真っ向勝負は極めてスリリング ― 鬼才指揮者ロリン・マゼール弱冠32歳の挑発的で猛烈な勢いの演奏。1962年にイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団との録音で開始されたマゼールのイギリス・デッカ録音の最初期の記録です。第2次世界大戦後に戦後世代に突き付けられていた〝ロマン派的抒情精神の再構築〟という命題に、最も先鋭にチャレンジしていたマゼールは、その役割に自ら終止符を打ち、1972年の秋のシーズンからのクリーヴランド管弦楽団の音楽監督就任以降、それまでのラディカルな演奏スタイルから、バランスのとれた響きの中での、新たな普遍性の獲得を模索する世界に身を移した。それがひとつの完成したスタイルを獲得して、室内楽的な緻密さを押し出すに至ったのは就任5年後のアメリカCBSへの「ベートーヴェン交響曲全集」となった。3度目の変貌は、新しい「シベリウス全集」をピッツバーグ交響楽団とで開始した1990年代。クリーヴランド時代の半ば頃から芽を出していたオーケストラの自発性との折り合いの付け方が、持ち上がる課題になった現在。この戦後の演奏史の変遷をひとりで先取りしてきた天才に対する評価はいろいろとありますが、1970年代の前半におけるマゼールの評価は「風雲児」「天才」「鬼才」というものだった。マゼールはどのようなオーケストラからも普段の何倍もの輝かしい音を、短時間で手際のいいリハーサルとともに引き出した。とりわけオペラの本番は様々な不確定要素が錯綜する演奏の現場となるので、ギョッとするほどの即興の面白さ、アクの強い表情の突出で、マゼールの器用さは尊ばれた。シャープな芸風だった若きマゼールは当時破竹の勢いだったヘルベルト・フォン・カラヤンの対抗勢力として大いに注目を集め、ドイツ・グラモフォン、イギリスEMIに続いてデッカやオランダ・フィリップス、スイス・コンサート・ホール・レーベルなどへも録音を開始、バロックから近代に至る幅広いレパートリーを取り上げ若手指揮者としては異例の活躍ぶりを見せていました。スピード感だけでなく鮮烈なアクセントやそれぞれのパートの浮かび上がらせ方も指示が明快に聞き取れるのも優秀録音故。
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ステレオ録音黎明期の1958年から英国デッカレーベルは、〝Full Frequency Stereophonic Sound(FFSS)〟と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた。レコードのステレオ録音は、英国デッカが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英デッカは、1941年頃に開発した高音質録音〝ffr〟の技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英デッカはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとして〝FFSS〟が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。クラシックの録音エンジニアの中で、ケネス・ウィルキンソンは一部のファンから神のように崇められている。サー・ゲオルグ・ショルティはデッカレーベルで、ゴードン・パリー、ケネス・ウィルキンソン、ジェームズ・ロックの3人に限って録音をしているほどだ。録音の成功はプロデューサーにかかっている。また内田光子が「真に偉大なプロデューサー」と語ったエリック・スミス(1931〜2004)は、デッカとフィリップスで35年間にわたって活躍し、数々の名盤を世に送り出しました。名指揮者ハンス・シュミット=イッセルシュテットを父に持つ彼は、その父親と組んでウィーン・フィルハーモニー管弦楽団初のステレオ録音全集を完成させる。当時ウィーン・フィルのシェフであり、録音の偉業を望んでいたヘルベルト・フォン・カラヤンではなかった理由はそこにありそうだ。指揮者よりも、エンジニアが主導権を持っているようだったとセッションの目撃証言がある。またズービン・メータの「展覧会の絵」の第1回の録音セッションに居合わせたレコード雑誌の編集長は、デッカのチームはホールの選択を誤った、と感じていた。指揮者のメータはそれまでの分を全部録り直すようだろうと予見していたが、プレイバックを聴いたら、その場で聞く音とは比較にならない〝素晴らしい〟出来に化けていたという。もちろんそれが商品として世に出ることになる。マイク・セッティングのマジック、デッカツリーの威力を示すエピソードですが、デッカでは録音セッションの段取りから、原盤のカッティングまでの一連作業を同一エンジニアに課していた。指揮者や楽団員たちは実際にその空間に響いている音を基準に音楽を作っていくのだが、最終的にレコードを買う愛好家が耳にする音に至って、プロデューサーの意図するサウンドになるというわけだ。斯くの如く、演奏家よりレコードを作る匠たちが工夫を極めていた時代だった。
- Record Karte
- Lenore No.1, Op.138
- Lenore No.2, Op.72A
- Lenore No.3, Op.72A
- Fidelio, Op.72B
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