34-24891

商品番号 34-24891

通販レコード→FR "LARGE DOG IN SEMI-CIRCLE" WITH BLACK LETTERING 21B/21盤

ミュンシュ畢生の名演。 ― はち切れんばかりのスケール、破格の熱量。シャルル・ミュンシュ(1891年9月26日〜1968年11月6日)の死の年に録音された本盤も、パリ管弦楽団との〝幻想交響曲〟と並ぶ名盤のひとつ。レコーディングは当時EMIでオーケストラ録音に常時使用していたサル・ワグラムで行われ、録音を手掛けたのは名プロデューサーとして知られているルネ・シャルランと名エンジニア、ポール・ヴァヴァッスールのコンビです。ホールに分厚く渦巻く演奏の熱気が余すところなく捉えられています。作品のもつ構造性とドラマティックな要素を充分に把握した、音楽的スケールの大きなブラームス。漲る覇気と情熱に満ち、特に終楽章の高揚感と壮麗な表現が感動を呼ぶ作品。数ある名盤の中でも超一級の名盤ですが、この〝ブラームスの第1交響曲〟を超えるもしくは、これに匹敵する名演があるのか。ミュンシュは音楽が持っているストーリー性を、物語の様な視点で語りかけてくる。それが度を越すケースが多いのだけど、熱を持って表現する。〝ベルリオーズの幻想交響曲〟と〝ブラームスの第1交響曲〟でのミュンシュがドライヴするパリ・コンセルヴァトアールの燃焼ぶりは永遠に色褪せることがない。〝幻想交響曲〟に続き翌1968年1月に録音されたミュンシュ最後の録音の中の一枚となってしまいましたが、この交響曲でも、ミュンシュ&パリ管の熱い息吹は止むことがありませんでした。ミュンシュの情熱が音として表れていて力強く、情熱に満ちたヴィルヘルム・フルトヴェングラーを彷彿とさせる白熱した内容でオールドファンからの支持が高い。日本盤発売の告知は話題となり、当時から絶賛を浴びた、未だにこの曲のベスト・ワンとされている。多くの評論家により人気投票される ― レコード芸術誌で7~8年に一度実施されている『名曲名盤』において3度も1位に輝いた。ADFディスク大賞受賞。→コンディション、詳細を確認する
  • Record Karte
  • 1968年1月8日、12日パリ、サル・ワグラムでの録音。録音を手掛けたのは名プロデューサーとして知られているルネ・シャルランと名エンジニア、ポール・ヴァヴァッスールのコンビです。ADFディスク大賞受賞。
  • FR VSM CVB2085 ミュンシュ ブラームス・交響曲1番
  • FR VSM CVB2085 ミュンシュ ブラームス・交響曲1番
ブラームス:交響曲第1番(クラシック・マスターズ)
シャルル・ミュンシュ
ワーナーミュージック・ジャパン
2014-06-18

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ミュンシュは、多少コスモポリタン的な傾きはあるが、全く現代的で、緊迫度が高く簡潔緻密だ。特に、ほど良く淡白な叙情性と人生の秋をしのばせる曲趣の調和が目立つ。尻上がりに油が乗ってくる。ワルターとは逆の手法で成功したものといえよう。 ― 盤鬼・西条卓夫
シャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891〜1968)のキャリアはヴァイオリニストからスタートしていますが、若かりし頃、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターに就任、その時の楽長がヴィルヘルム・フルトヴェングラーだった。毎日その巨匠の目の前に座って多くのことを習得したことから、知らずと例の拍子を暈す内容重視の指揮法はフルトヴェングラーの指揮姿から身につけたものと推察出来ます。ミュンシュは音楽が持っているのストーリー性を、物語の様な視点で語りかけてくる。それが度を越すケースが多いのだけど、熱を持って表現する。ゲヴァントハウスではドイツ語でカール・ミュンヒ(Carl Münch)と呼ばれていた。生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送った彼は、両国の音楽を共に得意とした。ベルリオーズの「幻想交響曲」とブラームスの「第1交響曲」でのミュンシュがドライヴするパリ・コンセバトワールの燃焼ぶりは永遠に色褪せることがない。