34-21803

商品番号 34-21803

通販レコード→仏ゴールド・ホワイト・エンジェル盤

歴史的な教会に鳴り響く敬虔の響き ― アンドレ・クリュイタンス最高の名盤。フォーレのレクイエムには次から次へと名演奏というに値するレコードが出てくるが、それでもこの録音に残されたパリ音楽院管弦楽団の古の響き ― クリュイタンス盤を凌駕するような素晴らしい演奏にはぶつからないように思われる。全体を貫く敬虔な祈りと抒情の精神は、この曲の本質に最も近いところにあるのではないだろうか。このフォーレの「レクイエム」は、フランス国立放送管弦楽団と1950年10月に録音したモノラル盤に続く、クリュイタンスにとって2度目の録音となったもの。1962年に録音された本盤の〝フォーレの「レクイエム」〟は、クリュイタンスの一連の録音の中でも、昨日の「カルメン&アルルの女」と並んで、最も評価の高いアルバムであり、1963年に発売されて以来、カタログから一度消えたことのない定盤として聴き継がれている名演です。ガブリエル・フォーレの音楽は、人を無垢な状態にしてくれる。日常の衣を脱ぎ捨て、素のままの自分と向き合う大切さを促す。だから私はストレスが溜まると、その音楽に身を委ねたくなる。特にフォーレ好きの日本の音楽ファンにとっては、ERATOのミシェル・コルボ盤(1972年録音)と並んで、「レクイエム」の最高の名盤と位置付けられています。詩情に彩られた美しい音楽を書いたことで知られるフォーレの音楽は、洗練された感性と神秘的な陶酔感に満ち、心が洗われるような不思議な感覚を抱かせる。42歳の時に書かれた《レクイエム》は、そんなフォーレの魂が結晶した傑作で、気高く清純な美しさを誇っている。1950年盤もフォーレの慎み深い作品の魅力を引き出した名演として知られていますが、この1962年盤は旧盤よりもさらにフランスあるいはラテン的な意識を超えて、スケールの大きな深みのある演奏で、そこに込められた敬虔な感情の高まりは他に類をみないほどです。ここではすべてが自在に振る舞われているようでいて、つくりものめいた要素は一切ない。しかも、必要なものはことごとくきちんと踏まえられている。ドラマティックとはいえないまでも、誇張がなくて抒情的であり、清潔感を漂わせている。2人のソリストも豪華で、「ピエ・イエズ」でのヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスの清純さ、全盛期の輝きを示すディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウの完璧無類な歌唱、いずれも歴史的な名盤に相応しい彩りを添えています。日本とは縁の深かったアンリエット・ピュイグ=ロジェが ― おそらく教会備え付けの ― オルガンを担当しているのもオールド・ファンには懐かしいことでしょう。永遠に受け継がれるレジェンダリー・パフォーマンス。
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ガブリエル・フォーレは1845年5月12日、カトリックの信仰の篤い南フランスのピレネー地方の小さな町パミエに、6人兄弟の末っ子として生まれた。師範学校の校長をしていた父は息子に音楽的才能があることに気づき、9歳のフォーレをパリのニデルメイエールが開校した「古典と宗教の音楽学校」の寄宿舎へと送った。フォーレはこの学校で11年間学び、ニデルメイエールが亡くなった後はサン=サーンスに師事している。サン=サーンスがフォーレにシューマン、リスト、ワーグナーの音楽に触れる機会を与え、10歳違いの2人は師弟関係を越えて親しく交流し、それはサン=サーンスが亡くなるまで続いた。20歳で同校を卒業したフォーレは、まずレンヌの教会オルガニストとなり、4年後にはパリに戻ってサン=サーンスの紹介で様々な教会のオルガニストとして活躍する。1896年にはサン=サーンスがポストを務めていたことで知られるマドレーヌ教会の首席オルガニストに就任する栄誉に浴する。歴代の偉大な音楽家がオルガニストを務めているマドレーヌ教会は、定礎は1764年に築かれたが、革命をはじめとする様々な中断を経て、1842年にようやく完成を見た。その7年後の1849年には、ここでショパンの葬儀が行われ、モーツァルトの「レクイエム」が演奏されている。またパリ音楽院の作曲の教授にも迎えられた。作曲家としても宗教曲や歌曲、ピアノ曲、室内楽曲など広い分野に多くの作品を生み出していく。フォーレの代表作である「レクイエム」の初演が行われたのもマドレーヌ教会で、1888年1月16日に行われた。半月遡る、1887年12月31日、フォーレの母親が亡くなった。