34-15874

商品番号 34-15874

通販レコード→英レッド Walking Eye 黒文字盤

さほど面白さを強く感じるものではありません。 ― 子どもは正直である。かの音楽は、どこをどう切り取ってみてもモーツァルトの音楽以外の何ものでもなく、彼の音楽は、とても人の子が生み出したとは思えない、天から降ってきた〝啓示〟のような〝楽の音〟がする。作曲家を知らずとも、モーツァルトの音楽が流れた途端ご機嫌になる。モーツァルトの音楽が、なんらかの効用があると云われだして大分なります。作曲家の池辺晋一郎氏もモーツァルトの音楽の親しみやすさについて「ハーモニーが殆ど定番のド・ミ・ソで出来ているので心地よく感じる」と云っていました。一定の曲が、一定の病気に効果があるとは考えていませんが、曲のリラックス効果が人間のストレスを和らげ、その結果が人間の自然治癒能力を高め、病気が快方に向かうということは考えられます。無意識に自分を信じることができなくなくなった時にはモーツァルトなどを聴いてみるとよい。この世には本来ならば何の規律も法則も存在し得ないが、仕事や様々なしがらみなどで雁字搦めになり、「自分で自分の道を楽しむ」ことが困難になったとき、彼の音楽が間違いなくあなたを癒してくれる。2018年に生誕100年をむかえたレナード・バーンスタインは、アメリカが生んだ20世紀を代表する大指揮者であり、作曲家、ピアニスト、そして教育者、理論家など、音楽の多方面にわたって優れた業績を残した偉大な「音楽家」でした。1945~46年という活動のごく初期にRCA Red Sealに残したSP録音に始まり、1956年から1974年にかけて、米COLUMBIAに残された協奏曲、室内楽のほかに、彼が賞賛した歌手らの歌曲の伴奏も務めました。指揮者、作曲家、教育者、それらのインスピレーションとしてのバーンスタインの影響は、ピアニストとしての彼の腕前を覆してしまうことがあります。しかし、彼はいつもピアノを愛し、ピアノ協奏曲を主導し、室内楽では協力し合い、名ピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインも「指揮者の中で最も偉大なピアニスト、作曲家の中で最も偉大な指揮者、そしてピアニストの中でも最高の作曲家」と賛辞していました。モーツァルトが楽譜に記して求めた、内容はさほど難解ではない。今日ではもちろんのこと、当時においても極端に高度な技能を必要とするものではない。しかし、モーツァルトほど演奏者によって優劣の差がはっきりとしている音楽は他にない。この協奏曲がウィーンでモーツァルトの独奏によって演奏されたのは1787年4月7日のことである。そして、その次に演奏されたのがアルトゥーロ・シュナーベルが1934年に弾いた時だというので、147年もの間だれにも演奏されなかったということだ。本盤は、バーンスタインが弾き振りによりイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団と共演した1974年の録音です。イスラエル・フィルとはバーンスタインと同じユダヤ系ということもあり1947年から長く深い関係を続け、独自の世界観を共有した名演を数多く残している。第1楽章から華やかさと典雅さのある曲ではあるものの、いまひとつ地味な感じがあって、耳に残るインパクトに欠けるところがあり、第2楽章も耳障りになるところもなく、実にスムーズに流れる。第3楽章は、ようやく伸びやかなモーツァルトの風味に溢れた音楽が聞こえ出してきますが、ウラディーミル・アシュケナージやダニエル・バレンボイムの弾き振りに比べ、指が回っていないなど細かい部分で劣り、ゆっくりと進んで行く分重い音楽に感じる。
1974年11月1,5,6日テル・アヴィヴ、マン・オーディトリアムでのステレオ・セッション録音。
GB CBS 61896 バーンスタイン モーツァルト・ピアノ協奏曲
GB CBS 61896 バーンスタイン モーツァルト・ピアノ協奏曲
モーツァルト:ピアノ協奏曲第25番/ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番
バーンスタイン(レナード)
ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
2007-11-07

