正確な音程、柔らかな歌声、コントロールの効いたビブラート、ドラマチックな歌唱からリリックな歌唱まで実に幅の広い表現力 ― フランスの往年の名ソプラノ、レジーヌ・クレスパンはフランス南部のマルセイユに生まれ、16歳から歌のレッスンを始めたクレスパンは、1948年にマスネのオペラ《ウェルテル》のシャルロッテを歌い、ミュルーズではワーグナーのオペラ《ローエングリン》のエルザを歌い、その後バイロイト音楽祭でも人気を博しました。1990年に引退するまでフランス隋一のドラマティック・ソプラノとして活躍した彼女の功績は現在でも計り知れません。彼女が2007年に80歳で逝去した際、当時不人気真っ只中のニコラ・サルコジ大統領も「フランスの偉大な歌声が失われた」と死を悼む声明を出したというから、やはりフランスを代表する名花であったのは実証される。かつてハリウッドボウルの野外リサイタルでは上空を飛び交ったジェット機の轟音にも負けなかったという伝説的エピソードでも知られています。彼女は、その迫力ある声でワーグナーを得意としていたドラマティック・ソプラノでしたが、LPレコード時代のワーグナー・ソプラノといえば、キルステン・フラグスタートの位牌を継いだビルギット・ニルソンの存在が大きく立ちはだかっていた。両スーパー・ソプラノが、逝去するのも相前後した時期なので気の毒に思う。ニルソンと比べるのが酷なのだろうが、高音域の線の細さで見劣りするが、クレスパンはその艶やかで美しい声は聴くものを魅了しただけではなく、細やかなディクテーションで人物の感情や思いを伝える表現力の幅広さはかなりのもので、オペラや得意のフランス歌曲ではエレガントで繊細な歌も披露してくれていました。指揮者のニコラウス・アルノンクールが、かつて『音楽はその土地の言葉で、何かを語っています。』とレクチャーしていますが、クレスパンは出身国のフランスものだけではなくイタリア、ドイツ系のオペラも歌っていましたが、ドイツ語の〝note〟も素晴らしく、ドイツ人よりも上手かったそうです。クレスパンは、大劇場のステージから客席の隅々まで圧倒的な声を届けることができた一方、本盤で聴くのはサロン・コンサートのような親密さです。客と視線を交わし、その感動の表情に満足しながら、香水とお酒の香りが仄かに交じり合うフロアを艶めかしい声で満たしていく。デュパルクとフォーレのメロディー〜フランス歌曲の名演で、素直な表現に気品がある。→コンディション、詳細を確認する
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モーリス・ラヴェルはフランスの音楽誌『ラ・ルーブ・ミュジカール(La Revue musicale)』に『ガブリエル・フォーレの歌曲』(1920年10月)を寄稿。
どの作曲家も多かれ少なかれ、グノーの恩恵を受けていると提起。いうの中で、さらに17、18世紀フランスのクラブサン音楽の「ハーモニーの神秘」を再発見したのもグノー(1818〜1893年)である、とします。グノーのあとそれを引き継いだのが、ガブリエル・フォーレとエマニュエル・シャブリエ(1841〜1941年)であり、さらにはジョルジュ・ビゼー、エドゥアール・ラロ、ジュール・マスネ、そしてクロード・ドビュッシーとつづいていく。ラヴェルによれば、
フランスにおける歌曲の真の創始者はシャルル・グノーである。このフランス近代音楽に対するラヴェルの見解から遡ること数年、第一次世界大戦中、ラヴェルはパイロットとして志願したが、年齢とその虚弱体質からその希望は叶わず、1915年3月にトラック輸送兵として兵籍登録された。ラヴェルの任務は砲弾の下をかいくぐって資材を輸送するような危険なものだった。その大戦中に、最愛の母親が世を去る。生涯最大の悲しみに直面したラヴェルの創作意欲は極度に衰え、1914年までに作曲が進んでいた組曲『クープランの墓』を1917年11月完成させた以外は、3年間にわたって実質的な新曲を生み出せず、1920年の『ラ・ヴァルス』以降も創作ペースは年1曲程度と極端に落ちてしまった。