彼は母親の死をきっかけに、この「レクイエム」を書くことを思い立つ。そのことから、きわめて個人的な動機によるものだともいえます。このレクイエムには、付いてしかるべき死のイメージがごく薄いように思われる。言い方を変えれば、死を迎えるときの「最期の審判」とか「怒りの日」だとかいう、荒れ狂う光景が音楽から浮かばない。フランスの音楽評論家で、フォーレの弟子でもあったヴュイエルモーズは、このレクイエムを「他人の信仰に敬意を払う不信心者の作品」と評した。また、フィリップ・フォーレ=フルミエ(フォーレの実子)は、この作品の「多少とも異教徒的で快楽的な性格」についてあら捜しをするのは大層余計なことではないかともいっている。同様にブラームスや、ジョン・ラターも肉親の死を契機に、またヴェルディも音楽の大家であるロッシーニの死を悼んで、レクイエムを作曲している。委嘱を受けて作曲されたレクイエムといえばまず、モーツァルトのレクイエムが思い起こされますが、半ば個人的な感情に基づいて作曲されたといえるかもしれません。フォーレのレクイエムと似ているのは、モーリス・デュリュフレのレクイエムであろう。フォーレは嘆きや慟哭の表情を前面には出さず、あくまでも魂の安息を願う静謐で禁欲的な音楽を目指した。けっして派手な作品ではないが、明晰で清澄、また深い詩情と陶酔感と敬虔な美しさをたたえ、聴き手にある種の連帯感をもたらす。その場で同じ作品を聞いた人々の心が自然と通い合い、お互いの痛みを分かち合うことができる、そんな感情を呼び覚ます作品である。この曲をはじめ、フォーレの歌にはフランス特有のエレガンスが息づいている。歌曲「夢のあとに」は、名チェリストのパブロ・カザルスがチェロ用に編曲したことによって広く愛奏されるようになり、現在ではヴァイオリンでもよく演奏される。
英EMIのパリでのオーケストラ録音がよく行なわれていた音響の良い体育館、サル・ワグラムではなく、パリ1区・チュイリュリー公園の北に、1754年に完成した歴史的な聖ロック教会が録音会場に選ばれたことで、響きの豊かさと奥行き感が増すとともに、フォーレのオーケストレーションの精妙さや合唱声部のハーモニーの美しさが教会の残響に埋もれずに収録された名録音に仕上がっています。残響の非常に多い教会の空間において、豊かな残響を生かしているところもあって、その表情はファンタスティックであるとともに、たっぷりしたテンポでロマンティックに歌われるこのフォーレのレクイエムは、宗教的な「レクイエム」の世界を超えたものになっている。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの演奏だと偽って発売されても信じる人がいるかもしれない。透き通るような美しさを持つこの演奏は、死者を悼むというより天国への憧憬に満ち溢れた、心の最も深いところからの感動による、ということができよう。それほどスケールの大きい、ミスティックな雰囲気を湛えた〝非ラテン的〟な演奏である。アンドレ・クリュイタンスは、出身こそベルギーのアントワープですが、フランスでの広範な演奏活動と録音を通じて、20世紀を代表するフランス音楽の解釈者として知られる名指揮者です。第2次大戦直後、シャルル・ミュンシュとともにフランス音楽界の復興に尽力し、パリ・オペラ座の指揮者、パリ・オペラ・コミック座の音楽監督、そして1949年にはボストン交響楽団に移ったミュンシュの後任としてパリ音楽院管弦楽団の首席指揮者に就任し、その上品で洗練された粋の塊のような演奏でフランス音楽の魅力を世界中に伝えました。日本の音楽ファンにとっては、特に1964年4月~5月にかけて行われたパリ音楽院管との来日公演が衝撃的で、この時初めてフランス音楽の神髄と粋に接したのでした。クリュイタンスは、戦後フランスEMI(パテ)にオペラ全曲盤を中心に録音を開始した。何といっても手兵のパリ音楽院管と録音した一連のステレオ録音は、1828年に創設されたこの伝統のオーケストラの美しく古雅な響きを記録した貴重なものです。鮮やかな色彩感の表出と、エレガントな棒さばきが端正で、第一級のパステル画を見るような趣が感じられる。1967年、クリュイタンスの予期せぬ死によって、パリ音楽院管も解散されるが、かつて存在したパリ音楽院管弦楽団は、サウンドからアンサンブルまで色彩が豊かでニュアンスもあり、まさにフランス的なシックでエレガントな演奏を聴かせていた。フランス国立放送管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、フィルハーモニア管弦楽団とも広範なレパートリーで録音を残しましたが、当時のフランス音楽界はクリュイタンス一人が背負っていたといってもよいかもしれない。
