わきたつように華やかさ! ― 誰にでも親しまれているオペラ・バレエ音楽名曲の数々。オペラの中にバレエの場面が用いられたのは非常に古く、16世紀末のオペラの誕生と殆ど同時に行われているが、現在、通常の歌劇場のレパートリーとなっている18世紀末から20世紀前半にかけてのオペラにおいても、バレエを必要とするオペラの数は少なくない。もともとバレエはフランスではじまり、発展しただけに、オペラでもフランス・オペラでは非常に重視されていた。特に17世紀後半から約1世紀に及ぶルイ王朝の時代には、リュリに代表される独特のオペラ・バレエという形式の作品が盛んになった。このオペラ・バレエは踊り=バレエと歌の場面とが交互に登場するものであり、その後もフランスではオペラには必ずバレエの場面が含まれるのが慣習のようになっていた。いわゆるオペラの黄金時代といわれる19世紀に入っても、それは変わらず、マイアベーアに代表されるフランス・グランド・オペラでは視覚的な要素を大変重視したので、バレエもまた絶対に欠かせないものであった。そのため、イタリアの劇場のためのオペラではバレエを用いなかったロッシーニやヴェルディも、フランスの劇場のために作曲したり上演する際には、必ずバレエを加えたり、新しく作曲したし、ワーグナーも「タンホイザー」をパリで上演するために有名なバッカナール=ヴェヌスベルクの音楽を序曲の後に加えたりした。実際、19世紀のフランスでは、今日ではほとんど考えられないことだが、オペラを見に行くというより、その中のバレエが目的の観客も少なくなかったと言われる。ワーグナーが「タンホイザー」のために新しくバレエを加えながらも、それが不評だったのは、当時の慣習ではバレエは第2幕以降に置かれるのが普通だったのに、彼は序曲の直後にバレエを持ってきたのも一因だったとさえいわれている。しかし、いずれにせよ19世紀のパリではオペラにバレエが不可欠なものあったのは確かであり、多くの場合、実際のドラマとはあまり物語の進行上ではバレエは必ずしも重要ではないが、視覚的な要素としては無視できず、また音楽的にも優れたものも少なくないし、なかにはドラマの上でも必然性を持っているバレエの場面だってあ少なからずある。このレコードの4曲などは、バレエ音楽としては代表的な作品といえよう。たとえオペラの中で劇的な意味では重要ではなく、また視覚的な要素がなくとも、オペラのバレエ音楽には作曲家がその能力を十二分に注ぎ、そしてオーケストラの力を充分に発揮させようとした曲も多く、そのために独立した管弦楽曲として演奏会でしばしば演奏される作品も少なくない、これらの4曲は、そうしたオペラのバレエ音楽の最も端的な例である。
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グノー:歌劇「ファウスト」のバレエ音楽 ― シャルル・グノー(Charles François Gounod, 1818〜1893)が1859年にパリで初演した「ファウスト」は、彼の代表作であり、19世紀フランスを代表するオペラとして有名。同名のゲーテの詩劇をもとにしており、このバレエ音楽は1869年にパリ・オペラ座で上演される際に第5幕第1場に新しく追加された。悪魔メフィストフェレスがワルプルギス祭の前夜、ドイツのハルツ山中のブロッケン山に集まってくる魔女たちの狂宴にファウスト博士を連れて来て、クレオパトラ、トロイのヘレン、フリーネなどの古代の美女たちに彼を誘惑させる場面の音楽で、7曲から成り、様々な踊りが繰り広げられる。第1曲:ヌビアの娘たちの踊り(アレグレットの優美なワルツ)、第2曲:クレオパトラと金の杯(アダージョ、アンサンブルによる古風な踊り)、第3曲:ヌビアの奴隷の踊り(アレグレット、軽快で東洋的な雰囲気の踊り)、第4曲:クレオパトラの踊り(モデラート・マエストーソ、威厳のあるソロが繰り広げられる)、第5曲:トロイの娘たちの踊り(モデラート・コン・モト、ハープの分散和音が装飾する優雅なバレエ)、第6曲:ヘレンの踊り(アレグレット、『鏡の踊り』ともいわれる)、第7曲:フリーネの踊り(古代ギリシャの美女フリーネを中心に全員が参加する情熱的なバッカナーレ)。スメタナ:歌劇「売られた花嫁」からポルカとフリアント ― チェコの国民楽派を代表するベドルジハ・スメタナ(Bedřich Smetana, 1824〜1884)が祖国ボヘミアの寒村を舞台にした国民喜劇「売られた花嫁」は、1863年にプラハで初演されて以来、チェコを代表するオペラとして世界中で親しまれている。この中ではチェコの伝統音楽がふんだんに用いられ、民族色を濃くしているが、この2曲はその中で最も有名な舞曲で、《ポルカ》は第1幕のフィナーレ、《フリアント》は第2幕、ともに村の居酒屋の前で村人たちが陽気に踊る場面の音楽、のどかな2拍子のポルカ、力強く野趣を感じさせる3拍子のフリアントの2曲とも、素朴なボヘミアを代表する舞曲である。