ミュンシュは当時ドイツ領だったストラスブルク出身であることから、歴としたドイツ人であるが故にブラームスなどのドイツものまで得意としていたのは当然、彼の演奏で聞いても見たかったがヨハン・ゼバスティアン・バッハも熱愛していた。1929年にパリで指揮者としてデビュー、1937年にパリ音楽院管弦楽団の指揮者となって、1946年まで在任した。そのフランス音楽の守護神のようなミュンシュが、アメリカのボストン交響楽団の音楽監督に迎えられた。1946年のアメリカ・デビューから3年後のことだ。1962年まで、その地位にあり、戦後のボストン交響楽団の黄金時代を築いたのは周知のとおりだ。ピエール・モントゥーは1919~1924年にボストン響の常任指揮者を務めたが、後任となったセルゲイ・クーセヴィツキーは在任中、モントゥーを客演に招こうとしなかった。モントゥーの伝記によれば、オーケストラ側から、退任後も翌シーズンから客演に呼びたいと言われていたが、全く実行されなかったとぼやいている。その約束が果たされたのは27年後の1951年、クーセヴィツキーの後を継いだミュンシュ時代になってからであった。ミュンシュはモントゥーと懇意で、ミュンシュが1962年に常任を離れるまで、モントゥーは頻繁に同響の指揮台に立った。戦後アメリカの旗印は〈自由の国〉だったが、ミュンシュが生涯にわたって、願って止まなかったのも、この〈自由〉。ミュンシュが指揮するラヴェルの「ボレロ」は、作曲者のイン・テンポの指示を守らずに、どんどんアチェレランドして行くことで有名だ。が、ミュンシュがやりたいようにやっている自然さが別の魅力を生んで、忘れ難い名演となっている。ミュンシュが自身の音楽を大きく花開かせたのは、この頃からだ。ミュンシュは戦前には、必ずしも強烈な個性や豊かな音楽を持った指揮者ではなかったと思うが、ミュンシュとボストン響との相性の良さは、戦後アメリカで重要なポストに就いた指揮者のなかでも、最良の成果を双方にもたらした。ミュンシュの代表盤の大半が、このオーケストラとのものとなっている。ミュンシュは常任指揮者に就くとともに、このオーケストラと専属契約関係にあったアメリカRCA社に録音を開始、主要作品を網羅したベルリオーズに始まり、ラヴェル、ドビュッシーなどのフランス音楽のほか、ドイツ音楽など多彩な内容のアルバムを数多く制作。それらの多くは、優れた音響を持つボストン・シンフォニー・ホ-ルで行われ、ほぼ全てを〝RCAリビング・ステレオ〟の礎を築いたリチャード・モーア、ルイス・レイトンのコンビが手がけた。
遥か昔から、アルザス地方はドイツとフランスが領有権を奪い合ってきました。ライン川中流の西岸で、その北のロレーヌ地方とともに、葡萄、小麦などの豊かな農作物、鉄・石炭の産地であり、フランスとドイツの1000年にわたる争奪戦が繰り広げられた。人種的にはドイツ系住民が多いが、文化的にはフランス文化の影響の強い地域といわれる。アルザス=ロレーヌはフランス革命・ナポレオン時代を通してフランス領として続き、ウィーン会議でもかろうじてフランスは領有を維持したが、普仏戦争に敗れ、1871年、両地方の大部分をドイツ帝国に割譲した。19世紀後半のフランスの作家アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet, 1840.5.13〜1897.12.17)の「最後の授業」(La Dernière Classe)は、この普仏戦争でアルザス地方がドイツ領に編入されたときのことを題材にしている。明日からはドイツ語で授業をしなければならないという最後の日、フランス語の先生は子供たちにフランス語は世界で一番美し言葉だと教え、忘れないようにと説く。そして最後に黒板に大きく「Vive la France ― フランス万歳!」と書く、という話で、かつては日本の教科書にもよく見られたが、実は、アルザス地方で話されていた言葉はフランス語ではなく、もともとドイツ語の方言であるアルザス語です。〝シャルル・ミュンシュ〟が生まれた1891年当時にはドイツ帝国領で、〈ドイツ人〉として生まれ、ドイツ人として音楽教育を受けている。第二次世界大戦中アルザスの若者達はドイツ軍に強制編入されました。ドイツとしてはアルザス人はフランス語を話すので、激戦区だった東部戦線の最先端に送られ、戦後何年もシベリアに抑留されました。まるで捨て駒のような扱いでしたが、17、18歳の若者が参加したのは、ドイツ軍に加わらなかった場合は、非国民として家族も収容所へ送られたからです。第二次世界大戦終結し、アルザスはドイツから解放され再びフランスに戻ります。