1950〜60年代のパリ音楽院管弦楽団(Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire)、シャンゼリゼ劇場管弦楽団、パリ・オペラ座管弦楽団、フランス放送(ORTF=Office de Radiodiffusion Télévision Française)交響楽団、そしてラムルー管弦楽団、コンセール・コロンヌといった当時のパリで持て囃されていたオーケストラ録音を聴くと、指揮者もオーケストラも、そして録音も個性的ではっちゃけていた。ステレオ録音の初期は、こうした嫌に元気な元気な録音でいっぱいである。アンサンブルが崩れようが、どこかのパートが落ちようが、ポンコツのまま構わず楽しそうに進む。ジュネーヴのヴィクトリアホールの美しい響きとデッカ録音の妙と、数学者でもあった指揮者の分析的な解釈として、精密さを印象づけていたエルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団も、独創的でありながらの精緻な音楽だった。それも、ステレオ録音のレコードで国際的に聴かれるようになっていくとともに独創的な録音も影を潜めはじめる。そうして1960年代後半、パリ音楽院管の終焉とともに新録音は完全にストップする。1990年代に佐渡裕がラムルー管を牽引するまで、健在ぶりさえ気にしなくなっていた。その代わりに、1970年代に地方に新設されたオーケストラが一躍脚光を浴びる。1970年代のフランス音楽界は、アンドレ・マルローとマルセル・ランドフスキのかいあって、「地方の時代」といわれたが、その柱には、フランス近代以降の音楽の発展を受け継ぎながら、極端に走らず、無調音楽を展開しようとした。それは、調性的な発想から出ており、伝統的でわかりやすい表現を良しとした独自の音楽語法で、教条的なセリー技法には、つねに異を唱えていた。それ故に前衛音楽に距離をとったことや世俗的・社会的な成功から、ピエール・ブーレーズとその ― 識者も含む支持者から攻撃されており、なんだかんだで、良くも悪くも、紛れもない都の息吹があった。ジャン=クロード・カサドシュ(1927年7月17日〜1972年1月20日)率いる北のリール、ミシェル・プラッソン(1933年10月2日〜)率いる南のトゥールーズ、そしてアラン・ロンバール率いる東のストラスブール。それぞれ独自のカラーを出しながらも、何かしら猥雑なエネルギーを放出していた。そう、当の都では忘れ去られた息吹が1970年代には地方に移ったのである。オーケストラ文化が伝播したかのように、懐かしいエネルギーが地方で息づいていたのである。それも昨今ではマルク・アルブレヒト指揮のストラスブール・フィルがリヒャルト・シュトラウスやベルク、フランス近代物などをリリースした録音を聴いて、その演奏はロンバール時代の勢いはそのまま、クオリティはかなり上がっているのに残念だった。もはや、パリだの地方だのいう時代でなくなってしまったことを実感した。
アンドレ・クリュイタンス(André Cluytens)は、1905年3月26日、ベルギーのアントワープ生まれ。父、祖父共に指揮者という家系であった。17歳の時、同地の王立歌劇場で補佐指揮者などをつとめ、22歳の時にビゼーの歌劇「真珠採り」で同劇場の指揮者としてデビュー。1949年にシャルル・ミュンシュの後任としてパリ音楽院管弦楽団の常任指揮者に就任し、1964年には同管弦楽団を率いて来日。その名演は今も語り草になっている程である。1967年6月3日にガンのためパリで死去。指揮者として最も脂ののった62歳という若さであった。クリュイタンスが1967年に僅か62歳で世を去ってから、既に50年の月日が経つ。彼の死は音楽から、ある掛け替えのない宝を奪い去った ― という時、私たちが郷愁にも似た気持ちをもって想い起こすのは、彼がフランス音楽の演奏において聴かせてくれた、文字通りにフランス的としか言いようのない洗練と瀟洒な美感だが、クリュイタンスの音楽は単にそうした感覚的な喜びや快感だけで受け取るには、あまりにも情け深いものだった。そこには、最上の感覚的な戯れと背中合わせに、透徹した知性と、一切の過剰や誇張を厳しく拒否する節度があった。それだけではない。伸びやかで自由な愉楽と同時に、磨きぬかれたメティエと職人芸の確かさがあった。オペラやバレエを指揮して生き生きとした劇場的な効果とムードを生み出すかと思えば、宗教劇や教会音楽の演奏には限りなく敬虔な祈りがあった。更に、彼はフランス音楽だけのスペシャリストではなく、ベートーヴェンの交響曲の指揮はドイツでも高い評価を受けていたし、バイロイトでワーグナーを指揮した初のフランス系指揮者でもあった。つまり、クリュイタンスの音楽は、ある一つの概念で規定しようとすれば確実にそれと正反対の概念が浮かんでくるような多元性があったのだが、しかも彼はそうした多元的な要素を生々しい抗争として提出することは決してなかった。すべては自然で自由な美として呼吸していた ― クリュイタンスは常に微笑んでいるというベルナール・ガヴォティの言葉のように、彼の遺したレコードは、その清らかな微笑みがいかに意味深いものであったかを、様々な形で啓示している。それらを改めて聴き返すたびごとに、私たちは、クリュイタンスの死によって失ったものの大きさを、そしてこの50年の間二度と再び見出すことの出来なかった美を、思い知らされるのである。
