パイプで煙草を燻らせて、アルコール臭も漂わせながら男らしく仕事を仕上げていく。 ― この〝大家のゆとり〟に敏感に感応している名門オーケストラの献身。フリッツ・ライナー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の組合せは珍しく、本盤ブラームス、ドヴォルザーク各舞曲集も有名なレコードだ。ブラームスが大衆的な人気を得た作品である《ハンガリー舞曲集》と、ブラームスがその才能を高く評価し、何かと支援を続けたドヴォルザークの《スラヴ舞曲集》。両曲と縁のある、名門ウィーン・フィルを、一世を風靡した名指揮者ライナーが指揮した。だけでなく、そのメリハリのある指揮ぶりに、自発性に溢れた音楽性をもつオーケストラが、敏感に感じ取っているのが伝わってくる贅沢極まりない録音です。ロベルト・シューマンの妻であり、ピアニストであったクララ・シューマンのサロンではブラームスもつとめてピアノを弾いた。この《ハンガリー舞曲集》は最初は4手のためのピアノ曲として発表し、後にドヴォルザークも加わり管弦楽用に編曲され、今日我々が聴く《ハンガリー舞曲集》が完成した。一方、ドヴォルザークの《スラヴ舞曲集》は、ブラームスの強い勧めで作曲されたもので、最初は4手のためのピアノ曲として作曲が進み、途中からは管弦楽曲として作曲された。ブラームスの《ハンガリー舞曲集》に似て軽快で親しみやすい作品に仕上がっており、現在でもしばしば演奏される。ただし、ハンガリー出身で、シカゴ交響楽団に黄金時代をもたらしたライナーの厳格な造型性は、恣意的な崩れを許さない。ライナーは、米RCAにシカゴ交響楽団との多くの名録音を残しましたが、それ以外のオーケストラとの録音をデッカにも残しました。ライナーは、オーケストラを思うがままに引っ張ってゆく豪腕で知られた指揮者であったが、ウィーン・フィルでも情感と引き締まった指揮ぶりを見せた演奏。リズム感溢れた颯爽とした指揮なのだが、同時に全体がゆったりとした豊かな情感に包まれた演奏であることに気付かされる。手兵シカゴ響同様ライナーの厳格な統制の下、隅々にまで行き届いた緊張感があり、指揮者特有の美学に貫かれた名演が展開されています。全曲が順に演奏されているわけでもなく。一曲、一曲に有無も云わせぬ説得感がありことも相まって、トラック間次の曲に移る時間が、ゾクリと期待感をもたせます。そこがたまらなく魅力的でもあって、数ある舞曲集でこの盤は指揮者の個性が一際反映されているのではあるまいか。録音場所はウィーンのゾフィエンザール。ウィーン・フィルとの集中度の高いこの名演奏は、ジョン・カルショウのプロデュースにより見事な音響で収録されていることも特筆に値します。1950、60年代はオーケストラ・歌手とレコード会社の専属関係は厳しかった。録音時、ライナーは米RCAの専属であり、ウィーン・フィルは英デッカと専属契約を結んでいた。ウィーン・フィルとはこの時に、4週間をかけたヴェルディの「レクイエム」も録音したが、帰国後。心臓病の発作をおこして入院、すべてのコンサートをキャンセルして療養を余儀なくされた。病状に自覚があったのかは知らないが、予感のようなものはあったのではないだろうか。
関連記事とスポンサーリンク
ブラームスは質素な生活を好み、3部屋のアパートに家政婦と住んでいた。朝はプラーター公園を散歩し、昼には「赤いはりねずみ」(Zum roten Igel)というレストランに出かけるのが彼の習慣だった。ベートーヴェンと同様に自然を愛好し、よくウィーン周辺の森を散策した。その際にキャンディを持参して子供たちに与えたりもした。大人に対しては無愛想で皮肉屋だったが、気持ちを率直に伝えることが苦手で、自分の作品についても語ることを嫌がったという性格からくる裏返しの表れでしょう。ブラームスは親戚たちへ金品を惜しみなく渡し、そのうえ匿名で多くの若い音楽家を支援した。大部分のロマン派の作曲家と同様、ブラームスは自身の『交響曲第1番』に見られるようにベートーヴェンを崇拝していた。彼の手によるソナタ、交響曲と協奏曲では古典的な形式を採用し、ソナタ形式の楽章を作曲した。ワーグナーはブラームス自身が演奏した『ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ』を聴いて、「古い様式でも、本当に出来る人にかかると、いろいろなことが出来るものだ」と評価している。