低音に痺れる。斧で木をなぎ倒すような重厚でダイナミックな切れ味 ― バルトークの音楽というと極めて高度な知性と鋭利な感覚に貫かれた峻厳さをイメージしがちであろう。事実、彼の多くの作品が、そのような性格を持っているし、たとえそれがヴァイオリン音楽であっても、かつてのヨーゼフ・シゲティのような人が弾くことこそ相応しいとも思える。余分な情緒性や甘美さを一切削り去って、あくまでも鋭く、禁欲的に …… 。もし、バルトークの演奏について、そのような姿のみを理想とする人にとっては、これがバルトークの作品であると見当をつけるのに暫く時間を要するかもしれない。ここ10年、20年のモダンに激しく、しかも緻密にといった演奏ばかりを聞いていて聞き比べると、こういう演奏こそが本当のバルトークなのかなと思ってしまう。ハンガリーの名ヴァイオリニストで後年は指揮者としても有名だったシャーンドル・ヴェーグ(1912~1997)は、1940年にヴェーグ四重奏団を組織し約40年にわたってソロと並行して弦楽四重奏の活動を行いました。彼らの名を世界的にしたのはLPレコードの初期に録音した、このバルトークとベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集で、その後ステレオ再録音が行われたにも関わらず、今なお不滅の輝きを放っています。ベートーヴェンにおいてはヴェーグの音響や造形の立体的構築性、リズムの卓越、豊かな情趣が、バルトークでは、これらの要素に加えて作曲家本人と親交があり時代精神までも共有していることが決定的な強みとして挙げられます。その引き締まったアンサンブルによるキビキビした演奏は、彼らの全盛期の魅力をよく伝えてくれます。ここぞと音楽を聴かせる部分になると、まさしく斧を振りかざして木をなぎ倒す切れ味で、重厚でダイナミックな音の塊を放出してくるのです。
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バルトークから直接指導を受けたことでも知られるヴェーグ四重奏団は、シャーンドル・ヴェーグ(1912〜1997)によって1940年に設立された弦楽四重奏団。彼らのバルトーク演奏としては1972年のものも有名ですが、本盤は1954年の録音。バルトークやコダーイ、フバイといった大家たちの薫陶を受けたヴェーグに音楽には、深い思索と強い意志的な力が感じられるのが特徴で、そうした傾向は指揮者となって活躍した晩年の演奏からも窺えたものでしたが、今回登場する録音はヴェーグがまだ42歳の頃のものだけに、そうした傾向はよりはっきりと演奏に投影されているのがポイント。その表現は、オーケストラでいうならハンス・クナッパーツブッシュのようなスケール感を獲得しているんじゃないかとさえ思ってしまいます。バルトークでこんなタイプの演奏が可能なのかと非常に感心してしまいました。このヴェーグ四重奏団こそが本当の姿なのかもしれない。響きが重くてダイナミック、土の匂いを感じる演奏です。このソリッドな感じは、モダン・ジャズとか商業ロック好きにもお勧め出来る。超複雑で激しいリズム、無調に近いものからハンガリーの民俗音楽的なフレーズまで聴こえる和声感覚、複雑に絡み合う対位法的かけ合い。「弦楽四重奏団は始終相談している」と、作曲家・池辺晋一郎さんの駄洒落じゃないけど、必ずや、細部を徹底的に詰めているはず。心意気はハンガリーの血がなせるものでしょうが、音が有機的。ひとえにリズム処理の仕方が他の四重奏団と全然違う。バルトークの音楽はシンメトリーな構成だの黄金分割だの、そういう知的分析を加えることで、さらにすさまじい完成度に昇華できる素質をも持った曲ではあるようです。
バルトークその人こそ、他に例のないほどの警戒心と感受性とをもって世界の一切の動きを見張り、絶えず変化し、形づくられていく宇宙の声と、苦闘し続ける人類の声とに、自らのうちにあって形を与えていく人である ― ベンツェ・サボルチ
