34-19451
通販レコード→英ナローバンド、ED4盤

GB DECCA SXL6056 ケルテス モーツァルト・交響曲33&39番

商品番号 34-19451

ストラヴィンスキーを先取りしている響きがするモーツァルト。 ― 休暇中に行方不明になったケルテス。彼の人気は当時カラヤンを凌ぐ勢いだった。ジュピターが録音されなかったことは残念だ。》ハンガリーのブダペストに生まれリスト音楽院でゾルターン・コダーイ等に学んだイシュトヴァン・ケルテス(1929~1973年)。1955年からブダペスト国立歌劇場の指揮者となりましたが、1956年ハンガリー動乱で西側に亡命。1960年にアウクスブルク国立歌劇場の音楽総監督に就任し、1963年から亡くなるまでケルン国立歌劇場の音楽総監督を務めました。コンサート指揮者としては1965から68年までロンドン交響楽団の首席指揮者を務め、同時に英デッカにドヴォルザークの交響曲全集を始めとして数多くの録音を行いました。その時 DECCA に残した一連のドヴォルザーク作品は有名。その他ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団等とも録音を残す。そしてウィーン・フィルへの客演や録音も軌道に乗り、その将来は期待され、いよいよ巨匠への飛躍の時期だった1973年4月、イスラエル・フィルに客演した際、テル・アビブの海岸で遊泳中に高波にさらわれ溺死しました。まだ43歳でした。ウィーン・フィルのブラームス・交響曲全曲の録音の合間の休暇中の出来事だった。ケルテスの死を無駄にしないと、ウィーン・フィルは指揮者無しで録音が完了していなかった部分を演奏して追悼としたことはレコード録音史の語り草。ケステスのモーツァルト・交響曲の録音は少なく、DECCA・SXLシリーズの初期録音は当盤のみ。ほかは25番、29番、35番、36番、40番を事故死の前年に録音している。せめて、第41番「ジュピター」は聞きたかった。カルーショーの旗振りでカラヤン指揮ウィーン・フィルが実現し、モーツァルトの40,41番だけで中断した穴を埋めるようにケルテスが後期6大交響曲を録音。表紙デザインに演奏家の姿がないのは、セットにした時に違和感がないようにか。ドヴォルザーク:交響曲9番「新世界」(SXL 2289)の名演と同じウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とのモーツァルト、演奏は言うまでもなく録音・プレスと三拍子揃った名盤。かつ優秀録音、初版は ED1。数少ないモーツァルトだが、他のモーツァルトの演奏を毎日のように聴いていてもケルテスの録音を聞くとおやっと思わされる。このレコードで聞ける第39番は鳥肌モノ。変ホ長調という調性は管楽器が良く鳴る調性であるからかフルートの音色が美しい。一方、弦楽器の開放弦とは、あまり関係がないので全体として暖かくてふんわりとした響きになります。澄んだ音色、熱く弾き込んでいっても一糸乱れぬ細かい音符、ほんとうに見事です。ウィーン・フィルの弦楽器群の素晴らしさを堪能できるレコードです。ニキッシュに始まり、ライナー、フリッチャイ、オーマンディ、セル、ショルティと続くハンガリー指揮者界の栄誉を受け継ぐ期待のホープであったケルテス。ビートルズやビーチボーイズが音楽界のトップだった時代。ケルテスもまたバレンボイムや、ジャクリーヌと同じ感性の世代だったのではないだろうか。もし、彼が、これからという時期に他界しなかったら、アバドや小澤世代のケルテスの存在は20世紀末の指揮者の勢力地図を大きく塗り替えていたろうと誰もが思っています。1961年録音のウィーン・フィルとの《新世界より》が大評判を呼び、その続編として第8番がロンドン交響楽団と録音されました。以降、1967年に発売された再度の《新世界より》を含め、1968年の序曲集までも録音したドヴォルザークの交響曲、管弦楽曲の全集。ストラヴィンスキーを予見させるような新鮮なモーツァルト、ウィーン・フィルとのシューベルトはとにかくも、ブラームスのセレナードまで含めた交響曲全集へと、DECCAレーベルの入れ込みようは並々ならず。ウィーン・フィルをカラヤンの指揮で録音するための契約が上手くいかなかった場合の保険にしては、カラヤンを煽っている感じ。カラヤンより21歳年下の若さは旺盛にDECCAの要望を熟していく。ステレオ録音黎明期(れいめいき)1958年から、FFSS ( Full Frequency Stereo Sound )と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国 DECCA レーベル。レコードのステレオ録音は、英国 DECCA が先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマン SX-68 を導入するまで続けられた。英 DECCA は、1941年頃に開発した高音質録音 ffrr の技術を用いて、1945年には高音質 SPレコードを、1949年には高音質 LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英 DECCA は LP・EP にて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でも LP 3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとして ffss( Full Frequency Stereophonic Sound )が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。
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