また、ブラームスのほうもワーグナーの作品をドイツが誇るべき偉大なものと捉えていて、自らを「最高のワーグナー・ファン」と称したこともある。何より、両者はベートーヴェンを尊敬していたという点で共通していた。また古典派の作曲家モーツァルトとハイドンも敬愛していた。彼らの作品の ― 特に有名なのがハイドンの『太陽四重奏曲』、モーツァルトの『交響曲第40番』の第一版と自筆稿を集め、そのうえ演奏用の版を編集した。古典派への愛着はジャンルの選択においても現れている。さらにはそれ以前のバロック音楽にも多大な関心を払っていた。とりわけヨハン・ゼバスティアン・バッハに心酔しており、当時刊行中だったバッハ作品の全集を購読して熱心に研究した。その成果として最も有名なものが『交響曲第4番』の終楽章に置かれた「パッサカリア」で、そのテーマはバッハのカンタータ第150番の主題を応用したものである。全く異なる影響は民族音楽だった。後のバルトーク、コダーイが目的としたこだわりとは違おうが、ピアノと声楽のためにドイツ民謡による144曲の歌曲を書いており、また彼のオリジナルの歌曲も多くは民族的な主題を反映するか、地方の生活場面を表現したものである。わらべうたで日本でも親しまれている、「野いばら」「ナイチンゲール」「雌鶏」「眠りの精」「男」「野ばら」「怠け者の極楽」「膝の上に馬乗り」「森の狩人」「おとめとはしばみの木」「子守歌」「クリスマス」「てんとう虫」「守護天使に」はブラームスの作曲。また、ドヴォルザークの才能を見出し、支援したのもブラームスである。また、『ハンガリー舞曲集』で分かるように、エドゥアルト・レメーニから教わったジプシー音楽の影響も受け、『ピアノ四重奏曲第1番』などにその語法を取り込んでいる。レメーニはハンガリー出身のユダヤ系ヴァイオリニストで、ブラームスの青春時代に演奏旅行をともに行なった仲だった。それで、当時はハンガリーの民俗音楽だと思われていた。一般にブラームスはロマン派の作曲家の中で最も古典派に近いと考えられており、「新古典派」と呼ばれることもある。ブラームスは、フォルテピアノから現代ピアノへの急激な変化の中に生きた当時の音楽家のひとりであるといえる。彼の時代に、ピアノの構造の変遷はほぼ現在の形態に近い交差弦・総鉄骨構造のものに到達した。ピアニストとしても優れていたため、友人のサロンなどでしばしば演奏を求められたが、求めに応じることは少なく、応じたときでも弾き飛ばして早く終わらせようとすることが多かった。1889年12月2日、トーマス・エジソンの代理人の依頼で『ハンガリー舞曲第1番』とヨーゼフ・シュトラウスのポルカ・マズルカ『とんぼ』を蓄音機に録音した。これは現在聴くことができる史上初の録音とされている。2分ほどの録音が限界だったので、曲は抜粋した演奏ということもあってか、テンポが走ったかと思うと次の瞬間にはビックリするほどの大見得を切って見せたり、といった伸縮・変幻自在な表現は、わずか1分足らずの録音ながら非常に印象に残ります。
ステレオ録音黎明期1958年から、FFSS(Full Frequency Stereophonic Sound)と呼ばれる先進技術を武器にアナログ盤時代の高音質録音の代名詞的存在として君臨しつづけた英国DECCAレーベル。第2次世界大戦勃発直後の1941年頃に潜水艦ソナー開発の一翼を担い、その際に、潜水艦の音を聞き分ける目的として開発された技術が、当時としては画期的な高音質録音方式として貢献して、レコード好きを増やした。繰り返し再生をしてもノイズのないレコードはステレオへ。レコードのステレオ録音は、英国DECCAが先頭を走っていた。1958年より始まったステレオ・レコードのカッティングは、世界初のハーフ・スピードカッティング。 この技術は1968年ノイマンSX-68を導入するまで続けられた。英DECCAは、1941年頃に開発した高音質録音ffrrの技術を用いて、1945年には高音質SPレコードを、1949年には高音質LPレコードを発表した。1945年には高域周波数特性を12KHzまで伸ばしたffrr仕様のSP盤を発売し、1950年6月には、ffrr仕様の初のLP盤を発売する。特にLP時代には、この仕様のLPレコードの音質の素晴らしさは他のLPと比べて群を抜く程素晴らしく、その高音質の素晴らしさはあっという間に、当時のハイファイ・マニアやレコード・マニアに大いに喜ばれ、「英デッカ=ロンドンのffrrレコードは音がいい」と定着させた。