しかし、フランスの他の地域に比べて倍以上の犠牲を出したにも関わらず、占領されていた歴史の結果として約4万5千人のアルザス人が対独協力容疑で収容されました。建築物や食生活などに見るアルザスの独特な生活文化は、この地方の文化の二重性がもたらした貴重な財産であると同時に、歴史的困難をもたらした要因でもあったわけです。ミュンシュが熱心に取り上げるフランスの作曲家にアルテュール・オネゲル(Arthur Honegger, 1892.3.10〜1955.11.27)がいるが、戦争や人種対立などを憂い、危機意識をもって苦悩するオネゲルへの深い共感が底流にあるのもそのためだ。ミュンシュはモーリス・ラヴェルの「ボレロ」を4回スタジオ録音している。第1回目は1948年のパリ音楽院管弦楽団との録音。この演奏は、イン・テンポを守っている。むしろしばしば言い聞かせるように確認しながらの音楽の運びが興味深い。そしてどこかしら退屈そうだ。この演奏を聴いていると、その後のボストン交響楽団との演奏が、どれほど自由で開放的かに思いが至る。オネゲルの「交響曲第5番」は、1951年3月9日に、ミュンシュ指揮、ボストン響により初演され、そのまま録音が行われた。ミュンシュの繊細でいながら力強い前向きの演奏が、オネゲルの思いの深さと呼応した名演だ。『生涯の終わりごろ、ブラームスが目も眩むほどの速さでヴァイオリン協奏曲を振りはじめた。そこでフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875.2.2〜1962.1.29)が中途でやめて抗議すると、ブラームスは「仕方がないじゃないか、きみ、今日は私の脈拍が、昔より速く打っているのだ!」と言った。』そんな興味深いエピソードを、ミュンシュはその著書「指揮者という仕事(I Am a Conductor)」(福田達夫訳 春秋社)の中で紹介していますが、今ここで音楽を創造しながら、「ああ生きていて良かった!」という切実な思い、光彩陸離たる生命の輝き、そして己の殻をぶち破って、どこかここではない彼方へ飛びだそうとする〝命懸けの豪胆さ〟が私たちの心をひしひしと打つのです。
ミュンシュが、その最晩年に持てるエネルギーの全てを注いだのがパリ管弦楽団(Orchestre de Paris)の創設と育成でした。1967年6月、フランス文化相アンドレ・マルローと文化省で音楽部門を担っていたマルセル・ランドスキのイニシアチブにより、139年の歴史を誇りながらも存亡の危機を迎えていた名門パリ音楽院管弦楽団(Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire)の発展的解消が行われ、新たに国家の威信をかけて創設されたのがパリ管弦楽団で、その初代音楽監督に任命されたのが〝フランスの名指揮者〟としてのシャルル・ミュンシュでした。第2次世界大戦前にパリ音楽院管弦楽団の常任指揮者を務めていたミュンシュ以上にこの新たなオーケストラを率いるのにふさわしい指揮者はおらず、同年10月2日からの綿密なリハーサルを重ねてむかえた11月14日の第1回演奏会は、国内外に新しいフランスのオーケストラの誕生をアピールする大成功を収めたのでした。翌1968年11月、パリ管弦楽団の北米ツアーに同行中にリッチモンドで心臓発作のため急逝するまで、ミュンシュは30回ほどの共演を重ねながら、EMIにLPレコード4枚分の録音を残しました。その中の1枚がこの〝ベルリオーズの幻想交響曲〟で、11月14日の第1回演奏会でも取り上げる作品となり、EMIはそれに先だって4日間のセッションを組み、巨匠の叱咤激励のもと覇気に燃える新生オーケストラの息吹を捉えたのです。仲間と音楽を作りたい。そう思ったのかどうか、若い時にオーケストラは組織し、自己流で指揮法を編み出した男の情熱の行き着いた終結点。パリの巨大キャバレーのようなサル・ワグラム・ホール。だだっ広いスペースを音楽で充満させられたのはミュンシュの熱意か。指揮者ミュンシュは、この交響曲でありながら標題音楽でもある〝幻想〟のもつストーリー性を小説家の様な視点で語りかけてくる。ロマンティックな曲想は、ベルリオーズの実体験にもとづいたストーリーあってのものだということを熱を持って表現する。ミュンシュがドライヴするパリ管の燃焼ぶりは、30年以上経った今でも色褪せることがない。
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