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モーツァルトは、ウィーンに出た1784年2月、28歳から初めて自作の「作品目録」を書きだした。モーツァルトの楽曲説明で目にするケッヘル番号は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハやヘンデルと違い、作曲された順番に番号が打たれることになったのは、このモーツァルト自作の「作品目録」を底本にしているからです。モーツァルトが「作品目録」を作ったのは、自作を貴族たちにアピールするため。今でいうところのポートフォリオで、各楽曲の主題が書かれています。記載の第1号はピアノ協奏曲第14番で、その年に彼はそのジャンルで14〜19番の6曲を作曲して、もちろん自分で弾いた。2月26日から4月11日までの45日間には25回も弾いたほど、隆盛を示しています。翌1785年にはピアノ協奏曲20〜22番が生まれ、さらにその翌1786には23〜25番のピアノ協奏曲が書かれているわけだが、24番を書いて、続いて完成されたオペラ「フィガロの結婚」で、モーツァルトの人気に致命傷を加えることになる。台本は、フランスの劇作家ボーマルシェの「狂おしき1日、あるいはフィガロの結婚」なる戯曲で、「セビリアの理髪師」、「フィガロの結婚」、「罪の母」という3部作で、フランス革命前夜のパリで大ヒットしていた。しかしウィーンはパリよりずっと保守的だった。ウィーンでも「フィガロの結婚」の戯曲の上演をという要請があったが、皇帝は「体制批判、革命促進につながる」として禁じた。その状況を充分に踏まえていたにもかかわらず、モーツァルトは脚本家ダ・ポンテと一緒に「フィガロの結婚」のオペラ化を進めてしまった。音楽は愛された。しかしウィーンの保守貴族たちにとってオペラの筋書きはあまりに不快だった。彼のコンサートのお客のほとんどでもあった貴族と富裕層は彼を次第に見限っていくばかりである。その後に書かれた最初のピアノ協奏曲である。この協奏曲25番はあまりに良い曲であり重要な曲だ。1784年の第14番 K.449から続いてきたピアノ協奏曲の連作を締めくくる華麗で雄大な曲。ただし、20番台の協奏曲の中では比較的録音や演奏の機会は少ない。第1楽章の主題は、ベートーヴェンの第5交響曲の運命動機のオリジナルだ。弾むようなリズムが高揚したハレの気分のうち典礼風な格調をも添え、展開部では6声のポリフォニーが「ジュピター交響曲」の終楽章を予感させる。明るいだけではなく、副主題はたいそう頻繁に短調に転じて微妙な綾と翳りを織りなして行く。第2楽章は謎めいたロマンティックな表情をはらみ、これを書いたころのモーツァルトの心中にある秘匿された〝何ものか〟を暗示する。第3楽章はオペラ「イドメネオ」のガヴォットの主題だがやはりどこか典礼の気分があり展開部の転調の見事さはオペラ「ドン・ジョバンニ」の世界を垣間見る。この終楽章が見事に演奏されたときの晴れやかな気分は替え難い喜びだ。モーツァルトの表看板である、ピアノ協奏曲の中で最もシンフォニックなのが「第25番ハ長調 K.503」です。
至高の作品を数多く残しながら、それにふさわしい名声を得ることもなく、貧しい身で若くしてこの世を去ったモーツァルト。モーツァルトが神の御下も呼び戻されて220年近く経った。その魂は音楽家として、三度姿を見せているが、現代演奏されている彼の楽曲に、解釈を求めるだろうか。彼が優れたピアノ協奏曲を多く作曲した事実の陰に、理解されないことへの達観と、だからこそ自らが演奏しようとしたぎりぎりの自負心とを感じる。モーツァルトの作品は、それを深く理解し、愛するものにしか、演奏することを許さない。と言いたいくらいだが、しかし、彼の音楽の美しさは楽譜の「行間」に込められたものであって、彼の心を知る演奏家の手によって初めて、事実の美となる、そういうものなのであるとは長年、モーツァルトの音楽を解釈した演奏をかかさず聴いてきて思うことです。ブラームスやチャイコフスキーやドヴォルザークの大名曲も、そういうものだろうと言われるか、しれませんが客観的に解釈しても、その通りにいかないものがモーツァルトの特異性ではないでしょうか。そこに誰もが挑みたくなって、古今東西のいろんな名作以上にモーツァルトほど演奏者によって解釈がはっきりと異なる音楽は他にない。モーツァルトの曲では、ある演奏を聴いてつまらないと思っていた曲が、別の演奏を聴いて総毛立つ旋律的感動を受けるということが、少なくなかった。モーツァルト自身の演奏を聴くことは、今日において全く叶わぬ夢です。しかしながら、彼の心を知る演奏家は、今この時確かに存在する。困窮の最中にありながら、天才が世に問うたこの不滅の音楽を、自身作曲家でもあるレナード・バーンスタインがいわば「中庸」の域で紡ぎ出す。人間的な音楽が魅力のバーンスタインのモーツァルトの演奏の中でも、これは主情的なように見え、そこにはモーツァルトの音楽しか存在しない。バーンスタインが1980年代に録音した、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との演奏が飛び切り「うねり」に満ちていた。バーンスタイン&ウィーン・フィルという組み合わせは一世一代で、他のどの楽団との録音と比べてもバランスが取れているように思う。そこにはオーケストラ自体の力量が明確に反映された結果なのだろうと思うが、バーンスタイン色に染められながらも、それが決して過剰にならず常に有機的な響きをもたらしている。