母の死から3年経とうとした1919年末にラヴェルがイダ・ゴデブスカに宛てた手紙には、「日ごとに絶望が深くなっていく」と、痛切な心情が綴られている。1918年11月におよそ4年半続いた、第一次世界大戦が終結。1920年1月、ラヴェルはレジオンドヌール勲章叙勲者にノミネートされたが、これを拒否したために物議を醸し、結果的に4月に公教育大臣と大統領によってラヴェルへの叙勲は撤回された。この後、さかんに演奏旅行を行う一方、ラヴェルの創作活動は低調になり、1923年には『ヴァイオリン・ソナタ』のスケッチしか残せていない。『ガブリエル・フォーレの歌曲』を書いた、1920年代のフランスでは、エリック・サティを盟主とする「フランス6人組」の登場や、複調・無調・アメリカのジャズなど、新しい音楽のイディオムの広まりによって、ラヴェルの音楽は時代の最先端ではなくなった。1928年、ラヴェルは初めてアメリカに渡り、4ヶ月に及ぶ演奏旅行を行った。ラヴェルは黒人霊歌やジャズ、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受け、『ヴァイオリン・ソナタ』『左手のためのピアノ協奏曲』『ピアノ協奏曲 ト長調』などにはジャズの語法の影響も見られる。
ラヴェルはドビュッシーと共に印象派(印象主義)の作曲家に分類されることが多い。しかし、ドビュッシーとは一線を画すと同時にラヴェル本人も印象派か否かという問題は意に介さなかった。ラヴェルの作品はより強く古典的な曲形式に立脚しており、ラヴェル自身はモーツァルト及びフランソワ・クープランからはるかに強く影響を受けていると主張した。また彼はシャブリエ、サティの影響を自ら挙げており、「エドヴァルド・グリーグの影響を受けてない音符を書いたことがありません」とも述べている。わたしたちは、フォーレのワグネリアンであった側面を伝える「バイロイトの思い出」(1888年)を知っている。戦争の時代、20世紀を象徴するピアニストをひとり選べといわれたら、アルフレッド・コルトー(1877~1962年)を第一に推す人が多いのではないだろうか。コルトーの直接の指導を受けた門下生では、ディヌ・リパッティ、クララ・ハスキル、遠山慶子、エリック・ハイドシェックなどが有名である。それぞれが非常に強い個性を持っていることから、コルトーの指導方針として、おのおののピアニストの個性を重視する指導法があったようである。エコールノルマルのマスタークラスでは、コルトーの指導は「まるで詩人の朗読のようであった」くらい、多くの語彙に富んでいたといわれる。これは、ほとんど言葉に頼らず簡潔に指示を出すマルグリット・ロンの公開講座とは正反対の態度でもある。フォーレが36歳の時に作曲した「バラード」を演奏する時のピアニストの心得として、コルトーは次のように述べた。
いかなる場合にも、「バラード」に何らかのイデオロギーを押し付けてはならない。とはいえこの作品全体は、リヒャルト・ワーグナーにあの〈森のささやき〉(楽劇「ジークフリート」第2幕)を書き取らせた〝自然〟に類似したものから霊感を得ていると言われており、フォーレ自身もそれを認めている。これは、とりたてて鳥たちの歌が行き交うフィナーレに指摘している。フォーレは、リスト、ベルリオーズ、ブラームスらが成熟期の作品を生み出していたころに青年期を過ごし、古典的調性が崩壊し、多調、無調の作品が数多く書かれ、微分音、十二音技法などが試みられていた頃に晩年を迎えている。こうした流れのなかでフォーレは、歌劇『ペネロープ』でライトモティーフを採用するなど一定の影響を受けつつも、ドビュッシーのようにその影響を拒否するのでなく、形式面では、サン=サーンスの古典主義にとどまることはしなかったが、旋律や調性から離れることはなかった。音階においては、旋法性やドビュッシーが打ち立てた全音音階を取り入れ、頻繁な転調のなかに、ときとして無調的な響きも挿入されるが、折衷的な様相を見せる。1900年に発表した、ハープの分散和音にフルート独奏が乗る「シシリエンヌ」は余りにも有名だが、微妙な内声の変化のうえに、調性的・旋法的で簡素な、にもかかわらず流麗なメロディをつけ歌わせるというのが、フォーレの音楽の特色となっている。フォーレは晩年、耳の病に冒されました。ベートーヴェンのように、完全に耳の機能を喪ったのではなく、音階が狂って聴こえるという、疾患でした。これは、美しいハーモニーが、雑音以下にしか聴こえないというわけですから、壮大な規模と深い精神性を湛えつつ、もはや華やかさとは無縁の、単純化された音型で、扱う音域も狭くなり、半音階的な動きが支配的で、調性感はより希薄になっていく抽象的なものになったからでしょう。