The World Of Ballet Vol. 2: Ballet Music From The Opera オペラ・バレエ音楽集
- Side-A
- Faust Ballet Music Act V グノー:「ファウスト」(第5幕) Composed By – Charles Gounod, Conductor – Alexander Gibson, Orchestra – Royal Opera House Orchestra, Covent Garden アレクサンダー・ギブソン指揮コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団
- Waltz ワルツ
- Ensemble アンサンブル
- Dance Of The Nubians ヌビアのどれいの踊り
- Cleopatra's Dance クレオパトラの踊り
- Dance Of The Trojan Maidens トロイの娘たちの踊り
- Helen's Dance ヘレンの踊り(鏡の踊り)
- Bacchanalia バッカナーレ(フリーネの踊り)
- The Bartered Bride スメタナ:「売られた花嫁」 Composed By – Bedřich Smetana, Conductor – István Kertész, Orchestra – Israel Philharmonic Orchestra イシュトヴァン・ケルテス指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
- Polka, Act I ポルカ(第1幕)
- Furiant, Act II フリアント(第2幕)
- Side-B
- La Gioconda – The Dance Of The Hours, Act III ポンキエルリ:「ラ・ジョコンダ」時の踊り(第3幕) Composed By – Amilcare Ponchielli, Conductor – Lamberto Gardelli, Orchestra – Orchestra dell'Accademia Nazionale di Santa Cecilia ランベルト・ガルデルリ指揮ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団
- Prince Igor – Polovtsian Dances, Act II ボロディン:「イーゴリ公」ダッタン人の踊り(第2幕) Composed By – Alexander Borodin, Conductor – Ernest Ansermet, Orchestra – L'Orchestre De La Suisse Romande, Chorus – Choeur De Radio Lausanne, Choeur Des Jeunes エルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団、青年合唱団、ローザンヌ放送合唱団
第2次世界大戦の潜水艦技術が録音技術に貢献して、レコード好きを増やした。繰り返し再生をしてもノイズのないレコードはステレオへ。ステレオ録音黎明期1958年から、FFSS(Full Frequency Stereo Sound)と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国デッカ=DECCAレーベル。レコードのステレオ録音は、デッカが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。デッカは、1941年頃に開発した高音質録音ffrrの技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。