レナード・バーンスタインといえば、その経歴が端的に示すように、言わずと知れたマーラーのエキスパート。いち早くアメリカ時代の1960年代に交響曲全曲をセッション録音すると、1970年代には交響曲全曲の映像をライヴ収録、晩年の1980年代にもライヴ録音で全集に取り組みながら、千人の交響曲(交響曲第8番)の収録を残し完成間近に世を去っています。マーラーを指揮しているときのバーンスタインはやはり別格で、作曲家・指揮者としての自らの姿とを完全に重ね合わせるかのような瞬間もあり、バーンスタインの演奏を通じてマーラーに目覚めたというファンは数知れず、おおいに受容に貢献した功績については異論の余地のないところです。それとて、録音年が下るにつれて、全体の演奏時間が拡大する傾向が認められ、濃厚なうたい回しと主情的な表現が一種独特の世界を醸し出し、そこがまた「バーンスタインのマーラー演奏」の魅力として熱い支持を集める要因にもなりました。同じ傾向がモーツァルトの演奏にも見られるのです。強力な弦楽セクションの魅力で今日世界有数のオーケストラとして知られるイスラエル・フィルハーモニー管弦楽団。その歴史は1948年イスラエル共和国建国を機に現在の名前に改称する以前、名ヴァイオリニスト、ブロニスラフ・フーベルマンによりパレスチナ交響楽団としてスタートした1936年にまで遡ります。モーツァルトのピアノ協奏曲第22番が内容があるのにあまり注目されないのとは逆に、第25番は内容自体にその原意があるように思います。BGM的に聴いてみても、オーケストラ部分はシンフォニックながら、ソロ部分はオブリカート的で見せ場に乏しい。第2、第3楽章にはカデンツァはない。そして、第1楽章のカデンツァは、モーツァルト自身のものは残されていない。バーンスタインの、イスラエル・フィルとの《K.503》は、第1楽章のカデンツァに、ベートーヴェンの〈第4協奏曲〉や、〈ヴァイオリン協奏曲〉、モーツァルトの〈ハフナー交響曲〉や〈ハ短調協奏曲 K.491〉まで飛び出すという破格の面白さ。こんな無茶をしながら、少しも嫌味にならないというのは人徳だろう。福島章恭)。本盤で蒔かれた種は、内田光子が花咲かせる。ジェフリー・テイト指揮イギリス室内管弦楽団のサポートを得た1988年盤を経て、2016年にクリーヴランド管弦楽団を相手に、弾き振りで録音。この曲の本質を明らかにし、モーツァルトの心を音楽にして聴かせてくれた。
レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein, 1918.8.25〜1990.10.14)は、20世紀楽壇でヘルベルト・フォン・カラヤンと人気を二分したスター指揮者。アメリカが生んだ20世紀を代表する大指揮者であり、作曲家、ピアニスト、そして教育者、理論家など、音楽の多方面にわたって優れた業績を残した偉大な「音楽家」。熱い感情迸る魂の演奏は、多くの共感を呼び、カリスマ的な支持を得て多くの人に愛されました。1958年、アメリカ生まれの指揮者として史上初めてニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督に就任してからは、多くのアメリカ人作曲家の作品を紹介してきました。なかでも親交の深かったコープランドの作品は生涯を通じて演奏しました。ニューヨーク・フィルハーモニックは、〝Big Five〟と言われるアメリカ5大オーケストラのひとつ。ニューヨークで唯一、常設されたコンサートオーケストラで創立はウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と同じ1842年。その長い歴史の中で必ずしも常に最高の演奏水準を保ってきたわけではないが、伝統的に特に管楽器に名手を多く擁し、幅広いレパートリーに対応できる柔軟性を誇っている。そこには、ユージン・オーマンディやレオポルド・ストコフスキーとフィラデルフィア管弦楽団、ジョージ・セルとクリーヴランド管弦楽団、ゲオルク・ショルティとシカゴ交響楽団、セルゲイ・クーセヴィツキーや小澤征爾あるいはシャルル・ミュンシュとボストン交響楽団にみられる他のアメリカの主要オーケストラに比べると、特定の指揮者との長期間の結び付きはニューヨーク・フィルにはない。1909年にグスタフ・マーラーを常任に迎え、演奏レヴェルの向上に努め、楽団員をフルタイムの団員とした。第一次世界大戦中の1917年10月にはレコード録音も始める。1921年にナショナル交響楽団、1923年にはニューヨーク・シティ交響楽団を吸収し、ジョセフ・ストランスキーとウィレム・メンゲルベルクの2人が常任の地位を分け合う双頭体制がスタートした。1925年からの2年間、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがフィルハーモニーへ集中的に客演し、1927年からアルトゥーロ・トスカニーニとメンゲルベルクの双頭体制に代わり、1928年3月20日には最大のライバルであったニューヨーク交響楽団を吸収した。これによって名称はニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団となった。より人口の少ないロンドン、ベルリン、パリなどが5~7団体を擁しているのに比べ異例であるが、1団体にパワーを集中させる傾向は米国の他の大都市にも見られる。1936年にトスカニーニがニューヨーク・フィルの常任を退き、当時まだ30歳代だったジョン・バルビローリが引き継いだ。
