34-16311
商品番号 34-16311

通販レコード→英ナローバンド ED4盤
長く揺るがされることはない、20世紀の決定盤 ― レナータ・テバルディの声は本当に美声である。そして張りのある正真正銘のリリコ・スピント。『ラ・ワリー』はカタラーニの最も有名にして、殆ど唯一知られるオペラです。テバルディが得意とした名高いアリア〈遠くへ行かないで ― または〈さようなら、故郷の家〉は、この『ラ・ワリー』の第1幕で歌われるものです。元々人気のあるアリアでしたが、フランス映画『ディーバ』(1981年)に使用され、より一層広く知られるようになりました。ちなみに、その他にも映画『誰かに見られてる』(1987年)、『厚化粧の女』(1990年)、『フィラデルフィア』(1993年)などで用いられています。そのような人気にもかかわらず、残念なことに、このオペラの全曲録音はきわめて少なく、このデッカ盤は、その意味でも十二分に貴重ですが、さらにテバルディ、マリオ・デル=モナコ、ピエロ・カップッチッリらゴージャスきわまりない歌手陣を揃えている点においても、まさに決定盤と言えるでしょう。そしてその地位は今後も長く揺るがされることはないでしょう。懐古趣味だからではなくマリア・カラス、テバルディと云ったソプラノだけでなく1950〜60年代に活躍した〝黄金のトランペット〟デル=モナコ、エットーレ・バスティアニーニの男性陣も含めて素晴らしい名歌手が居たことは誰も疑わない事実です。彼女の最大の特徴はオペラ全曲盤の中で、とても相応しくその役柄を歌い出すことを証明している。声には風格があり悲劇を歌えばキリリと引きしまり、やさしい役柄ではそこはかとない情緒を醸し出す。主人公ワリーは高慢でありながら、性格も一途で思い込みも激しく、だから高貴な行いも、命を張った行いもできる。ソプラノの役柄としては、いろんな要素が要求されて難しいところだろうが、もう全盛期を過ぎていた、そして、この頃はメゾの音域にあったかもしれないテバルディの味わい深い歌の巧さを聴くにつけ、歌の風格といったものを強く感じます。このオペラにはソプラノの名高いアリアだけでなく、ワルターの民族色豊かなソロはピチカートをバックに雰囲気が、とてもよく愛らしい。男性陣の歌いどころもたくさん。カップチッリが歌いあげるゲルナーの心情が、上司の娘へのジェントルな愛から憎しみ混じったくらいの激しい愛へと変貌してゆくさまも、各幕にあるこのバリトン役のソロにあふれてます。同じく、デル=モナコのハーゲンバッハも当初の荒々しさから、本当の愛の情熱に変わってゆく心情が4つの幕を通じて描かれてます。指揮のファウスト・クレヴァは、メトロポリタン歌劇場でオペラ指揮者として活躍しました。彼の指揮は、共演する歌手に対する非常に注意を払い細部まで行き届いた指揮を行うのが特徴である。モンテ・カルロ公国での初オペラ録音といわれる、この全曲盤。この録音はオペラ座で指揮中に心臓発作で倒れた、彼が亡くなる3年前のものです。
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第二次世界大戦後の世界の歌劇界に、戦前のエンリコ・カルーソー、トティ・ダル・モンテ時代に優るとも劣らないイタリア歌劇黄金時代を築き上げたのは、レナータ・テバルディ、マリア・カラス、ジュリエッタ・シミオナート、マリオ・デル=モナコ、ジュゼッペ・ディ・ステファーノ、エットーレ・バスティアニーニ、アルド・プロッティなど、わが国にも馴染み深い歌手に負うところが大きい。中でもテバルディとカラスはオペラ界の両横綱ともいえる存在で、たとえ現在の実力が全盛時代ではないとしても、われわれの耳には、その美しい声と共にプリマドンナとしての貫禄からも忘れることの出来ないものとなっている。カラスがその類ない優れた演技力をもってイタリア古典歌劇から近代にいたる、又、コロラトゥーラからリリック、そしてドラマティックとソプラノの汎ゆる声質をこなしているのに反してテバルディはヴェルディ、プッチーニ、イタリア・ヴェリズモ派を中心とする作品に集中、リリコ・スピントのソプラノとしてイタリア・ベル・カント ― 美しく歌う ― を伝承している。継ぎ目なく2オクターブを斑なく歌いきる、その澄み切った「ビロードの声」と正確な発音。スケーリング、最上の劇的表現力に加うるに美しいピアニッシモ、巧みな声色の変化といったオペラ歌手としての必須条件全てが彼女の場合一体となって現れ、そこにわれわれを魅了している。カラスの歌には、どこか研ぎ澄まされた鋭い衡が感じられるとするならばテバルディのそれには憐愍のぬくもりが感じられる。