その高音質の素晴らしさはあっという間に、オーディオ・マニアや音楽愛好家を虜にしてしまった。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、デッカはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとしてffss(Full Frequency Stereophonic Sound)が使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売し、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。デッカ社の廉価版シリーズは、1960年前後に第1の廉価盤シリーズ「Ace of Clubs/Ace of Diamond」を発売します。その後、1970年代に入ると第2の廉価盤シリーズ「Eclipse」を発売します。そして、第3の廉価盤シリーズとして「The World of Great Classics」として「SPAシリーズ」を発売します。本盤は、その第3の「SPAシリーズ」なのですが、クラシック入門編といった趣で演奏者の全然違う録音を組み合わせた編集も多く、コレクション的には無価値ですが、例えばアンセルメの「悲愴」のリアルステレオは英国盤ではこのレーベルだけですし、同じくアンセルメのブラームスやシベリウスなどの珍しい録音もオリジナルに近い金属原盤を用いており、音質的にもSXLシリーズより僅かスッキリした感はありますが、デッカ社らしい高音質(Hi-Fi)となっています。同じソースでも、SXLオリジナルの⅕~⅒程度の費用で入手できるので、コストパフォーマンスの高い盤としてオススメできます。
エルネスト・アンセルメ( Ernest Ansermet, 1883年11月11日〜1969年2月20日)のレコード歴は長い。英デッカがマイクを使った電気録音を商業化した時分からと古く、SPレコードも多い。1929年9月、デッカ・ストリング管弦楽団 ― 実態は1918年にアンセルメによって創設されたスイス・ロマンド管弦楽団だろう。 ― と録音したヘンデルの「合奏協奏曲」がアンセルメの初録音。1938年にローザンヌのスイス・ロマンド放送のオーケストラを吸収合併し、スイス・ロマンド管弦楽団はブルーノ・ワルターやヴィルヘルム・フルトヴェングラー、カール・シューリヒトなど多くの名指揮者を客演として招聘するようになる。骨格的にはやや弱いが極彩色の豊麗なオーケストラの響きに魅せられる、彫琢された美しさをもった演奏が聴きどころである。先般、近衛音楽研究所がパート譜から起こした戦時下での「近衛版・未完成交響曲」を再現演奏できるようにした。NHKが音楽ドキュメンタリーにした「玉木宏 音楽サスペンス紀行~マエストロ・ヒデマロ 亡命オーケストラの謎」(2017年7月29日放送)は、その編曲が機会あるごとに書き足されたり、楽器の指定を変更していることが解ったことに端を発する。シューベルトはドイツの作曲家だが、その歌謡性がナチスに好まれていなかった。雄渾な編曲を加える事でナチスから演奏許可されたのだろうか。近衛秀麿はドイツ将校が多く住んでいた、フランスとスイスの国境で度々演奏会を開いている。両者が直接知り合ったかは明らかにならないが同時期スイス側では、ドイツからスイスに拠点を移動したアンセルメも多くの演奏家の亡命を助けていた。ユダヤ人を擁護したことで裁判で有罪になりドイツで仕事が激減したカール・シューリヒトとは第2次世界大戦前から親交があったが、アンセルメが終戦の前(1944)年に彼をスイス・ロマンド管弦楽団に客演を依頼してドイツから亡命する手助けをした。ナチ政権末期、大指揮者ではあってもナチに対して反抗的な態度があったり、それに類する事件が以前にあると、ゲシュタポはさまざまな口実を求めて容赦なく逮捕しようとした。ユダヤ人音楽家たちを助けようと獅子奮迅の活躍をし、有名なヒンデミット事件の時、公然とナチスを新聞紙上で非難し、全ての公職を辞任するということまでしているフルトヴェングラーは逮捕されそうになり1945年1月30日の夜スイスに逃げる。