バルトーク・ベーラが生まれたハンガリーはヨーロッパの飛び地と言われる所で、アジア系マジャール人の国です。姓を先に使うことで日本人と似ています。そして、部分的に1オクターブ程の抑揚を伴うフランス語からすると、ヨーロッパにも日本語のように平坦な言語が存在し、そしておそらくそこには「欧米の主要な国々」とは違う何かがあるということを予感される。フランツ・リストのレコードを紹介した時に触れていますが、ハンガリーは複雑な運命を辿ってきた。国家・民族・国語・公用語の説明が大概「日本」という言葉で済まされてしまう世界的にも珍しい国からしても、常に近隣の国に脅かされ続けたハンガリーという小国の悲惨さは想像もつかない。ハンガリーに生まれ政治的理由により亡命する運命を辿ったバルトークは1881年生まれ、晩年いよいよ進むナチズムの台頭。ユダヤ人ではないバルトークは盟友コダーイのようにハンガリーに留まることもできたが、「死に優る苦悩の選択こそが、自らの土に加えられる暴力に対してとり得る最も激しい抵抗のかたちである」ために、ナチのハンガリー侵攻前の1940年59歳のときに引き裂かれる思いで祖国を後にした。亡命先のアメリカに着くとすぐに白血病の種子が宿り、残り少ない余命という定めに付き纏われる。加えて素朴な生活を愛した作曲家にとって、機械化・画一化の進んだ文明都市での生活は苦痛以外の何物でもなく、人工的な加工の施された机や止まぬ騒音を嫌悪した。思いは祖国の戦争に及ぶ。「戦争は続行中だ。悪魔の力は速度を上げ、妨げるものもないままに私の慣れ親しんだところへ突入していくのだ。 … なんらかの方法で祖国に行き着くことができたとしても、非常に変わり果てた状況下にあり、もはや私はそこに属するものではない。」自分がヨーロッパにいないという負い目を、受難を持って支払おうとするかのようであったという。医師には「一層の休養」をとるように言われるが、その言葉さえもが失意に響く。そんな絶望のさなか魔法使いのごとく現れたのが当時ボストン交響楽団の音楽監督だったセルゲイ・クーセヴィツキー。亡き夫人を記念するオーケストラ曲を、自らの基金から1000ドルの契約金で、しかも時間の制限や強制力を与えることなく依頼したのである。バルトークは高揚した。作曲に取り掛かると床中に本と楽譜の山が散らばり、アメリカ到着直後はあんなに悩まされていた周りの騒音も全く気にしていられなくなった。作曲中のスコアを見ながらこう言っている。「この総譜に誰も読み取ることができないのは、この協奏曲をつくることを通じて、自分自身を回復に向かわせるのに必要としていた妙薬を発見したことだよ。これは発見というものがほとんどそうであるように、ほんの偶然のことなのだ。」亡命者には「安全」「何もしないこと」に苦痛を伴うものになっていた。
人は常にいくつかの感情を同時に抱え込んでいる。心が喜びだけで満たされる瞬間があったとしても、その状態は長く続いてはくれない。嬉しさの中には少しのわだかまりがあったり、安堵感の中には拭いきれない不安の影があったり、達成感の中には説明のつかない不満があったり …… と相反するはずの感情が胸の内に共存しているものである。人間とは割り切れない生き物なのだ。ハンガリーの作曲家バルトーク(Bartók Béla, 1881.3.25〜1945.9.26)の音楽は、そんな人間の真実の感情を表現している。ひとことで言えば、暗い。しかし、深く肉体に響き、背骨の芯まで揺さぶる力がある。多くの西洋音楽は喜怒哀楽を分割し、それぞれをドラマティックに誇張し、時に美化しているが、それも度が過ぎると嘘臭くなる。バルトークはそういうことはしない。彼の作品と向き合っている時、私たちは言葉にできない自分の内面が音楽の中に映し出されていることに気付き、ある種の戸惑いと興奮を覚える。不安定な旋律、調性も無調性も取り込んだ様式、荒れ狂う原始的な打音 ―― それがどうにも説明のつけようがない矛盾だらけの自分の感情のテーマのように感じられてくる。自分だけのために書かれた作品であるかのように思う人もいるかもしれない。モーツァルトとはまったく違うやり方で、これほどまでに音楽が不安定な感情を中和させてくれる例はそうそうない。バルトーク作品の根幹にあるのは東欧の民族音楽である。その誇張のない感情表現、無造作だがバランスを失わない構成、複雑なリズム、五音音階の旋律に魅せられた彼は、実際に各地の農村へ行き、農民の音楽を採取した。そして、それらを自分の音楽性と融合させることにより、誰も聴いたことのない、現代人の胸に突き刺さる革新的な芸術を作り出すことに成功したのである。生前のバルトークは大した理解も栄光も得られなかったが、彼こそはまぎれもなく20世紀最大の天才作曲家だった。弦楽四重奏曲第5番、「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」、「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」のどれかひとつでも聴けば、それはすぐに分かるはずだ。