日本では1954年1月にキングレコードから初めて、ffrr仕様のLP盤が発売された。その後、1950年頃から、欧米ではテープによるステレオ録音熱が高まり、英DECCAはLP・EPにて一本溝のステレオレコードを制作、発売するプロジェクトをエンジニア、アーサー・ハディーが1952年頃から立ち上げ、1953年にはロイ・ウォーレスがディスク・カッターを使った同社初のステレオ実験録音をマントヴァーニ楽団のレコーディングで試み、1954年にはテープによるステレオの実用化試験録音を開始。この時にスタジオにセッティングされたのが、エルネスト・アンセルメ指揮、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏によるリムスキー=コルサコフの交響曲第2番「アンタール」。その第1楽章のリハーサルにてステレオの試験録音を行う。アンセルメがそのプレイバックを聞き、「文句なし。まるで自分が指揮台に立っているようだ。」の一声で、5月13日の実用化試験録音の開始が決定する。この日から行われた同ホールでの録音セッションは、最低でもLP3枚分の録音が同月28日まで続いた。そしてついに1958年7月に、同社初のステレオレコードを発売。その際に、高音質ステレオ録音レコードのネーミングとしてFFSSが使われた。以来、数多くの優秀なステレオ録音のレコードを発売。そのハイファイ録音にステレオ感が加わり、「ステレオはロンドン」というイメージを決定づけた。Hi-Fiレコードの名盤が多い。
英国DECCA社の廉価版シリーズは、1960年前後に第1の廉価盤シリーズ「Ace of Clubs/Ace of Diamond」を発売します。その後、1970年代に入ると第2の廉価盤シリーズ「Eclipse」を発売します。そして、第3の廉価盤シリーズとして「The World of Great Classics」として「SPAシリーズ」を発売します。本盤は、その第3の「SPAシリーズ」なのですが、クラシック入門編といった趣で演奏者の全然違う録音を組み合わせた編集も多く、コレクション的には無価値ですが、例えばエルネスト・アンセルメのチャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」のリアルステレオは英国盤ではこのレーベルだけですし、同じくアンセルメのブラームスやシベリウスなどの珍しい録音もオリジナルに近い金属原盤を用いており、音質的にはSXLシリーズより僅かスッキリした感はありますが、デッカ社らしい高音質(Hi-Fi)となっています。同じソースでも、SXLオリジナルの⅕~⅒程度の費用で入手できるので、コストパフォーマンスの高い盤としてオススメできます。また、今回のコレクションは、盤質が良好な盤が多いことも付け加えておきます。
20世紀オーケストラ演奏芸術の一つの極点を築き上げた巨匠フリッツ・ライナー(1888〜1963)は、エルネスト・アンセルメ(1883〜1969)、オットー・クレンペラー(1885〜1973)、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886〜1954)、エーリヒ・クライバー(1890〜1956)、シャルル・ミュンシュ(1891〜1968)らと同世代にあたる名指揮者のなかで、19世紀の名残りであるロマンティックな陶酔よりも、20世紀の主潮である音楽の客観的再現に奉仕した音楽家です。ブダペスト音楽院でバルトークらに作曲、ピアノ、打楽器を学び、1909年にブダペストで指揮デビュー。第一次世界大戦以前から、ブダペスト歌劇場(1911〜1914)、ザクセン宮廷歌劇場(ドレスデン国立オペラ)(1914〜1921)を経て、1922年に渡米しシンシナティ交響楽団(1922〜1931)、ピッツバーグ交響楽団(1938〜1948)の音楽監督を歴任。その後メトロポリタン歌劇場の指揮者(1949〜1953)を経て、1953年9月にシカゴ交響楽団の音楽監督に就任し、危機に瀕していたこのオーケストラを再建、黄金時代を築き上げました。その後、1962年まで音楽監督。1962/1963年のシーズンは「ミュージカル・アドヴァイザー」を務める。