34-21254

商品番号 34-21254

通販レコード→英ナローバンド ED4盤

天性の〝Showman〟 ―  公開演奏を愛するジュリアス・カッチェンは確かなメソードを身につけ、音楽性、肉体の成長を無理せず、スコアを洞察し、その自然な成長で〝聴かせる音楽〟をクリエイトしたピアニストだ。カッチェンがリラックスしていた唯一のポジションは、椅子に座ってピアノの鍵盤へ腕を伸ばしている姿勢の時であったほどピアノを演奏して、いつでも聴かせることに没頭できた。スタジオ録音もたいていは手慣れたもので、強い集中力のおかげで長時間の録音も平気だった。立て続けにベートーヴェンの代表作3曲とディアベリ変奏曲のような複雑な曲を録音するのにかかった時間は、3時間の録音セッションが2回足らずだったと録音プロデューサーのレイ・ミンシェルの回想にある。語弊がある表現かもしれないが、アット・ホームなレコーディング風景だった。カッチェンは、11歳の時にラジオ番組に出演してシューマンを弾き、その放送を聴いていたユージン・オーマンディに招かれてモーツァルトのピアノ協奏曲第20番でデビューしたという逸話でも知られています。その後、カッチェンは大学で哲学とフランス語学を学びながら、デイヴィッド・サパートンに師事して腕を磨き、やがてパリに留学して演奏会が注目を集めると、その後はパリを本拠に活躍。肺癌のため42歳で早世するまで、ソロだけでなく室内楽にも意欲的に取り組み、また、演奏活動の傍ら、日本の骨董である「根付」の蒐集にも情熱を燃やすなどユニークなパーソナリティでも注目を集めました。ネッド・ローレムは1928年生まれの米国の作曲家。管弦楽曲からピアノ・室内楽曲まで幅広く手がけているが、特に歌曲には人気がある。カッチェンとローレムは年齢が近く、2人がパリで暮らしていた時に親交が始まったようだ。1951年に作曲されたピアノ協奏曲第2番はカッチェンのために書かれたもので、1954年にカッチェンのピアノで初演されている。ローレムはピアノ・ソナタを全部で3曲作曲しているが、1952年にカッチェンがデッカに初録音を行った、ピアノ・ソナタ第2番の録音がある。ローレム作品の初録音でもある。この録音によって、ローレムの名前が幅広く知られることとなった。カッチェンが初めて弾く曲を習得するときは、最初は完全にピアノから離れて楽譜を読み込んでいくのが習慣だった。私がピアノに向かう時は、単に頭の中にある青写真(blueprint)を実現するだけなのです。カッチェンは演奏旅行には楽譜を持っていかなかった、楽譜は頭の中ではなく、写真のように在るが儘指先に写し取られているんだ。それは、知的な記憶能力によるものではなくて、いってみれば直観をもつ指とでもいうものから来ている。彼の手が全て覚えているんだ。ローレムは回想していた。しかし、アンコール集(Encores)の録音では、カッチェンが思っていたほどにスムーズには進まなかった。つまりスタジオ録音の冷静さのなかでは、大成功したコンサートの最後にアンコール曲を次から次へと弾くような雰囲気や気持ちに達することは不可能だった。とうとう諦めて、友人30人を招待して多少なりともライブのようにしてみたところ、1時間が過ぎて聴衆が盛り上がった時には、いつものようにアンコール曲を弾く用意ができていた。曲目はレパートリーの広さを示すもの。「バッハ(ヘス編):主よ、人の望みの喜びよ」、「ブラームス:ラプソディ ト短調 Op.79-2」、「ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第8番《悲愴》より第2楽章」、「リスト:ハンガリー狂詩曲第12番」、「メンデルスゾーン:歌の翼に」、「モーツァルト:ピアノ・ソナタ第16番ハ長調 K.545より第1楽章」、「メンデルスゾーン:ロンド・カプリチオーソ ホ長調 Op.14」、「ショパン:英雄ポロネーズ Op.53」、「ショパン:幻想即興曲 Op.66」、「ドビュッシー:月の光」、「ファリャ:火祭りの踊り」。本盤はそうして完成した。
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ベートーヴェンのピアノ協奏曲などの録音を担当したプロデュサーによれば、カッチェンは、スタジオ録音であっても、各楽章は1つの曲としてまとまったものであるべきだという考え方だった。そのため、スタジオ録音でもほとんど編集をしていなかった。カデンツァを聴くとカッチェンがいかに高度なテクニックを持っているかわかる。タッチの種類が豊富で素晴らしい。強靭な音から優しい音、輝かしい音から軽やかな音まで見事に描き分けている。カッチェンの演奏は高度な技巧と確かな様式感を軸とした充実したもので、録音を担当したDECCAのプロデューサーはカッチェンについて、「いつも大きな笑顔を浮かべ、エネルギッシュで社交的だった。陽気で誰からも愛される性格で、自己中心的(egocentric)なところがあるが、それがとても魅力的だった」と言っている。驚異的な技巧と深い教養に裏打ちされた音楽的な表現が印象深いカッチェンの演奏は、抒情的な感情に溺れることなく理知的で、現代人の感覚にもストレートに訴えかけてきます。レパートリーは古典から現代曲まで、またスラヴものからドイツ、フランス、アメリカものまで幅広く、ヨーロッパでは高く評価され、特にブラームスとベートーヴェンのスペシャリストとしてよく知られています。逸材との共同作業にも先進的だった、デッカには40数枚のLP録音を残しました。そうした洗練されたカッチェンの美しきピアニズムは本盤でも遺憾なく発揮され、淡々とした美しさを奥深い透明感で貫いて描ききる素晴らしい名演。数々の英デッカのオーディオファイルレコードで、カッチェンは弾力的なリズム感と固い構成感で全体を見失わせない実に上手い設計で聴かせてくれる。冒頭から終わりまで息もつけぬ緊張感を味わえます。カッチェンの演奏は理知的なアプローチだと言われたりするが、当時、カッチェンは〝あまりに急ぎすぎる〟、〝衝動的に突進する〟とずっと批判されていた。これに対して、編集者のジェレミー・ヘイズは「それほどに音楽的な衝動に突き動かされてピアニストが弾いているのを聴くことができるというのは、驚くべきことだ」と言っている。
