34-22494

商品番号 34-22494

通販レコード→英ブルー黒文字盤

超個性的でありつつも豊かな芸術性をいささかも失っていない ―  グレン・グールド演奏によるヨハン・ゼバスティアン・バッハの《平均律クラヴィーア曲集第2巻》前奏曲とフーガ第1番ハ長調の録音が、1977年、未知の地球外知的生命体への、人類の文化的傑作として宇宙船ボイジャー1号・2号にゴールデン・レコードとして搭載された。バッハの《平均律クラヴィーア曲集》は、ピアノ音楽の旧約聖書とも称される楽曲で、長大な曲集だけに、グールドも1962年~1971年と足掛け10年近くを要して録音を成し遂げている。よほど慎重を期して録音を行ったと言えるが、演奏全体に録音年代による大きな違いは存在していないと言える。バッハの〝ゴールドベルク変奏曲〟の大ヒットによって一躍その名を高めることになったグールドにとって、バッハは常に特別な存在であり続けました。半世紀ほど前にロックに感動した少年が、ブルースを愛する父親にギターを無心した。父親もブルースだと納得してもらえた少年の演奏はテンポだけが早いブルースだったが、それが少年が感動したロックだった。ギターの腕を上げて青年に育つとファンクを生み出した。そしてハードロックの呼称が定着することになる。それは2020年となった今から50余年遡る、1968年のことだ。テンポだけが早くなったブルースは変質していない。ハードロックの起源とされるのはザ・ビートルズの「ヘルター・スケルター」や、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、ザ・フー、ブルー・チアー、ヴァニラ・ファッジなどで、ロック、ブルーズとサイケデリック・ロックを融合し新しいスタイルを呈示してみせた。1950年代はアメリカのロック音楽が、世界のかなりの数の若者の心をとらえていた時代だった。イギリスではスキッフル・ブームの後、より直接的な感情の発露の手段としてブルースが優れていたことから、ブルースを基調とする骨太でソリッドな音楽を演奏する者が次々現れた。1960年代には、イギリスではちょっとした「ブルース・ブーム」になった。これが、イギリスにおけるハードロックの原点となる。この頃のアメリカCBSレコード専属のピアニストでいうとウラディミール・ホロヴィッツはRCAに取り返された、ロベール・カサドシュは高齢だったし、ルドルフ・ゼルキンより30歳若くて〝ゴールドベルク変奏曲〟で大当たりしたグールドは伝統に反発するアンチ・クラシックの若者たち、ジャズ・ファンにもアピールできる売れる金の卵だったでしょう。何でも好き勝手に録音させた感じがします。それを御用評論家が箔付けして、グールドを聴くことがクラシック好きのステータスみたいなイメージができていきました。折しもアメリカで起こっていた公民権運動、これと同時進行する形で世界各国で学生運動が勃発、少し時代が下ってベトナム反戦運動が、この流れに合流する形で「反権力」を旗印とした市民運動が全世界的に盛り上がった時代を背景に、これはうまいマーケティングと結びつき、ハードロック誕生と重なる。ブルースの流れを踏襲しているロック音楽全般がプロテスト的色彩を帯びたのは自然の流れである。1968年にはジェフ・ベック・グループ、レッド・ツェッペリンがデビューした。1970年には後にヘヴィメタルの代表的存在となるブラック・サバスがデビューし、ディープ・パープルがハードロックに転向する。このころには、ハードロックが欧米中心にブームとなった。これら若者を中心に人が集まる「市民運動団体」と「レコード会社、コンサート興行主等の音楽産業界」双方の思惑が一致したことから、このコラボレーションは次第に大規模化されていく。10歳代のグールドはプログラミングについてもかなり自由だったし、たっぷりとしたレガート奏法でロマン派作品を弾いていた。1951年にはウェーバー「コンチェルトシュテュック」、アーネスト・マクミラン指揮トロント交響楽団とのベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番。