また、ラヴェルはワーグナーの楽曲に代表されるような宗教的テーマを表現することを好まなかったが、「作曲家は創作に際して個人と国民意識、つまり民族性の両方を意識する必要がある」と言う考え方だった。若き日のアルフレッド・コルトーにとってヒーローは、ドイツの音楽家、反ユダヤ主義で知られるワーグナー(1813~1883年)だった。それらを含んで、話しは進む。第一次世界大戦後のフランスは、ナショナリズムの影響下で自国音楽の普及につとめていた時期でした。ラヴェルは、フォーレの音楽的特徴について、次のように書いています。
サン=サーンス(1835〜1921年)の元で学んだフォーレは、師が重視する形式に対する尊重より、グノー風の色彩の方に惹きつけられたようだ。フォーレの歌には、サン=サーンスが生み出した真に新しいテクニック、ごく短い曲にも見られるような構造の追求といったものはほとんど見られない。フォーレの作品では、構造が熟考されることはなく、もっと自然発生的である。それにより柔軟性を生んでいる。ラヴェルは「フォーレの個性は初期の作品によりはっきりと現れている」と書き、歌曲《夢のあとで Après Un Rêve Op.7-1》(本盤2面4曲目)が非常に若いときに書かれたことに驚いています。1865年、フォーレ20歳のときの作品です。《夢のあとで》の詩は、19世紀フランスの詩人ロマン・ビュシーヌによるもの。トスカーナ地方の古い歌を元に、ビュシーヌが作品化したとも言われています。ビュシーヌはパリ音楽院声楽科の教授で、フォーレとは同僚でした。フォーレはこの歌以外にもビュシーヌの詩に曲をつけています。《秘密 Le Secret Op.23-3》(本盤2面2曲目)はフランスの作家、アルマン・シルヴェストル(1837〜1901年)の詩による歌です。
『秘密』はフォーレの歌曲の中でも最も美しい「リート」の一つである。この曲では、魅力あふれるメロディーラインと繊細なハーモニーがうまくマッチしている。曖昧模糊とした、耳にしたことのない和声の解決(協和音への移行)、遠隔調(遠い調性)への転調、予測のつかない道筋による主音への回帰。これらはフォーレが巧みな技量で、ごく初期からつかってきた危険なテクニックの一つである。シャブリエもこれに似たテクニックをつかっているが、フォーレ、シャブリエどちらにも、それぞれの手法がある。シャブリエはよりくっきりと直接的な形で、フォーレは控えめに品良く。シャブリエがその効果を強調してみせるのに対し、フォーレは尖ったところを削り、さらにその先をいく。
ラヴェルはなぜ、この曲に対して、括弧付きで「リート」という言葉をつかったのでしょう。ドイツ歌曲に匹敵する、ということを強調する意図なのか。歌曲の夕べで歌われるドイツ歌曲は、全て「リート」と呼ばれていても、そのリートの音楽的構造は、当然ながら詩節という構造に規定される。19世紀の音楽辞典の定義では
