちばん効果的なのは、ウィーン・フィルも含めた全員が不可能だと考えていたこと、すなわちカラヤンを獲得することだった。カラヤンは、アドルフ・ヒトラーの死によって生じた、指導者を渇望するドイツ人の魂の空白を、無意識のうちに埋めていた。彼のしぐさは型にはまっていた。気まぐれで無慈悲で、無遠慮だった。並はずれて聡明で、見栄えをよくすることに神経を注いでいた。言葉を変えれば、洗練された、あるいはわざとらしいオーラを放っていて、胸がむかつくほどだった。見栄えをよくすることに心血を注いだカラヤンの演奏が、「悪かろう」はずがない。その上、カルーショーの理解も手伝って、その録音群は、いかにもカラヤンらしい「完璧な」録音であると同時に、音楽を知るという意味ではもちろんのこと、音楽を堪能するという意味においても50年を経た今もまったく色褪せない。
  • Record Karte
  • 1961年9月&10月、プロデュースと録音はショルティの《ニーベルングの指環》製作者のジョン・カルーショー、ゴードン・パリー、そしてセッションは音響抜群のゾフィエンザール。
  • GB DEC SXL6169 カラヤン ドヴォルザーク・交響曲8番
  • GB DEC SXL6169 カラヤン ドヴォルザーク・交響曲8番
モーツァルト:交響曲第40番・第41番/ドヴォルザーク:交響曲第8番
ヘルベルト・フォン・カラヤン
ユニバーサル ミュージック
2019-08-21

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第1楽章「アレグロ・コン・ブリオ」から終楽章「アレグロ・マ・ノン・トロッポ」まで、どの瞬間においてもドヴォルザークの旋律は美しい。特に、チェコの民族的要素も十分に示される第8交響曲《イギリス》は、彼の最高傑作の一つだと思うが、そこにヘルベルト・フォン・カラヤンとジョン・カルーショーの魔法が掛け合わされるのだから奇蹟が起こるのも頷ける。英デッカは、このカラヤンでウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を完全掌握したと云えよう。『このウィーン・フィルとのドヴォルザークの8番は、高度なアンサンブルに加えて、優美な歌と音色の魅惑に満ちていた。カラヤンがウィーン国立歌劇場に在任して、ウィーン・フィルと緊密な仕事を続けていた時代の最高の成果の一つであると思う。その後の録音も見事だが、この演奏には華がある。ずっと後のベルリンのより数段も上等な演奏である。ベルリンでの演奏の、技に溺れた、やけに強弱の差を強調した、それでいて甘い砂糖漬けのような気持ち悪さは、このウィーンの演奏からはいっさい聴こえてこない。豊かに歌うヴァイオリンはウィーン・フィルならではの妙音で、それがあってはじめてこの交響曲の甘美さが本物になるのだ。また御近所ボヘミアのカラー表出にも土地柄が出ている。カラヤンも作品を尊重し、オーケストラを信頼しきった芸術家本来の姿が感じられる。この時期のウィーンのカラヤンは、彼としてももっとも良い演奏を残した年代にいた。優美な歌と音色の魅惑に満ちた、カラヤンのウィーン時代の最高の成果の一つ。その後の録音も見事だが、この演奏には華がある。』と評価されています。仮に、翌日ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、シュターツカペレ・ドレスデンで振ったとしても同様な演奏をしたであろうと思わせるほど自信をもって展示している。ウィーン・フィルは、特徴たる馥郁たる音質、個性を少しく捩じ伏せてでもカラヤンの斬新な解釈に全力で応えている。第二次世界大戦は日本軍の無条件降伏、ポツダム宣言で集結したが終わっていない戦いもあった。戦後、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの勢力下、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルで演奏することさえ制限されたカラヤン。そこへ救いの手を差し出したのが英EMIの名プロデューサー、ウォルター・レッグだった。カラヤンのレコーディング専用オーケストラ、フィルハーモニア管弦楽団でたくさんのレコードを発売。劇場での指揮は出来ずとも、レコードでカラヤンの名前は全世界に知られるようになる。ただカラヤンの悪い虫が騒いだというのか、オーディオへの関心を深めることになった。そして彼はステレオ録音を希望したが、折り悪く英EMIの経営陣はステレオ録音に懐疑的だった。不満を払拭できないままカラヤンはEMIとの契約更新を曖昧に引き伸ばしていた。そうこうしていると、フルトヴェングラーが急死。カラヤンはウィーン・フィルに復帰できた。これはやがて帝王と呼ばれるようになる躍進の始まりでした。1955年にベルリン・フィルの常任指揮者、翌1956年にザルツブルク音楽祭およびウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任し、文字通りヨーロッパ・クラシック音楽界の「帝王」と目されていた時期でした。以来、名門ウィーン・フィルとも生涯深い関係を築く事になった。1959年秋にはウィーン・フィルとの日本も含むアジア、アメリカ、カナダへの大規模な演奏ツアーに同行、1960年のザルツブルク音楽祭では祝祭大劇場の柿落としで共演、またリヒャルト・シュトラウスの楽劇「ばらの騎士」の映像も収録するなど、カラヤンとウィーン・フィルとの関係が急速に接近していました。録音面でも、1950年代初頭から継続しているロンドンでのフィルハーモニア管とのEMIへの録音、ベルリン・フィルとは1959年からドイツ・グラモフォンでスタートしていましたが、ウィーン国立歌劇場の芸術監督としてウィーン・フィルを指揮してお互いに良い関係が気づけているのでレコード録音して世界中のファンに聴かせたい。ところがウィーン・フィルは英デッカと専属関係にあったので、カラヤン指揮ではレコードを作れない。ちょうどステレオ録音が導入されて活気付いていたレコード市場を席巻すべく接近してきたのは英デッカ社でした。遂に、1959年にEMIと契約の切れたカラヤンと契約。そのことでカラヤンは、この愛すべきオーケストラとの録音をドイツ・グラモフォンではなく、英デッカと行いました。その録音セッショッンの合い間にカルーショーは有名管弦楽曲の録音。何れも全体に覇気が漲っていて、弦も管も美しく技巧的にも完成度は高い名盤を量産。斯くて、1965年まで英デッカ&カルーショーが後世に伝えるに相応しいカラヤン&ウィーン・フィルの名盤をこの6年間で製作することになる。
ステレオ録音黎明期1958年から、FFSS(Full Frequency Stereophonic Sound)と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国DECCAレーベル。第2次世界大戦勃発直後の1941年頃に潜水艦ソナー開発の一翼を担い、その際に、潜水艦の音を聞き分ける目的として開発された技術が、当時としては画期的な高音質録音方式として貢献して、レコード好きを増やした。繰り返し再生をしてもノイズのないレコードはステレオへ。レコードのステレオ録音は、英国DECCAが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英DECCAは、1941年頃に開発した高音質録音ffrrの技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。1945年には高域周波数特性を12KHzまで伸ばしたffrr仕様のSP盤を発売し、1950年6月には、ffrr仕様の初のLP盤を発売する。特にLP時代には、この仕様のLPレコードの音質の素晴らしさは他のLPと比べて群を抜く程素晴らしく、その高音質の素晴らしさはあっという間に、当時のハイファイ・マニアやレコード・マニアに大いに喜ばれ、「英デッカ=ロンドンのffrrレコードは音がいい」と定着させた。日本では1954年1月にキングレコードから初めて、ffrr仕様のLP盤が発売された。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英DECCAはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとしてFFSSが使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売。そのハイファイ録音にステレオ感が加わり、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。Hi-Fiレコードの名盤が多い。