ライナー着任時のシカゴ響には、すでにアドルフ・ハーセス(トランペット)、アーノルド・ジェイコブス(チューバ)、フィリップ・ファーカス(ホルン)、バート・ガスキンス(ピッコロ)、クラーク・ブロディ(クラリネット)、レナード・シャロー(ファゴット)といった管楽器の名手が揃っており、ライナーはボルティモアからオーボエのレイ・スティルを引き抜いて管を固め、またメトロポリタン歌劇場時代から信頼を置いていたチェロのヤーノシュ・シュタルケル、コンサートマスターにはヴィクター・アイタイという同郷の名手を入団させて、「ライナー体制」を築き上げています。このライナーとシカゴ響は、ヘルベルト・フォン・カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ジョージ・セル&クリーヴランド管弦楽団、ユージン・オーマンディ&フィラデルフィア管弦楽団などと並び、20世紀オーケストラ演奏芸術の極点を築きあげたのです。
フリッツ・ライナー(Fritz Reiner 1888.12.19〜1963.11.15)は、ブダペスト生まれ。生地のリスト音楽アカデミーで学び、卒業後ブダペスト・フォルクスオーパーの楽団員となった。ここで声楽コーチを兼任した彼は1909年にビゼー「カルメン」を指揮してデビュー。翌年ライバッハ(現リュブリャーナ)の歌劇場に移り、翌1911年ブダペストに戻りフォルクスオーパーの指揮者となり、1914年にはワーグナー「パルジファル」のハンガリー初演を行う。1914年からはドレスデン国立歌劇場の指揮者として活躍。ヨーロッパ各地に客演した。1922年米国に渡ってシンシナティ交響楽団の常任指揮者となり、この楽団の水準を高めたが、厳しいトレーニングと妥協を許さない方針への反発から1931年に辞任。同年カーティス音楽院の教授に就任。1936年にオットー・クレンペラーの後任としてピッツバーグ交響楽団の音楽監督となり、このオーケストラをアメリカ屈指の水準に高めた。1948年からはメトロポリタン歌劇場の指揮者を務め、1953年にラファエル・クーベリックの後任としてシカゴ交響楽団の音楽監督に迎えられた。ここでも彼の厳格なトレーニングと妥協しない頑固さは様々な対立を産み出したが、確かにこの時代にシカゴ響は世界最高水準の実力を持つ黄金時代を迎えたのである。同時にヨーロッパでも活躍。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とも密接な関係を保った。先ずバルトークが代表的な名演奏。弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽。管弦楽のための協奏曲はオーケストラの力量も相まって古典的な名盤(1955,1958年)。ドレスデン国立歌劇場時代以来最も得意としたリヒャルト・シュトラウスは「ツァラトゥストラはかく語りき」(1954,1962年)、「英雄の生涯」(1954年)、「ドン・ファン」(1954,1960年)などがある。ベートーヴェンの交響曲は第2番のみ録音しなかったが、厳格で直截な力のある表現が快い。他のムソルグスキー「展覧会の絵」(1957年)、ドヴォルザーク「新世界より」(1957年)、レスピーギ「ローマの松、ローマの噴水」(1959年)などがあった。オーケストラの小品にも引き締まった演奏が多い。オペラ録音はメトロポリタン歌劇場時代の「カルメン」のみなのが長く歌劇場で活躍したライナーだけに惜しい。同曲も独特の厳密な音楽作りがユニークである。晩年にウィーン・フィルと録音したアルバムはいずれも円熟した芸風。シカゴ響の緻密さとは違った柔軟さがあった。ブラームス「ハンガリー舞曲」&ドヴォルザーク「スラブ舞曲」(1960年)、ヴェルディ「レクイエム」(1960年)、リヒャルト・シュトラウス「死と変容」&「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(1956年)などがある。
- Record Karte
- ブラームス・ハンガリー舞曲(1,5,6,7,12,13,19,21番)、ドヴォルザーク・スラブ舞曲(第1集1,3,8番、第2集1,2番)。1960年6月ウィーン、ゾフィエンザールでのジョン・カルショウ、エリック・スミス、ジェームス・ブラウンによる録音。
YIGZYCN
.
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。