リートとは歌うに適した数小節からなる抒情詩に、その詩節ごとに反復するメロディを付けたもののことをいう。またリートは、健全ではあるが柔軟性をいささか欠く声帯の持ち主が、それを無理な訓練にさらすこともなく歌うことができるという特性を有する。とハインリヒ・クリストフ・コッホ(1802年)がしている。この「詩と音楽が結びついた重要な芸術作品」をシリングとナウエンブルクはとくに強調し、詩と音楽の両者は、他のどんな声楽曲形式にも見られぬほど互いに深く結合されており、かつこの声楽曲形式からリートという純粋な形式が、いわば必然に生れ出ているからである」と述べている。フランツ・シューベルトは約300曲のリートを出版しており、フェリックス・メンデルスゾーンのほとんどのリート、さらにローベルト・シューマンは「ミルテの花 Op.25」を世に出し、30年の間にリートは多様化を遂げた。芸術リートにおいて、ベートーヴェンは連作歌曲集「遥かなる恋人に」で詩、音楽両面からの共通性を見出す試みをしている。6曲をピアノで結び、1曲ごとに新しい調へ転調していく。終結部で冒頭の音楽が再現され、それによって、円環が生じるリーダークライスである。シューマンの「女の愛と生涯」でも、調の配置は計画的である。冒頭曲「あの方にお会いして以来」が全体の終結として、言葉のないエピローグのようにピアノによって再び演奏される。その純音楽的なプロローグとエピローグの間に、思い出の中の人生がつまっている。そして始めの曲との円環、循環を持つのである。ベートーヴェンの連作歌曲集との相違はその叙事詩的要素にあり、全体をまとめる筋立てがあることである。
フォーレの歌の澄んだ優雅さが、モーツァルトの最も美しいアリアを思い起こさせるとするなら、その叙情性はシューマンのリートに匹敵するだろう。こう表現したラヴェルはフォーレの歌曲を高く評価していました。初期の作品には、明確な調性と拍節感のもとで、清新な旋律線が際だっている。旋律を歌わせる際にはユニゾン、伴奏形には装飾的かつ流動的なアルペジオが多用される。ユニゾンとアルペジオは、フォーレの生涯にわたって特徴的に見られる。フォーレの歌曲に詩を提供している詩人や作家として、先にあげたビュシーヌやシルヴェストル以外に、ポール・ヴェルレーヌ(1844〜1896年)、ヴィクトル・ユーゴー(1802〜1885年)などがいます。ラヴェルは『ガブリエル・フォーレの歌曲』の中で、ヴェルレーヌの《月の光 Clair de Lune Op.46-2》(本盤2面5曲目)について次のように書いています。
多くの音楽家たちがヴェルレーヌの素晴らしい詩に魅了されてきた。その中でフォーレはただ一人、それを音楽に変える方法を知っていた。この名曲は、努力の必要などなく、溢れるひらめきに導かれて書かれたように見える。詩が差し出すさまざまなイメージを無視し、メロディーは「そして噴水の水を恍惚の嘆きにみちびく」の1行のみに誘発されて生まれている。(詩の中に登場する)仮装したリュート弾きや踊り手に乱されることなく歌は流れ、その穏やかな流れの連なりは見事だ。こうした伴奏の装飾は、コルトーがワーグナーを引き合いに出した、「バラード」は〝自然〟に類似したものから霊感を得ていると指摘したことに繋がる。その作品形態は当時の流行を追わず、音階においては、旋法性やドビュッシーが打ち立てた全音音階を取り入れているが、これらに支配されたり、基づくことはなかった。フォーレが優しく、うぬぼれのない人物であったことはマドレーヌ・ ゴスによるラヴェルの評伝の中の『フォーレ:ラヴェルへの影響』の章でも語られています。フォーレは1896年よりマスネの後任としてパリ国立高等音楽院で作曲科の教授を務め、その門弟にはモーリス・ラヴェル、ジャン・ロジェ=デュカス、ジョルジェ・エネスクらがいる。ラヴェルは1898年からフォーレのクラスで学びはじめます。フーガの試験に2度失敗したラヴェルは、1900年にクラスから除名されますが、その後の3年間、聴講生として授業を受けることをフォーレから許されたといいます。ラヴェル自身、フォーレの歌曲について、その人柄と絡めて「個人的な発露や情熱の表出において控えめ」「最もつつましい心の故郷への接近」「静かで出しゃばらず」「穏やかで微妙な表情やふるまいのため、あきさせることがない」「思慮深さが強みになっている」などの言葉で賞賛しています。
- Record Karte
- ジョン・ウストマン、1966年録音。ジャニーヌ・レイス、1972年録音。Sound Designer – Paul Vavasseur
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