「ゲシュタポのブラック・リストに載っていること」や「逮捕間近」という噂などを聞いていたが、前日のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会でフランクの《交響曲ニ短調》とブラームスの《交響曲第2番ニ長調》を演奏、当日、ベルリンに戻り、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団でコンサートを指揮する予定だった。しかし、早朝5時の列車でウィーンを離れた。これは当に間一髪、10時にヴィルヘルム・フルトヴェングラーが泊まったホテルに踏み込んだゲシュタポは見事空振りに終わる。フルトヴェングラーは1944年1月17日ローザンヌ、1月19日ジュネーヴで客演していた。そのことから以前からの契約で行われたことは間違いないが、1945年2月12日には亡命した体裁で、スイス・ロマンド管弦楽団の指揮台に立っていた。ローザンヌで行なったこの演奏会のプログラムは、ベートーヴェンの《交響曲第1番》と《レオノーレ序曲第2番》、ブラームスの《交響曲第2番》。2月14日にはジュネーヴで同じプログラムによるコンサートが行われ、2月23日にはヴィンタートゥーアに客演しブルックナーの《交響曲第8番》を演奏している。その前のチューリッヒのトーンハレ管弦楽団との2月20日と25日のコンサートは、「ナチスの手先であった」フルトヴェングラーに対するデモが起こって、中止に追い込まれていた。このコンサートも、警察によるデモの鎮圧を受けて、やっとのことで行われたのだった。結局、このヴィンタートゥーア管弦楽団を振ったコンサートが戦前の最後の演奏となったのです。この後、フルトヴェングラーはスイス国内で、一切、公式、非公式に関わらず自分についての発言を行わないという約束をもって、ようやくスイスに留まることができたのであった。そして、フランス・アルプスから名山ダン・デュ・ミディに至るアルプスの雄大な風景がレマン湖に映えて美しいこの地で彼は2年間、ナチの戦犯容疑で演奏活動を禁止され、半引退の日々を送ることになったのです。スイスに来る時、彼は殆ど何も持っていなかった。旅券さえもいい加減なもので、彼はそれを見逃してくれた国境警備隊員が「音楽ファンで私のことをきっと知ってくれていたからだろう」と語っているが、その程度であったためフルトヴェングラーはスイスで行ったたった3回のギャラを使い果たすと無一文になるという困窮を体験することとなる。フォルクマール・アンドレーエやヴィンタートゥーアの富豪、オスカー・ラインハルト卿をはじめパウル・ザッヒャーやヘルマン・シェルヘン、エルネスト・アンセルメなどがこうした事態に手を差し伸べた。
人間が集中を持続できるのは最大3秒と科学者が説明するのを、興味深くヘルベルト・フォン・カラヤンは聞いていたという。音楽家が熱心だったのが珍しかったと解説しているが、カラヤンはウィーン工科大学にも通っていた。古今の詩歌は、どんな言葉も3秒で読み取れるという。それをカラヤンは自分の音楽に反映させていった。テクノロジーへのカラヤンの関心は、ルドルフ・バウムガルトナーの影響もあるだろうが、レコードで残せば未来永劫カラヤンの演奏で古今の名曲が世界中で聞かれる、と強く思っていたからだ。自宅に編集室まで持ち、レコード会社の編集室でミキシングを弄ってみせたのはエンジニアたちには苦笑させたが、CDの素晴らしさを説明しているムービーはデジタル時代を先へ進める貢献となった。また、ダーレンのイエス・キリスト教会を録音の常場に出来たことはカラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団には幸いだった。そして、エルネスト・アンセルメ。アンセルメもまた幾何学者の父と小学校の教師を母に持ち、〝数学の神童〟として才能を発揮した。ローザンヌの工業学校と大学で数学と物理を、ソルボンヌ大学で数学と哲学を学んで数学の教師をやっていた。アンセルメは理知的な演奏を心掛ける指揮者であり、縦の線をあわせるドイツ流の拍節感から生ずるズレの感覚を逆手に取り、これを明瞭に示して聴き手に快感をあたえている。しかも「サラサラ」とやって小粋に聴かせているのが〝音の魔術師〟アンセルメの上手いところだ。鼻に掛かったフランス語のようなオーボエや、お洒落で軽みのある弦の歌が魅力的であるスイス・ロマンド管弦楽団の音がいい。アンセルメはサウンドが全体にしっとりしていて、ヘンデルの古典的なバロックスタイルを明らかにするよりは、きわめて自然体のものとして聴かせる。