34-16497
商品番号 34-16497

通販レコード→英ナローバンド ED4 盤
“キング・オブ・ハイC” ― レコード・セールス1億枚。世界で最も売れたクラシック・ヴォーカリストとして知られるルチアーノ・パヴァロッティは1935年10月12日に北イタリア、モデナに生まれ。パン焼職人でアマチュア・テノール歌手でもあった父親とともに地元のコーラスで歌い、同郷の名ソプラノ、ミレッラ・フレーニとは幼なじみで同じ乳母によって育てられた。声楽をテノール歌手アッリーゴ・ポーラに師事して本格的に学ぶのは1952年になってから。レッジョ・エミーリアでおこなわれた声楽コンクールで優勝し、1961年4月29日、市立歌劇場で《ラ・ボエーム》のロドルフォ役を歌いオペラ・デビューを飾る。ここでの成功からイタリア各地はもとより、世界各地の主要歌劇場で次々にデビューを飾る。デビュー当時のパヴァロッティは、リリコ・レジェーロのたいへん美しい声を持っていて《ファヴォリータ》や《連隊の娘》で聴かせた艶やかな高音は「これぞ、テノールの声」という見事なもので、帝王カラヤンが「パヴァロッティは100年に1人の声だ!」と絶賛したそうです。若きテノールの評判は世界中へと広まり、“キング・オブ・ハイC(2オクターブ上のハ音)”の異名をとる。パヴァロッティは“ハイC”という言葉を広めた。パヴァロッティは“ハイC”を美しく響かせることで「キング・オブ・ハイC」と呼ばれていますが、アルフレード・クラウス、ニコライ・ゲッダ、ウィリアム・マッテウッツィ、クリス・メリットなどのように“ハイE”“ハイF”の超高音は持っていません。また、マリオ・デル・モナコ、フランコ・コレルリ、ニコラ・マルティヌッチといったドラマティック・テノールの“ハイC”には、パヴァロッティのものとは違った感動があります。バリトンのように太く男性的な声をテノールの最高音まで引き上げた時の豪快さと興奮は格別なもので、高音を得意とする歌手の“ハイC”を聴く時よりもスリルがあります。つまり、ジュゼッペ・ディ・ステファノやコレルリがナポリ民謡を歌ったレコードは別格としても、パヴァロッティの高音域は誰よりも美しい。「神に祝福された声」と評されたイタリアの空を思わせる明るく豊かな美声は世界中の人々から愛された。
Side-A
  1. ドニゼッティ・歌劇「連隊の娘」~ああ、友よ! … ぼくにとっては何という幸運!(Ah Mes Amis. Quel Jour De Fête...Que Dire? Que Faire?...Pour Mon Ame) ‎– リチャード・ボニング指揮ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団と合唱団
  2. ドニゼッティ・歌劇「ファヴォリータ」~やさしい魂よ(Spirto Gentil) ‎– エドワード・ダウンズ指揮ウィーン歌劇場管弦楽団と合唱団
  3. ヴェルディ・歌劇「トロヴァトーレ」~ああ、あなたこそわが恋人 … 見よ、恐ろしい炎を(Di Qual Tetra Luce...Ah Si Ben Mio...L'Onda De' Suoni Mistici...Di Quella Pira) ‎– ニコラ・レッシーニョ指揮ウィーン歌劇場管弦楽団と合唱団
Side-B
  1. リヒャルト・シュトラウス楽劇「ばらの騎士」~固く武装せる胸もて(Di Rigori Armato) ‎– ゲオルグ・ショルティ指揮ウィーン歌劇場管弦楽団と合唱団
  2. ロッシーニ・歌劇「ウィリアム・テル」~私を見捨てないでくれ … 急いで行こう(Non Mi Lasciare...O Muto Asil...Corriam! Voliam) ‎– ニコラ・レッシーニョ指揮ウィーン歌劇場管弦楽団と合唱団
  3. ベルリーニ・歌劇「清教徒」~いとしい乙女よ、あなたに愛を(A Te O Cara)」 ‎– ニコラ・レッシーニョ指揮ウィーン歌劇場管弦楽団と合唱団
  4. プッチーニ・歌劇「ラ・ボエーム」~冷たい手を(Che Gelida Manina) ‎– ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1967年〜72年録音。
GB DEC SXL336658 ルチアーノ・パヴァロッティ 歌曲集
GB DEC SXL336658 ルチアーノ・パヴァロッティ 歌曲集
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本盤の最後を締める、このロドルフォ役はパヴァロッティの十八番となり、本格的なメジャー・オペラ・ハウス・デビューとなった1963年のウィーン国立歌劇場とロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス、1965年のミラノ・スカラ座へのデビューもこの役でした。1964年には英デッカ社にオペラ・アリア集を録音、レコード・デビューも果たしています。アメリカへは1965年に進出(マイアミ)、1968年にはニューヨークのメトロポリタン歌劇場に、やはりロドルフォ役でデビュー、世界の3大歌劇場でのデビューを33歳で達成しています。1972年2月、メトロポリタン劇場で上演されたドニゼッティの歌劇『連隊の娘』に出演、パヴァロッティはトニオ役のアリアでハイC(高いハ音)を9回、苦もなく歌って喝采を浴びて名声を決定付け、「キング・オブ・ハイC」という異名をとるに到りました。この(1967〜72年)間に大指揮者5人と共演した全曲盤のためのセッション録音から本盤の7曲のアリアは独自編集されている。
その後も《リゴレット》、《仮面舞踏会》、《愛の妙薬》、《トスカ》などに出演。NHKが招いたイタリア歌劇団の一員として1971年に初来日。《リゴレット》の公爵を歌い、聴衆の一人が感激のあまり舞台に上がり、彼に抱きつくというハプニングもあり大きな評判を呼ぶ。1975年にメトロポリタン歌劇場の一員として来日、《ラ・ボエーム》のロドルフォを披露。単身来日は1977年、リサイタルとオペラ・アリア・コンサート。1980年代からは音楽コンクールを主催し、若手声楽家の育成にも乗り出し、1981年にメトロポリタン歌劇場で初めてドラマティックな役柄の《アイーダ》のラダメスを歌う。また、オペラでの活躍の他に1990年代以降の活動はオペラの領域を越えて展開。1991年ロンドンのハイド・パーク、1993年ニューヨークのセントラル・パークでの大規模な野外コンサートは、それぞれ20万人、50万人の聴衆を集めた記録破りのコンサートとなった。さらに、ロックやポピュラー界のトップ・アーティストたちとのジャンルを超えた共演を重ね、窮状にある世界各地の子供たちへの援助を目的とした「パヴァロッティ&フレンズ」を1990年より開催。世界的人気を博していました。日本では2004年に引退コンサートを行ないましたが、70歳になる2005年10月での引退を表明、2006年2月にはトリノ冬季五輪の開会式に登場、椅子に座りながらも相変わらずの美声で十八番の『誰も寝てはならぬ』を熱唱して健在ぶりをアピール。4月からはヨーロッパでの「さよならツアー」が始まりましたが、6月に膵臓がんと診断されて中断。7月にはニューヨークの病院ですい臓の摘出手術を受けて退院するものの、発熱などの症状がみられたため、2007年8月8日に自宅のあるイタリア北部のモデナの病院に入院、経過が良好なため25日に退院し自宅療養をしていた矢先、意識不明の状態に何度か陥り、ついに2007年9月6日、モデナの自宅にて腎不全により亡くなりました。71年の輝かしい生涯でした。