あなたは天国からやって来た天使のように歌わなければいけないよ。
1950年代から1960年代にかけてのミラノ・スカラ座の黄金期に出演・活躍し、20世紀後半におけるイタリア・オペラの代表的ソプラノ歌手の一人といわれるレナータ・テバルディ(Renata Ersilia Clotilde Tebaldi, 1922年2月1日〜2004年12月19日)。1923年チェロ教師の娘としてロッシーニの故郷ペザロで生まれたテバルディは、パルマのボーイト音楽院にはいり、はじめピアノを学んだが、17歳の時、彼女の歌うのを聞いた教師のすすめによって声楽に転向、カルメン・メリスに師事した。1944年5月23日、ロヴィーゴでボーイトの歌劇「メフィストーフェレ」のエレナ役でデビュー。1946年スカラ座再開の時には名指揮者トスカニーニに招かれて出演、その後は文字通り世界のプリマ・ドンナ、ソプラノの女王として世界各地の大劇場に出演している。この24歳のソプラノを抜擢したのは巨匠アルトゥーロ・トスカニーニ。ヴェルディの『テ・デウム』の独唱と、ロッシーニの『モーゼ』からのアリア「祈り」を歌ったテバルディを、トスカニーニは「天使の歌声」と絶賛したのでした。テバルディは「イタリア・オペラの救世主になるだろう」と新聞評で賞賛され、彼女の前途に期待がかけられた。「あなたは天国からやって来た天使のように歌わなければいけないよ」と、その公演のリハーサルの際、トスカニーニが彼女に言っていたのだが、それまで無名だったこの若いソプラノ歌手は、この公演からまるで天使のように素晴らしい羽ばたきを始める。1961年NHKの招いた第3回イタリア歌劇団のプリマ・ドンナとして来日、『アンドレア・シェニエ』ではデル=モナコと、『トスカ』ではジャンニ・ポッジと共演、その素晴らしい演唱は未だわれわれの記憶に新しい。1956年に、その第1回公演を行ったイタリア歌劇団の日本公演は、1973年で7回をかぞえ、プログラムも数十曲に及ぶ多彩さであるが、その数多い思い出の中でも最も印象深いのは第2回(1959年)の「オテロ」におけるデル=モナコとティト・ゴッビの灼熱した舞台と、第3回(1961年)の「アンドレア・シェニエ」であった。今でも思い出すのは、牢獄から断頭台に牽かれてゆくシェニエと別れを告げるあの二重唱ほど、生涯忘れることの出来ないほどの強烈な印象を心の中に記したが、確かにデル=モナコとテバルディの灼熱的な二重唱は、当時聴き得た最高のステージであった。この時テバルディは「トスカ」も歌ったのだが、1メートル85もある長身のテバルディが、その第1幕で「マリオ、マリオ」とカヴァラドッシをたずねて聖アンドレア・デルラ・ヴァーレの寺院に入ってくる時の場面は、世界のプリマ・ドンナの登場に相応しい素晴らしき姿だった。
また、彼女は一貫して英デッカに録音を残したので、まさに彼女の黄金期の声を聴くことができる。録音はほとんどがセッションを組んでレコーディングされたものであり、そのため、モノラルの音源でも音質条件は良好、テバルディの美声を軸に贅を尽くして制作された数々のオペラ全曲盤に出演する個性豊かな共演者の声も、デッカならではの克明な音で聴くことが出来る。たとえばカタラーニの『ワリー』では気高い歌唱が今もって最高の評価を得ていますし、カラヤンとの『オテロ』はデル=モナコの強烈な歌唱はじめすべてが好条件の名盤という評判でした。1951年の夏、英デッカが計画したプッチーニのオペラ3作〈ボエーム、蝶々夫人、トスカ〉のレコーディングの主役に選ばれ、当時最新のメディアであったLPという後ろ盾を得たテバルディは、その名声を世界的なものとする一方、名実共にスカラ座のプリマドンナとなり、同じ時期に台頭したマリア・カラスとの間で伝説ともなっている熾烈かつ華麗な歌手としての戦いを演じ、“イタリア・オペラの黄金時代”と讃えられる繁栄を招来しました。1955年1月31日、スカラ座を去ったテバルディは、デル=モナコを相手役に『オテロ』のデズデモナ役でメトロポリタン歌劇場にデビュー、その後は世界最大のオペラ・ハウスを主舞台として活躍、1951年以来の専属だったデッカに得意の役柄を次々とステレオ録音し、その地位はもはや揺ぎないものとなっていました。テバルディの素晴らしい芸術の秘密は、その豊かな呼吸から得られるフレージングと、輝かしいまで艶のある声で作り出す声のドラマであろう。性格的にはクッキングが趣味であると答えるように、常に誠実さを貫き通すプリマ・ドンナである。