Julius Katchen ‎– Encores
  • Side-A
    1. Jesu, Joy of Man's Desiring Arranged by – Myra Hess, Composed by – Bach
    2. Rhapsody No.2 in G Minor, Op.79 Composed by – Brahms
    3. Sonata No.8 in C Minor, Op. 13 ("Pathétique") 2nd. Movement Composed by – Beethoven
    4. Hungarian Rhapsody No. 12 Composed by – Liszt
    5. On Wings of Song Arranged by – Liszt, Composed by – Mendelssohn
  • Side-B
    1. Sonata No. 15 in C Major (K.545) 1st. Movement Composed by – Mozart
    2. Rondo Capriccioso Composed by – Mendelssohn
    3. Polonaise in A Flat Composed by – Chopin
    4. Fantaisie-Impromptu in C Sharp Minor, Op.66 Composed by – Chopin
    5. Clair De Lune Composed by – Debussy
    6. Ritual Fire Dance Composed by – De Falla
英デッカ社は、この米国の逸材から利益を計上したと関係者から聞いた事が有ります。一頃のデッカのピアノ部門はカッチェンが背負っていたと云っても過言でないことを証明する名盤。ジュリアス・カッチェン(Julius Katchen)は42歳の若さで亡くなったアメリカ人ピアニスト。ピアニストとしての活動が20年ほどと短かったけれど、レパートリーは幅広く数多くの録音を残している。再録音した曲もかなりあり ― ブラームスの「ピアノ・ソナタ第3番」「ヘンデルバリエーション」、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」など ― 録音した作品は、ベートーヴェン、ブラームス、リスト、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、グリーグ、シューマン、モーツァルト、ショパン、ラヴェル、プロコフィエフ、ラフマニノフ、ムソルグスキー、ガーシュウィン、ストラヴィンスキー、ブリテン、ローレムなど。戦後パリに住んでいたアメリカ人作曲家のネッド・ローレムとは友人で、ピアノ協奏曲第2番の初演、ピアノ・ソナタ第2番の初録音を行っている。後年になると、シューベルトの最後のソナタやベートーヴェンのディアベリ変奏曲のような偉大な作品に対して、哲学的な観点から熟考したカッチェンの解釈が注目される。もし、彼がガンで42歳の若さでこの世を去らなければ、音楽的により深い解釈者へと深化していたかもしれない。カッチェンは1926年8月15日にニュージャージー州ロングビーチで生まれました。11歳の時、オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団とモーツァルトのニ短調ピアノ協奏曲 K.466 を演奏したことで知られます。彼の両親は、彼に適切な教育を受けさせることにこだわりましたが、それは後になって大きな実を結ぶことになります。1946年フランスに移り、短い生涯を終えるまでフランスで過ごしました。その動機として、「アメリカのピアノ界は、音楽学生同士のもたれ合いや馴れ合いが根底にある。それが嫌だ」と発言している。カッチェンは肺癌に侵されていて、彼が亡くなったのは1969年4月29日、42歳の時でした。1968年12月12日にロンドン交響楽団とラヴェルの《左手のための協奏曲》を共演したのが、最後の公開演奏となった。彼の最初のDECCAへの録音は、1947年の“ヘンデルの主題による変奏曲”を含むブラームスの作品集で、最後の録音は1968年、ヨゼフ・スーク、ヤーノシュ・シュタルケルとのブラームス“3つのピアノ三重奏曲”でした。カッチェンは演奏会ピアニストとしての活動が長かったが、短い生涯の間にブラームスの重要なピアノ曲とピアノを含む室内楽を全て録音した、ただ一人の世界的なピアニストでしょう。
第2次世界大戦の潜水艦技術が録音技術に貢献して、レコード好きを増やした。ノイズのないレコードはステレオへ。ステレオ録音黎明期1958年から、FFSS(Full Frequency Stereo Sound)と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国DECCAレーベル。レコードのステレオ録音は、英国DECCAが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英DECCAは、1941年頃に開発した高音質録音ffrrの技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英DECCAはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとしてffss(Full Frequency Stereophonic Sound)が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。
1961年12月発売。Recorded 1 - 2 June 1961 at West Hampstead Studio 1, London – Engineer – Kenneth Wilkinson, Producer – Michael Bremner.
GB DEC SXL2293 ジュリアス・カッチェン ENCORES
GB DEC SXL2293 ジュリアス・カッチェン ENCORES