カラヤン・オーケストラ・スペクタキュラー ― 帝王と呼ばれる前の若々しいヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮が実に痛快。優美かつダイナミックな音を引き出して、小気味良くオーケストラをドライブしています。1952年7月、カラヤンがフィルハーモニア管弦楽団との録音を本格化したころの録音です。年末商戦に向けての選曲でしょうか。テープ録音が一般化していく時代で、SPレコード録音時代の制約も開放されて、数多くの演奏家がレコード産業に参入。演奏スタイルが各一化していなくて、個性的な演奏が、数多かったこの頃。音色の瑞々しさも、響きの彫築に傾倒していた後年しかしらない者には新鮮に聞こえます。ライヴ演奏の感興も感じられて、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団時代の精密で重厚な演奏よりも躍動的。もっと彼のフィルハーモニア管時代の録音を聞いてみたくなりました。フィルハーモニア管、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルで、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」組曲に関しては5種類のセッション録音があり、ハミルトン・ハーティ編曲による『水上の音楽』は現在あまり演奏されません。後年の演奏と違い、この演奏はじつに雄大かつ靭やかな情感を表現した優美なものです。ヘンデルの「水上の音楽」共々、ドイツロマン派を思わせるゆったりした歩みはデニス・ブレインの優美なホルンと相俟って魅力を湛えています。当時、1950年代半ばまでのフィルハーモニア管は、若くて優秀な奏者を揃えていたことで知られる。なかでもオーケストラを掛け持ちするほどのスター性を備えていたのがホルンのデニス・ブレインで、この録音でも「花のワルツ」で美しい音色を堪能することができます。スケール感豊かな膨らみをもち、温かく安定したその響き。それがフィルハーモニア管自慢の木管楽器群と絡みあう美しさには、思わず聴き惚れてしまう。当時のフィルハーモニア管の実力を感じるにもってこいの録音です。チャイコフスキーと言えば、その旋律は素晴らしいが作品の構造が弱いと言うことで常に「二流作曲家」扱いをされてきました。しかし、私たちが音楽を聞いてまず最初に心惹かれるのは「構造」でもなければ「精神性」でもありません。「旋律」に酔わされるのです。作曲家が美しい旋律を作り、それを演奏家がこの上もなく美しく歌い上げれば、聴き手はそれにのっかっているだけで、心震わせるものになるはずです。カラヤンもチャイコフスキーも聞き手を満足させることを心得た音楽家として相性が良く、カラヤンがレコードで残したチャイコフスキーは、どれを聞いても素敵です。
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ヘルベルト・フォン・カラヤンは若いころアーヘンやウルムと云った地方の名もない歌劇場で苦労したことが、その後の止揚するステップの糧となっていたと語っている。小さい歌劇場では、大道具、経費の計算から入場券もぎりまでこなしたそうです。歌劇場のそうした細々しい経験から、感受性に富んだ若い時に職人気質を身につけたことが、本来持つ才能と伴に、有機的に結びつき細部まで緻密に磨き抜かれたカラヤン芸術を支えたと云ってもよいのではないか。このカラヤン美学はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団といった2大最高峰のオーケストラとの録音盤で大きく開花するが、この一連のフィルハーモニア管弦楽団との〝颯爽〟たる演奏でも既にカラヤン美学が開花している。ベルリン・フィルやウィーン・フィルなどの超一流のオーケストラとの録音がいまでも愛され続けられる音盤の中心ですが、1950年代のフィルハーモニア管時代の音盤にも魅力溢れるものが少なくないように思います。その中、ドイツ・グラモフォン盤にない魅力が本盤には有ります。「水上の音楽」は名前の通り、1715年のテムズ川でのイギリス国王の舟遊びの際にこの曲を演奏した、というエピソードが一般的には有名です。こういう音楽は「機会音楽」と呼ばれます。機会音楽とは、演奏会のために作曲されるのではなく、何かの行事のために作曲される音楽のことをいいます。それは純粋に音楽を楽しむ目的のために作られるのではなく、それが作られるきっかけとなった行事を華やかに彩ることが目的となります。ですから、一般的には演奏会のための音楽と比べると一段低く見られる傾向がありますが、顧客のニーズにあわせて作られるわけですから、独りよがりな音楽になることはありません。しかしながら、例え機会音楽であっても、その創作のきっかけが何であれ、出来上がった作品が素晴らしい音楽になることはあります。大部分の凡庸な作曲にあっては、そのような内的衝動に基づいた音楽というのは聞くに堪えない代物であることが少なくありません。それに対して、モーツァルトやヘンデルのようなすぐ入れた才能の手にかかると、顧客のニーズに合わせながら、音楽はそのニーズを超えた高みへと駆け上がっていきます。
「国王陛下はこの曲をたいそうお気に召され、行き帰りの間に3回もその演奏を所望された。」と、1717年7月19日付のデイリー・クラント紙上で書かれたところに根拠がありそうですが、この音楽が今日伝えられる「水上の音楽」であるのかどうかはわからない。そして、1736年4月26日に行われたテムズ川の舟遊びの際にも、ヘンデルの「水上の音楽」が演奏された記録も残り、19曲の楽譜が伝えられている。「水上の音楽」は楽譜は出版されず、自筆譜もほとんどが消失しているために、曲の配列や演奏形態も確定されていません。アイルランドの作曲家、ハミルトン・ハーティは6曲を選び、「エア」「ブーレ」「ホーンパイプ」「アラ・ホーンパイプ」の4楽章に似た構成にまとめ、楽器編成を大幅に強化して、それは慎ましやかなバロック音楽ではなくて、標準的な2管編成のオーケストラ曲に仕上げている。さらに、テンポ設定やダイナミクスに関しても細かく指定して、完全にバロック音楽とは全く違う音楽に仕上げています。もう、この手の曲はカラヤンの独壇場。カラヤンとフィルハーモニア管弦楽団は、モダン・オーケストラのグラマラスな響きをフルに活用して、辛気くさいバロック臭さを吹き飛ばしてくれています。美しく磨き抜くところは徹底的に美しく、そしてオーケストラの威力を誇示すべきところは圧倒的な迫力で聞き手を酔わせます。そして、何が面白いと言って、今日でも、「水上の音楽」と言えば、このカラヤンの演奏によってイメージが作られているという人が多いのです。