ジュネーヴのヴィクトリア・ホールの響きの良さは、名ピアニストのウィルヘルム・バックハウスがわざわざベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全集をヴィクトリア・ホールで録音したことでもわかります。録音の調整室が無く、調理室を録音用に使うという、大変使いにくいホールにも関わらず、バックハウスがぜひにと使ったこのホールは、スイス・ロマンド管弦楽団を育てました。1918年にエルネスト・アンセルメによって創設されたスイス・ロマンド管弦楽団は、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団とともにフル編成のオーケストラとしてはスイスを代表する歴史と評価を得ています。アンセルメはこのオーケストラを50年に亘って率い、彼自身の理想とするオーケストラを目指した。木管楽器と弦楽器の絶妙なバランスとそこから浮かび上がってくる目眩く音色感を、実に繊細に扱っていたことに気づき、その芸術的成果の高さに改めて思いを巡らせているドビュッシーやラヴェルの管弦楽曲全集といったフランス近代の音楽に対するセンスの良さは、素晴らしいもので、響き、バランスに対するアンセルメの実に鋭い耳が、こういった複雑なオーケストレーションから鮮やかなサウンドを引き出しています。ストラヴィンスキーの「春の祭典」などは、木管の扱いの巧妙さでは、音楽史の中で最も素晴らしい作品の一つです。ラヴェルのオーケストレーションの秘密もそこにありますし、アンセルメが得意にした、リムスキー=コルサコフの「シェヘラザード」などのオーケストレーションの特色の多くの部分は木管にありと言っても過言ではないベートーヴェンやブラームスといった作品は、レコード会社の意向もあって、なかなか録音させてもらえなかったアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団で楷書でやられた演奏は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー等の演奏とは対極に位置するもので、アンセルメにとった解釈が時代を先取りしすぎていたとも言える古典の録音としては、LP初期にモーツァルトの録音があったりして、決してスイス・ロマンド管にとって不慣れなレパートリーとは言えなかったアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団の響きの基本は木管楽器だったんだと、理解できます。
なんといってもバレエ音楽が卓出している。いちおうベートーヴェンの交響曲も得意のレパートリーにははいっており、すでに交響曲全集を完結してはいるが、異質である。その面白さはバレエ音楽の比ではない。
精緻で色彩的な演奏で一時代を築いた名指揮者エルネスト・アンセルメは音楽の流れを誇張せずに、むしろなめらかに展開する指揮者で、リズム感はあくまでも鋭いが、音楽の変化の運営の実にうまい人である。アンセルメは、ディアギレフ率いるロシア・バレエ団の指揮者として、ストラヴィンスキー「兵士の物語」「うぐいす」「プルチネルラ」、デ・ファリャ「三角帽子」、プロコフィエフ「道化師」、サティ「パラード」などの20世紀前半の重要作を次々初演し、また何よりもスイス・ロマンド管弦楽団の創設者(1919年)にして音楽監督としてこのオーケストラを世界的な存在に育て上げたことで知られています。スイス人アンセルメは、ベートーヴェンよりも、エスプリのフランス音楽や、複雑な拍動をさらりと聴かせたロシア急進派の音楽で名を博した。故にかロシアの作曲家、ムソルグスキーの音楽をバスク人の血を引くラヴェルがオーケストレーションした「展覧会の絵」は、数多いアンセルメの録音の中でも殊更評価が高く、ステレオLP時代を通じて「展覧会の絵」の代表盤とされていた歴史的名盤です。この曲の足取りにアンセルメが選んだテンポは遅めだが、それが絵画のシチュエーションを浮かび上がらせ、ラヴェルの精緻なオーケストレーションを再現するのに効果的に働いている。アンセルメは作品を劇的に解釈せず、むしろクールな眼で見つめる。モノラル時代に一世を風靡したアルトゥーロ・トスカニーニ盤などの熱血アプローチとは異なり、むしろ客観的な視点でラヴェルの精緻なオーケストレーションの妙を克明に描き出す冷静さに耳がひきつけられます。 