アルフレード・カタラーニ(Alfredo Catalani)は1854年6月19日生まれ、イタリア・トスカーナ出身のオペラ作曲家。ルッカの名門音楽家の家系で育ち、オルガニストであった父エウジェニオの教えを受け、14歳でミサ曲を書いた。またプッチーニの叔父のフォルトゥナート・マギに手ほどきを受けた後、1871年にパリ音楽院入学、1873年にミラノ音楽院にて学ぶ。ミラノでアントニオ・バッジーニに学びオペラの道を志し、1886年、ポンキエッリの後任としてミラノ音楽院作曲家教授に任ぜられた。当時イタリアを席巻しはじめていたヴェリスモでなく伝統的な作風を選び、『ラ・ワリー La Wally』(ミラノ、1892年)、『ローレライ Loreley』(トリノ、1890年)の名作オペラを遺し、ワーグナーに傾倒した最初のイタリア人オペラ作曲家といわれている。当地の音楽一家の生まれで、4年後に生まれたプッチーニと同郷でかつ、ともに音楽一家筋出身ということで、なにかとライバル心を抱くようになったといいます。38歳の時にミラノ・スカラ座で『ラ・ワリー』が成功すると、直後に故郷ルッカでも上演。だが、その翌年に旅行先で倒れ、1993年8月7日に死去。39歳没。ミラノに埋葬された。短い生涯に、とくに成功した2作品を含めオペラ6作品と数曲の管弦楽作品がある。同時代の有名オペラ作曲家が犇めく当時、イタリア・オペラ界においてカタラーニはレオンカヴァッロやマスカーニ、そしてジョルダーノらの一部のオペラに聴かれる煽情的な激しい音楽ではなく、チレーアや後年のマスカーニのような抒情派といっていいかもしれない。その短命が惜しまれ、ヴェルディ後のこれらの作曲家の中では最大の存在となったプッチーニと刺激しあう大きな存在となって欲しかった。ちなみに、作曲家と年齢が近かった往年の名指揮者アルトゥーロ・トスカニーニはカタラーニを大いに評価し、このオペラを大変に気に入っていたらしく、最初の娘にヒロインと同じワリーという名前を付けたほどでした。ワルターの名は『ワリー』にも出て来ますが長男の名の由来は、この作曲家のもうひとつのオペラ『ローレライ』に登場するワルターでした。
ファウスト・クレヴァ(Fausto Angelo Cleva)は1902年5月17日にイタリアのトリエステに生まれ。生地とミラノの音楽院で学んだ後、1919年にカルカーノ劇場でヴェルディの《椿姫》を指揮して指揮者としてデビューした。1920年にアメリカに渡り、その後約20年メトロポリタン歌劇場で副指揮者及び合唱指揮者として研鑽を積み、次第に本番の指揮を任されるようになり、1942年に指揮者として同歌劇場にデビューする。1934年から1963年までシンシナティ・オペラの音楽監督を務めた。この間に1944年から1946年までシカゴ・オペラ・カンパニーの音楽監督も兼任し、1947年にはハバナでプッチーニの《ラ・ボエーム》を指揮した。1950年から再びメトロポリタン歌劇場の指揮台にも立つようになった。以降、フランスおよびイタリアのオペラを中心にした30曲のレパートリーから650回を超える公演を指揮している。1971年8月6日にアテネでグルックの《オルフェオとエウリディーチェ》を指揮中に心臓発作で倒れ、死去した。オペラの伴奏として多くのレコーディングを行っているが、いくつか有名な録音がある。レナータ・テバルディがマリオ・デル=モナコと共に主役を演じたアルフレード・カタラーニの《ラ・ワリー》をはじめ、リチャード・タッカー、ジュゼッペ・ヴァルデンゴと共にルッジェーロ・レオンカヴァッロの《道化師》、マリア・カラス、フランコ・コレッリ、ティート・ゴッビと共に、ジャコモ・プッチーニの《トスカ》、アンナ・モッフォ、カルロ・ベルゴンツィと共に、ジュゼッペ・ヴェルディの《ルイザ・ミラー》が代表される。
ワリー:レナータ・テバルディ(ソプラノ)、ハーゲンバッハ:マリオ・デル=モナコ(テノール)、ゲルナー:ピエロ・カップチッリ(バリトン)、シュトロミンガー:フスティノ・ディアス(バス)、ヴァルター:リディア・マリンピエトリ(ソプラノ)、老兵士:アルフレード・マリオッティ(バス)、トリノ・リリコ合唱団、ファウスト・クレヴァ指揮モンテ=カルロ国立歌劇場管弦楽団。録音は1968年6月、モンテ=カルロでのステレオ・セッション。
GB DEC SET394-6 ファウスト・クレヴァ カタラーニ・ワ…
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