ヘルベルト・フォン・カラヤンは、チャイコフスキーの3大バレエ音楽「白鳥の湖」「眠りの森の美女」「くるみ割り人形」の録音を、組曲でそれぞれ生涯に4回行っている。エルネスト・アンセルメが3大バレエ抜粋として、LP一枚でリリースしたことに始まって、CDでは、この3大バレエ組曲を一枚に整えてしまっているケースが多いが、LP初出は「くるみ割り人形」は別にして、4回とも「白鳥の湖」と「眠りの森の美女」のカップリングでリリースされた。レコードの収録時間が関係しているとは思われず、敢えてそうする考えはわたしもわかるところがある。現在ではバレエの代名詞のようになっている《白鳥の湖》は、初演の時にはとんでもない大失敗で、その後チャイコフスキーがこのジャンルの作品に取りかかるのに大きな躊躇いを感じさせるほどのトラウマを与えました。今となっては、その原因に凡庸な指揮者と振り付け師、さらには全盛期を過ぎたプリマ、貧弱きわまる舞台装置などにその原因が求められていますが、作曲者は自らの才能の無さに原因を帰して完全に落ち込んでしまったのです。とにかく大切なのはプリマであり、そのプリマに振り付ける振り付け師が一番偉くて、音楽は「伴奏」の域を出るものではなかったのです。ですから、伴奏音楽の作曲家風情が失敗の原因を踊り手や振り付け師に押しつけるなどと言うことは想像もできなかったのでしょう。再演の機会があればスコアは見直され、磨き上げられていくのですが、意気消沈したチャイコフスキーは楽譜をお蔵入りしてしまう。チャイコフスキーの評判が決定した後の組曲《くるみ割り人形》はバレエ全曲を完成する前にオーケストラ(演奏会用)ピースとして作曲。録音・発売の年代順に整理してみるとフィルハーモニア管弦楽団と1952年のモノラル録音と1959年のステレオ録音、1965年のステレオ録音はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、1971年のステレオ録音はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団となる。それぞれのオーケストラとは、ロンドンのキングスウェイ・ホール、ウィーンのゾフィエンザール、ベルリンのイエス・キリスト教会が録音場所で、EMI、デッカ、ドイツ・グラモフォンのマイクセッティングの特色も比較愉しめる。どれも発売当時のレコードの売れ行きは好調だったが、特に2度目のEMIのステレオ盤は人気を集めたようだ。一方、「くるみ割り人形」の初出LPカップリングは、それぞれフィルハーモニア管との1952年モノラル録音がヘンデルの「水上の音楽」組曲、1961年のステレオ録音はウィーン・フィル盤でグリーグの「ペール・ギュント」第1組曲・第2組曲からの抜粋が組み合わされ。1966年のステレオ録音だったベルリン・フィルハーモニー管弦楽団盤がチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」、最後の1982年のデジタル録音となったベルリン・フィル盤が幻想的序曲「ロメオとジュリエット」という様に、オーケストラ(演奏会用)ピースとして自発的に作曲された「くるみ割り人形」が純然たる管弦楽組曲として、チャイコフスキーの意図を含んでいるようであった。ただカラヤンは実際のコンサートでは、この3大バレエ音楽を全曲も含めプログラムに取り上げていない。
作曲家の仕事を尊重すべき高みに引き上げたのはレコードの世界的普及だった。英EMIの偉大なレコード・プロデューサー、ウォルター・レッグは正に基準となるようなレコードを作ることを信条に働いていた。レコード会社に主導権のあった時代である。オーケストラや指揮者は各レコード会社と専属関係にあった。そこにまたとないパートナーを得ることになる。そして、それはレコードを愛する私たちにも嬉しい事だった。戦後ナチ党員であったとして演奏を禁じられていたヘルベルト・フォン・カラヤンの為に、1945年、レッグは自ら創立したフィルハーモニア管弦楽団を提供し、レコード録音で大きな成功を収めた。それから10年、ウィーンやベルリンでの演奏が出来ずに、レコードだけで音楽を創りあげるだけの年月をカラヤンはおくる。1954年にドイツ音楽界に君臨していたヴィルヘルム・フルトヴェングラーの急逝にともない、翌55年にカラヤンは、ついにヨーロッパ楽壇の頂点ともいえるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者の地位に登りつめた。ここでレッグとカラヤンの関係は終止符を打つが、この約10年間に残したレッグ&カラヤン&フィルハーモニアのレコードの数々は、正に基準となるようなレコードであったと断言出来る。演奏はオーケストラに合奏の完璧な正確さを要求し、音を徹底的に磨き上げることによって聴衆に陶酔感をもたらせ、さらにはダイナミズムと洗練さを同時に追求するスタイルで、完全主義者だったレッグとうまが合ったのは当然といえば当然で、出来栄えも隙が無い。決して手抜きをしないのがカラヤンの信条であったという。
1952年7月ロンドン、キングスウェイ・ホール録音。
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