1952年にはベートーヴェン「創作主題による6つの変奏曲 作品34」、「6つのバガテル」、「エロイカの主題による15の変奏曲とフーガ」、シェーンベルク「ピアノ組曲 作品25」、「3つのピアノ曲 作品11」、ベルクのピアノ・ソナタ、バッハ「イタリア協奏曲」、「平均律クラヴィーア曲集第2巻」の9番。1953年にはジャン=マリー・ボーデ指揮CBC交響楽団とのシェーンベルクの「ピアノ協奏曲」。1954年には、ヴェーベルン「ピアノのための変奏曲」、バッハ「ゴールドベルク変奏曲」、アレクサンダー・シュナイダーのヴァイオリン、ザラ・ネルソヴァのチェロとベートーヴェンのピアノ三重奏曲第5番「幽霊」などをカナダ放送協会(CBC)などで録音している。それが1955年の〝ゴールドベルク変奏曲〟を機に、いわゆるグールド的志向に変化していくのであるが、それではなぜ、グールドはロマン派音楽と距離を置くようになったのか。フーガをして「音楽の形式に関する考え方の歴史のなかで、もっとも長もちする創作上の工夫の一つであり、音楽家にとってもっとも神聖な実践方法の一つである」と断言するグールドのピアノ演奏と、その独特な解釈は、粒立ちのはっきりとした音と、思索的な深まりを感じさせる音を使い分けた見事なものです。解説を書いているデイヴィッド・ジョンソン『フーガの技法」には人間味とか感情は感じられないが、それらはこの作品が真に目指しているものではない。と書いていますが、グノーのアヴェ・マリアに使われておなじみとなった美しい前奏曲で開始される《平均律クラヴィーア曲集》でも、そうした特性がよく活かされており、耳に届く演奏の態様はオーソドックスとは到底言い難い超個性的でありつつも、あくまでもバッハがスコアに記した音符を丁寧に紐解き、心を込めて弾くという基本的なスタイルがベースになっており、緻密なスコア・リーディングに基づいてバッハのピアノ曲の本質をしっかりと鷲掴みにするとともに、深い愛着を有しているからこその、この、〝48の前奏曲とフーガ〟の組み合わせから浮かび上がる音楽の深まりと高まり、存在感が圧倒的です。
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グレン・グールドはピアニスト、作曲家。1932年9月25日カナダ、トロント生まれ。1982年10月4日没。母親にピアノの手ほどきを受ける。1940年、7歳の時トロント音楽院に入学。1945年、オルガニストとして13歳でデビュー。翌年にはピアニストとしてトロント交響楽団と共演。同年14歳の最年少で同音楽院を卒業するなど、早くから神童として知られる。北米を中心に活動し、1955年にバッハ『ゴルトベルク変奏曲』を弾いてワシントンとニューヨークにデビュー。1955年にコロンビア・マスターワークス(現ソニー・クラシカル)と専属契約を結び、1982年に亡くなるまで同レーベルに録音を続けました。1956年に衝撃的な『ゴールドベルク変奏曲』を発表。このアルバムはデビュー盤にかかわらずベストセラーとなり、その衝撃的な演奏とともにセンセーションを巻き起こす。1957年にヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルとの共演でヨーロッパ・デビューする。さらに旧ソ連への演奏旅行も行う。1959年にはザルツブルク音楽祭に出演し世界的な名声を築き上げていったが、1964年のロサンジェルスでのリサイタルを最後にコンサート活動から引退し、以来レコード録音とテレビによる放送などを通じての世界のみから出ることはなかった。伝統を読み直し再構築してゆく斬新な視点は、常に聴き手に問題提起をし続けた。デビュー作と生前最後のアルバムと映像収録は『バッハのゴルトベルク変奏曲』であった。最後の〈アリア〉を弾き終えたグールドが、両腕を持ち上げ祈るように掌をあわせるシーンに心打たれる。
  • Record Karte
  • 1963年6月18,19,20&8月29,30日録音。
  • GB CBS SBRG72337 グレン・グールド バッハ・平均律ク…
  • GB CBS SBRG72337 グレン・グールド バッハ・平均律ク…
バッハ:平均律クラヴィーア曲集(全曲)
グールド(グレン)
SMJ
2012-10-24

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