オーケストラと指揮者の相性は恋愛に似ている。スター指揮者に成ったからってオーケストラに受け入れられないと続かない。アンドレ・クリュイタンスのパートナー、パリ音楽院管弦楽団は今から200年前に「前衛音楽」であったベートーヴェンをフランスの聴衆に受け入れられる働きをした。作曲されたばかりのベートーヴェンの作品を創立から20年間の間に取り上げた演奏会は191回中183回に及ぶ。このコンビのあまりの素晴らしさに「日本のオーケストラがこのレベルになる日は永遠に来ないのではないか」とまでいわれたという。両者の相性は抜群で、このレコードを録音するために人生を成長してきたのではないかと思いたいほどです。両者の幸福な結婚は1967年のクリュイタンスの死去で、パリ音楽院管弦楽団が140年間の楽団の歴史を解散という形で幕を引いたことでも、よほど相性の良い恋愛関係だったのだなぁと素敵で羨ましく思えるのです。クリュイタンスはフランス人ではない。お隣のベルギーはアントワープに生まれ公用語のフランス語以外にドイツ語も学んだ事からドイツ的な素養も身に付けていた。その為か彼がそもそも名声を得たのは1955年にフランス系として初めてバイロイトに登場したという経緯からしてベートーヴェンやワーグナーだった。そのせいかアンサンブルに雑なフランス人の指揮者に比べこの人の演奏は合奏が実にしっかりしているし、非常に計算し尽くされた響きのバランスに驚かされてしまう。まずはこの辺が仏パテ社を唸らせ、数々の名盤を算出し、それらを普遍的なものにしている要因だと思う。もちろんフランス的な色彩感覚も抜群に素晴らしい。これほど色彩的な精緻さでクリュイタンスを越える演奏はちょっと他では見当たらない。なんでこんなに優雅で精緻で色彩感があるのだろう。陶酔感があるのだけど、つねに制御を失わず、熱狂的になっても理性を失わず、エレガント。しかも巧妙にドイツ系の曲目は、本場ドイツの名門ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を起用するケースが多かった。ベルリン・フィル初のベートーヴェン全集を録音を担う訳ですが、1957〜1960年、ベルリン、グリューネヴァルト教会におけるステレオ録音です。これなどはクリュイタンスが言いたいことを良くおしゃべりしているように聴こえます。夫婦仲に会話が大切と言われます。指揮者の中にはオーケストラの上に君臨する亭主関白がいて、それはそれなりに強く訴えかけてくるものがあるのですがクリュイタンスの演奏からは、そうした人為的なカリスマ性は見えてきません。どうにも言葉にするのが難しい個性と雰囲気を持っていて、独特の質感としかいいようがない何かを表現している。どれひとつとっても見落とすことの出来ない貴重盤輩出したクリュイタンスは凄い。この人のもつ深い教養と音楽への真摯な想いが、そのままオーケストラに伝わり何のケレン味もなく響きとして紡ぎだされる様を思えば、オーケストラと指揮者の間の、深い信頼関係がどれほど重要なものかを改めて感じさせてくれるような気もします。
ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス(ソプラノ)、ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)、エリザベート・ブラッスール合唱団、アンリエット・ピュイ・ロジェ(オルガン)、パリ音楽院管弦楽団、指揮:アンドレ・クリュイタンス。1962年2月14日、15日、5月25日&26日パリ、聖ロック教会での録音。[レコーディング・プロデューサー]ルネ・シャラン、ヴィクター・オロフ、[レコーディング・エンジニア]ポール・ヴァヴァッスール。[日本盤LP初出]ASC-5300(1963年9月発売)
FR VSM CAN107 クリュイタンス・パリ音楽院 フォーレ レ…
FR VSM CAN107 クリュイタンス・パリ音楽院 フォーレ レ…
フォーレ:レクイエム≪クラシック・マスターズ≫
アンドレ・クリュイタンス
ワーナーミュージック・ジャパン
2014-08-20