〝ホフマンの舟歌〟で有名なオッフェンバックの大名作。世界唯一のレコード。 ― ジャック・オッフェンバック(Jacques Offenbach, 1819〜1880)はパリで活躍し、最も19世紀のパリを軽妙な音楽と風刺で生き生きと描いた作曲家ですが、生まれはユダヤ系ドイツ人です。本名はヤーコプ・レヴィ・エーベルスト(Jakob Levy Eberst)。しかし、若い頃パリに出てきてからは殆ど終生をパリで暮らし、誰よりもパリを愛したフランス人だと言ってよい存在。オペレッタの原型を作り、音楽と喜劇との融合を果たしたオッフェンバック。2010年に没後220年の節目を迎えた彼ですが、生前は爆発的な人気と反比例するかのように痛烈な風刺を受け、その退廃的とも言える快楽的作風は知識人から多数の批判を受けたことでも知られています。エミール・ゾラなどは「オペレッタとは、邪悪な獣のように駆逐されるべき存在」とまで書いていますが、今日では第二帝政期フランスを代表する文化の一つとして歴史的および作品的な評価も高い作曲家に位置づけられています。そうはいっても、名作とされながらも兎角、演奏会や録音で取りあげられる際は抜粋版がほとんど。そんななか、この作品の本質を見極めようとする全曲に挑んだボニングの演奏には、その舞台を彷彿とさせる表現が充ち満ちています。生涯、自身の作品が決して、諸名作と比して娯楽的なものであることを自覚していたオッフェンバックの渾身は、ひじょうにユニークでこの3人のキャラクターを一人が演じ分けることを望んでいました。ホフマンが翻弄されるのが一人の女性の3つの側面であるという構図です。その至難は小澤征爾盤でのエディタ・グルベローヴァなど価値ある例が少なく、そして、それが為されている初期の例が本盤のジョーン・サザーランドです。3つのキャラクターをレコード録音で描き分けて聴かせることは至難なため、歌手の歌い分けは逆に著名歌手を揃えるという利点にもつながり、登場人物の多さでは、さまざまな歌手の見本市のような活況を見せることもある作品でしたが、リチャード・ボニングの魅力はこうした作品をオリジナル版で演奏するこだわりにある。ボニングが版にこだわり、自身ライナーで「『慣用版』を、私はこれ以上平気で演奏する気にはどうしてもなれない」と記して、オッフェンバックのオリジナルスコアに基づいた録音を行っている。そうしたこだわりが呼び水となったか、近年、オッフェンバックの自筆稿が大量に発見され、1977年のエーザー版に続いて、1984年のケイ版、1993年のケック版、2005年のケイとケック版が続々発表されており、新しい版での上演が主流になりつつある。面目躍如、19世紀のオペラ・バレエ研究家としても知られるボニング指揮の名演奏が楽しめる作品。「ホフマンの舟歌」をはじめ、美しく、親しみやすい旋律に溢れるフランス・オペラの傑作。
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〝ホフマンの舟歌〟で有名なオペラ。ただ、形式上はオペラではないという批評家の声もちらほら聞かれるものの、これがオペラでないと言われてもオペラにしか聞こえない。ストーリーは詩人の恋のお話なれども悪魔の存在が否応なく際立ちすぎて、詩人の恋を邪魔することを使命とした悪魔の戯れとして楽しむのがすっきりしてて良いくらい。主人公の詩人ホフマンが、歌う人形のオランピア、瀕死の歌姫アントーニア、ヴェネツィアの娼婦ジュリエッタと次々に恋に落ちるが何れも破綻するという内容。未完のまま作曲家が死去したこともあって、エルネスト・ギローがレツィタティーヴォを補筆したり、ジュリエッタの幕を削除するなどして完成させ初演に漕ぎ着けたという事情があるため、これまでに数多くの版があり、謎の多い作品とされている。もっとも一般的に用いられるのは、初演後四半世紀を経て出版されたシューダン版ですが、このほかにも、ボニングやレヴァインなど指揮者ごとの版や、映画用の版などいろいろなヴァージョンが存在していました。通常1回休憩を取る4幕または5幕で演奏されることが多い。ジュリエッタとの恋の場面で歌われる「ホフマンの舟歌」が有名だが、これは作曲者唯一のドイツ語オペレッタ「ラインの妖精」からの流用である。しかし、1976年に指揮者のアントニオ・デ・アルメイダがオッフェンバックの自筆譜を大量に発見して翌年にエーザー版が刊行され、さらに1984年には再び自筆譜が発見されたことを受けて今度はマイケル・ケイがエーザー版をもとに校訂したヴァージョンが出版されるなど、『ホフマン物語』の版のニュースがよく話題にのぼるようになってきました。本盤はリチャード・ボニング版。ボニングがスイス・ロマンド管弦楽団を指揮して、美しい音響のヴィクトリア・ホールで録音しています。エンジニアはジェームス・ロックで、エルネスト・アンセルメの一連の録音で聴かれた、理知的な音の現実主義者の時に怜悧な響きに、木質の暖色、さらにデッカを特徴づけるロイ・ウォーレスの天才的なエンジニアリングの手腕を引き継いで〝オペラのロンドン〟の層の厚みを保っています。
リチャード・ボニング(Richard Bonynge)は1930年、オーストラリアのシドニー生まれの指揮者。ジョーン・サザーランドとのおしどり夫婦は有名。ドイツ系のレパートリーは中心には据えていないが、モーツァルトやウィンナオペレッタには比較的熱心であり、DECCAには夫人とのオペラ録音があります。 一方、バレエ音楽の指揮も得意としており、DECCAには珍しい曲目を含めて多数のバレエ音楽録音があります。生地でピアノを学び、14歳でグリーグのピアノ協奏曲を弾いてデビュー、ピアニストへの道を歩んでいた。1950年に渡米、ロンドンの王立音楽院に留学、ロンドンでピアノのリサイタルを開く一方、同じオーストラリアから王立音楽院に留学していたソプラノ歌手、サザーランドとの出会いによってオペラの世界に魅せられ、指揮者に転向する。1954年、名ソプラノ歌手サザーランドと結婚、伴奏者兼ヴォイス・トレーナーを務めながら、ベル・カント・オペラの研究を続ける。この方面で忘れられていた作品の復活蘇演に尽力している。またワーグナー・ソプラノを目指してソプラノ歌手を目指したサザーランドにコロラトゥーラに転向するよう助言したのもボニングで、ロイヤル・オペラ・ハウスが夫人サザーランドにワーグナーやリヒャルト・シュトラウス作品の役を与えようとした時、ボニングは歌劇場当局に抗議したという。1962年にローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団で指揮デビュー、1963年にはヴァンクーバー歌劇場でグノーの歌劇『ファウスト』を振ってオペラ・デビュー、さらにその翌年にはロンドンのコヴェントガーデン王立歌劇場、国際的な活動を開始し、オペラ指揮者として不動の地位を獲得する。1970年にニューヨークのメトロポリタン歌劇場にデビュー、ヴァンクーバー歌劇場を経て、1976~85年シドニー歌劇場の音楽監督を務めた後、フリーとして活躍、バレエのスペシャリストとしても知られている。1975年にメトロポリタン歌劇場に帯同して初来日、1978年にもサザーランド夫人のリサイタルの伴奏指揮者として再来日している。
1971年録音。3枚組。
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