1943年から1947年にかけてはアルトゥール・ロジンスキが常任のポストにつき、1943年11月14日には、当時副指揮者だったレナード・バーンスタインが、ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルに伝説的なデビューを飾った。1947年から1949年にかけて、ワルターが音楽顧問という形でニューヨーク・フィルの中心的存在となっていた。1949年から1950年は、レオポルド・ストコフスキーとディミトリ・ミトロプーロスが同じ立場を継いだ。この1950年代にエヴェレスト・レコード社から、ストコフスキー、バーンスタイン、カルロス・チャベスなどが指揮する「ニューヨーク・スタジアム交響楽団」のレコードが発売されているが、これは契約上の関係からのニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の変名だといわれている。1957年、音楽監督ミトロプーロスは「首席指揮者」に肩書きが変わり、同じ地位を若きアメリカ人指揮者バーンスタインと分け合う体制となった。バーンスタインの華麗な指揮と明快な音楽解釈、そして何より豊かな音楽的才能は、この誇り高き扱いにくいオーケストラの楽員たちを瞬く間に手なずけた。彼のスター性と相まって、バーンスタインとニューヨーク・フィルとのコンビによるレコーディングやテレビ放送にも注目が集まり、ニューヨーク・フィルの黄金時代が到来した。彼はコンサートの回数を増やし、楽員の雇用形態も安定させ、レコーディングも積極的におこなった。バーンスタイン時代に、楽団の正式名称もニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団からニューヨーク・フィルハーモニックへと改められた。1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を辞任した後は常任指揮者等の特定のポストには就かず、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団、バイエルン放送交響楽団、ロンドン交響楽団、フランス国立管弦楽団などに客演、その活動の軸足をヨーロッパに向けるようになった。ロンドン響とは、桂冠指揮者の関係を得て多くの録音や、音楽祭への出演があり、このオーケストラの豊かなフレキシヴィリティにバーンスタインが大いなる共感と親近感を抱いてました。1970年2月にバーンスタインは、そのロンドンに腰を据えて、「ヴェルディのレクイエム」のレコーディングには1週間に渡って密なる取り組みで臨みました。音楽解説者・教育者としても大きな業績を残し、テレビ放送でクラシック音楽やジャズについての啓蒙的な解説を演奏を交えて行い、音楽家として社会的なメッセージを発信する活動も数多く行ったが、時にはそうした行動が物議を醸すこともあった。
ヨーロッパ屈指の家電&オーディオメーカーであり、名門王立コンセルトヘボウ管弦楽団の名演をはじめ、多くの優秀録音で知られる、フィリップス・レーベルにはクララ・ハスキルやアルテュール・グリュミオー、パブロ・カザルスそして、いまだクラシック音楽ファン以外でもファンの多い、「四季」であまりにも有名なイタリアのイ・ムジチ合奏団らの日本人にとってクラシック音楽のレコードで聴く名演奏家がひしめき合っている。レコード産業としては、英グラモフォンや英DECCAより創設は1950年と後発だが、オランダの巨大企業フィリップスが後ろ盾にある音楽部門です。ミュージック・カセットやCDを開発普及させた業績は偉大、1950年代はアメリカのコロムビア・レコードのイギリス支社が供給した。そこで1950年から1960年にかけてのレコードには、米COLUMBIAの録音も多い。1957年5月27~28日に初のステレオ録音をアムステルダムにて行い、それが発売されると評価を決定づけた。英DECCAの華やかな印象に対して蘭フィリップスは上品なイメージがあった。フィリップスは1982年10月21日コンパクト・ディスク・ソフトの発売を開始する。ヘルベルト・フォン・カラヤンとのCD発表の華々しいCD第1号はイ・ムジチ合奏団によるヴィヴァルディ作曲の協奏曲集「四季」 ― CD番号:410 001-2。1982年7月のデジタル録音。現在は、フィリップス・サウンドを継承してきたポリヒムニア・インターナショナルが、これら名録音をDSDリマスタリングし、SACDハイブリッド化しています。