彼の知的な解釈と豊かな人間性が結びついたところに独特の雰囲気を持った演奏が生まれた。イマジネーティヴな演奏ではないが、この曲の代表的な演奏にあげられる理由もそこにある。指揮者のニコラウス・アルノンクールが、かつて『音楽はその土地の言葉で、何かを語っています。』とレクチャーしていますが、この録音には他の誰の指揮したものよりもロシアが気分としても色としても生かされているのに驚く。スラヴ人の血をアンセルメは音楽を通じて、肌にじかに感じていたのだろう。1946年から専属契約を結んだデッカ・レーベルへの膨大な録音を行ない、フランス音楽、ロシア音楽、20世紀音楽、そしてドイツ・オーストリア音楽までを網羅。録音魔だったアンセルメは、ヘルベルト・フォン・カラヤンと同様、録音技術の進歩に合わせて得意曲の再録音を積極的に行ないましたが、この「展覧会の絵」はその中でも極端な例で、1947年のロンドン交響楽団とのSP録音に始まり、スイス・ロマンド管とは1953年(モノラル)、1958年(ステレオ)、そしてこの1959年録音と12年間の間に4回も録音を重ねています。
「ロマンド管の音を味わっていただくのには、ジュネーヴのヴィクトリア・ホールで聴いてもらわなくてはなりません。」エルネスト・アンセルメが来日時のインタビューで語った、ダニエル・バートン設計の同ホールは低音が極端に抑えられ、高音は艶やかさと華やかさに溢れた独特の響きをもつために、ドイツ音楽には不向きだがフランス音楽には最適とされる。ここでは管楽器の独特の音色やニュアンス、とくに鼻にかかったような木管のイントネーションとラテン的で華麗なブラスの響きに特徴があり、今では失われてしまったフランスの古き良き香りが引き立つ。ヴィクトリア・ホールは優れた音響を誇るうえに、レコーディング・スタジオとしても最適でした。オーケストラ全体を包みこむように録る〝デッカ・ツリー〟と称される、指揮台の頭上に吊るした3本のマイクロフォンのみで収録されたにもかかわらず、圧倒的な色彩感と空間性が再現されています。個別にマイクを向けたオーケストラとオルガンの演奏を合成して仕上げた不自然な響きとは次元の異なる質の高いサウンドを堪能させてくれる。表面はサラッと流しているようだが、その実、細部まで神経のよく行き届いた表現で、ことに管楽器のバランスと、リズムの扱いの巧妙さという点では抜群だ。残念なことに同ホールは1980年代に火災に遭い、美しい内装とオルガンを消失してしまった。アンセルメの響きは英デッカの技術の恩恵で出来上がった。ストラヴィンスキーの3大バレエをはじめ、デ・ファリャの「三角帽子」など彼らが世に紹介し広めてきた音楽の、その演奏が多くの人々に支持されたことによってアンセルメとスイス・ロマンド管弦楽団は第一級の「売れる」オーケストラとなっていった。1968年の日本公演で「オーケストラが二流」、「名演奏はレコード録音のマジック」という風評が巻き起こり、このコンビの評価と人気は急落する事態を招くが、決して一流ではなかったスイス・ロマンド管をヴィルトゥオーゾ・オーケストラ様に聴かせたデッカ・サウンド最大の〝マジック〟を、オーディオファイルは身を持って体感したという。英DECCAが潜水艦認識技術を応用して開発した高音質録音ffrr録音により瞬く間に世界を席巻。全然土臭くない都会的な表現。しかし、アンセルメのニュアンスに富んだ表現はまさに絶妙である。スコアを十全に見据えた解析力を感じます。最もアンセルメは指揮者になる前は数学者だったと言うから当たり前かも。キビキビとしたテンポで、聴き慣れたムソルグスキーの「展覧会の絵」も、アンセルメ・マジックにかかると新鮮に感じます。勿論、DECCAの優秀な録音技術やヴィクトリア・ホールの響きの素晴らしさも手伝って、フレージングと楽器の音色がクッキリと浮かび上がってくる。DECCAの申し子 ― 子と云うより御爺さん ― FFSS STEREOの頂点がここにあるとでも言いたくなる。
- Record Karte
- SPAシリーズはいわゆる再販の廉価版シリーズですが、デッカらしい高音質は保たれており、盤質良好なものでも価格が手ごろなのがうれしいところです。1960年(ファウスト)、1962年(売られた花嫁)、1967年録音、1971年初発。
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