競争は馬のためであって、芸術家のためのものではない。私が人間の内面からの美しさを決めることはできない。 ― ベーラ・バルトークがコンクールの審査員になることを拒んだときの言葉
ハンガリーの生んだ20世紀最大の作曲家のひとりといえば何びともバルトーク・ベーラ(1881〜1945)を挙げる。否、20世紀最大の作曲家としても、まずバルトークから指を屈する人も少なくあるまい。バルトークは8歳年長のアルノルト・シェーンベルクのような芸術様式上の革命家でもなかったし、1年後に生まれたイーゴリ・ストラヴィンスキーのように若くして天才的な脚光を浴びた体験も持ってはいない。しかし、第2次世界大戦が終わり ― バルトークはこの年に亡くなってしまうが ― 新しい芸術活動の息吹が起こった時、バルトークに対する認識が急速に深まる。それは見失われていた芸術における精神活動の尊厳の回復を示すものであった。例えば、その頃の現代音楽を扱った書物の記述に数多くの例が窺われる。フランスの急進的な批評家だったアントアーヌ・ゴレアが1954年に刊行の「現代音楽の美学」(野村良雄他訳)の中で、「彼は死後僅か何年かで20世紀の作曲家の中で、おそらくアルチュール・オネゲルを除いては最も良く演奏される人となり、又現代音楽及び、その偉大と闘争と苦闘の象徴となった。 …… 現代の音楽的ヒューマニズムの代表者の中で最も悲愴な、又最も活き活きとした方法でこれを具象化している」。また1955年出版のドイツの音楽学者ハンス・メルスマンの「西洋音楽史」(後藤暢子訳)で「ストラヴィンスキーがヨーロッパ文化の汎ゆる思潮に向かって心を開いていたのに対し、バルトークは偉大な孤独の境地で生き、且つ創造したのである」、そして日本では柴田南雄が1958年刊の「現代の作曲家」の中で「バルトークを〈巨匠〉と呼ぶ時、今や我々はベートーヴェンに対する時と対して違わぬ感情を抱くに至っている。殆ど倫理的といえるほどの芸術と人生への厳しい態度が、この二人の人間像を相似たものにしているためであろう」、これらの引用はほんの一例にすぎないもので1950年代はバルトーク評価が非常に高まったことを示すものである。1960年代以降バルトーク熱は下降したかのように見えるが、そのことが彼の音楽史上の位置づけをより明確にさせることになった。20世紀前半を生きた作曲家の中でシェーンベルク、ストラヴィンスキーとバルトークが3大巨峰であることは定説となった。例えば、あの厖大な「新オックスフォード音楽史」は第10巻(1974)を現代音楽(1890〜1960)に充てているが、最も多くの影響を与えた作曲家としてドビュッシーとシェーンベルクを重視している、しかし個人としての記述に一番多くのページが割かれているのはバルトークの25ページであり、ついでストラヴィンスキー、ベルク、ウェーベルンとなっている。バルトークは多作家ではなかったが、寡作家とも言えない。彼の作品は、ほとんどあらゆるジャンルの音楽に及んでいた。広く言われるように彼は中欧・東欧の民族音楽の研究の成果を彼の芸術音楽に採り入れているが、その有り様は高度に芸術的に昇華されたものであった。バルトークはシェーンベルクの無調音楽の影響を受けているし、ストラヴィンスキーとも無縁の人ではなかった。しかし、それらが作品に具現された時、バルトーク以外の何びとも書き得なかったものとなる。このことは彼の妥協のない創作態度の厳しさを物語っている。作品の数に比較してオーケストラのための作品が異例と言ってよいほどに少ないことからも、それが窺われる。彼が名を成すに至った1910年代の中頃以降、バルトークの書いたオーケストラのための作品は「舞踏組曲(1923)」、「弦・打楽器・チェレスタのための音楽(1936)」、「弦楽のためのディヴェルティメント(1939)」、「管弦楽のための協奏曲(1943)」の4曲しか無い。また「ピアノ協奏曲」は未完に終わった第3番までの3曲と「ヴァイオリン協奏曲」が1曲、これも終結部を残して絶筆となった「ヴィオラ協奏曲」の4曲あるのみである。
1954年のモノラル録音。
YIGZYCN
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