FR VSM C053-12018 レナード・ペナリオ 狂詩曲集
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FR VSM C053-12018 レナード・ペナリオ 狂詩曲集

商品番号 34-17052

ラフマニノフ本人以外でラフマニノフのピアノ協奏曲全曲と《パガニーニ狂詩曲》の録音を完成させた最初のピアニスト。 ― 本盤の主人公は、フィギュアスケートの定番曲として聴く機会が多いピアニストだ。2018年には没後10年を数えるが、1990年代に演奏活動・録音活動から引退していたレナード・ペナリオ(Leonard Pennario, 1924.7.9〜2008.6.27)によるラフマニノフの《ピアノ協奏曲 第2番》の録音は、ジョーン・フォンテイン主役の映画『旅愁』に利用されている。自作では、映画『影なき恐怖(Julie, 1956年)』の挿入音楽《真夜中の断崖 Midnight on the Cliffs》が知られている。エーリヒ・ラインスドルフやウラジミール・ゴルシュマン、小澤征爾、アンドレ・プレヴィンらとの共演で協奏曲の録音を残してきた。60枚以上のLPを遺しているが、そのほとんどがショパン以降の作品である。同時代の音楽では、ラフマニノフ、バルトーク、ガーシュウィン、プロコフィエフ、ロージャを得意とした。また、ゴットシャルクの擁護者としても知られていた。1958年では、ワルター・ギーゼキングと並んで最もレコードが売れるピアニストであった。また室内楽では一転して協調性を発揮し、他の独演者より控えめに振舞う傾向から、1960年代初頭にヤッシャ・ハイフェッツならびにグレゴール・ピアティゴルスキーに共演相手として好まれてピアノ三重奏団として演奏を行う。そのうちの一つは1962年にグラミー賞を獲得した。また、ミクローシュ・ロージャにピアノ協奏曲を書いて貰い、ズービン・メータ指揮ロサンジェルス・フィルハーモニックとの共演でその初演を行なった。本盤は、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」のみがレナード・ペナリオがピアノで加わっているフェリックス・スラトキン指揮ハリウッド・ボウル管弦楽団の録音。ラプソディといえば、「スウェーデン・ラプソディ」とフィギュアスケートで演技曲に使われる機会も多い「コーニッシュ・ラプソディ」もレナード・ペナリオはレコード発売しているので一緒に聴きたいところだが、リスト《ハンガリー狂詩曲第2番》をロバート・アーヴィング指揮ロンドン交響楽団、ドヴォルザーク《スラブ狂詩曲第3番》をラファエル・クーベリック指揮ロイヤル・フィル、エネスコ《ルーマニア狂詩曲第1番》をコンスタンティン・シルベストリ指揮ウィーン・フィル、シャブリエ《スペイン狂詩曲》をアンドレ・ヴァンデルノート指揮フィルハーモニア管弦楽団で選曲した古今東西硬軟聖俗、世界各国の狂詩曲を集めたレコード。演奏家も様々。様式に縛りにくい民族的感情の吐露を狂詩曲と銘打つが、如何なる国の人間も同じに熱い血潮が滾っていることを知る。ピアノもオーケストラも芳醇でまろやか、ハイテクニックを発揮した和音のクリアな響きと、どんなに難しいパッセージでも流れが淀まない抜群の安定感。持ち味としては、この淀みなく流れる音楽の内には内省的な深みを感じさせる。そんな懐の大きさがペナリオの音楽にはある。
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大ヒットしてブームを開いた『のだめカンタービレ』アニメ版及びテレビドラマ版のテーマ曲に使われた《ラプソディ・イン・ブルー(Rhapsody in Blue)》はアメリカの作曲家ジョージ・ガーシュウィンが作曲。この曲が作られることになった発端は、1924年1月3日、新年早々から他の仕事で多忙だったガーシュウィンが兄のアイラとビリヤード場に息抜きに行った際、手にとった新聞で「ホワイトマンがガーシュウィンに曲を発注した」という記事を見つけたことだった。見に覚えのないガーシュウィンは驚き翌日、抗議のためホワイトマンに電話をかけるも、実はこの記事はポール・ホワイトマン(Paul Whiteman)がガーシュウィンを呼びつけるために作った偽記事だったらしく、まんまと策にはまり「新聞記事になってしまったから作ってくれ」とホワイトマンに押し切られた。ガーシュウィンは、この曲を約2週間で一気に書き上げることになるが、作曲の期間が限定されている上に、当時のガーシュウィンはまだオーケストレーションに精通しているとはいえなかったという事情も加わり、代わって『大峡谷』で知られるファーディ・グローフェが編曲として手伝うことになる。まずガーシュウィンが2台のピアノを想定しながら作曲し、随時グローフェがオーケストラ用に譜面化をした。演奏の現場で完成された部分もある。劈頭クラリネットの低音からのグリッサンドで始まる。楽譜では17音の上昇音階でしかなかったが、ホワイトマン・バンドのクラリネット奏者がふざけてグリッサンドで演奏したところ、ガーシュウィンが気に入り書き改められたと伝えられる。一種のピアノ協奏曲風の雰囲気もあるピアノ独奏と管弦楽のための音楽作品だが、劈頭のグリッサンドをはじめとして好まれている曲風はジャズの要素を多く含んでいる。ピアノと小編成のジャズバンド向けの版が完成されたと共に、2台ピアノ版をガーシュウィンは2重録音の手法を使い、自らのピアノ演奏によってピアノロールに録音している。マイケル・ティルソン・トーマスが、このガーシュウィン自身の演奏の録音を使用して1976年にレコード発売したことで、ガーシュウィン自身のピアノ演奏は50年の時を超えて世界中に聴かれるものとなった。その後、グローフェはクラシックのピアノとオーケストラ用に編曲したり、ピアノがなくても演奏可能としたオーケストラだけで演奏できる編曲版もある。現代ではグローフェ稿を基本としつつ、フランク・キャンベル=ワトソンが改訂した1942年稿で演奏されるのが一般的だ。
エジソン発明による初期的録音機=蓄音器は、アメリカにおけるジャズの創造を促した。バルトークやコダーイは、この録音機を持ち運んで各地の言語や現地の音楽を記録して回り、自身らの新しい音楽のための『語法』を模索した。嘗てより採譜や引用でクラシック音楽史上の名曲に、当時の流行歌や地方民謡のメロディ、和声を見いだせる。バルトークの現代的な作曲「語法」の根底にあるのは、このエジソン発明による初期的録音機を駆使したヨーロッパ全域の民俗音楽の採集から得られた知見にある。その採譜と分析によってバルトークは単に東欧の一地方的な音楽表現に留まらず、世界的な規模での民俗音楽の構成要素を西洋音楽的な語法から語り得るようになった。この出来事は「現代音楽による民俗音楽の再発見」であり且つ「民俗音楽による現代音楽の発見」と見て取れる次代の音楽の創造をリードする発明になる。遂に、この音楽的運動は全世界に発想の種を広めて、アメリカにおけるジャズの創造と同調することになる。ジャズとはアフリカから中南米を経てニューオリンズ周辺に上陸したダンス音楽 ― リズムと旋律の特徴的な非西洋音階性 ― を西洋楽器とその記譜システムによって改めて演奏するところから発展したものだった。しかも、録音は採譜を元にした演奏からでは得られない感興まで具体的に伝えることを可能にした。そしてそのリアルな状況の真っ只中に位置することが出来た作曲家が ― ラヴェルからパリ音楽院入学を断られた ― 黒人音楽に魅了されるユダヤ系白人ジョージ・ガーシュインだったことになる。ガーシュウィンは1898年生まれ。1937年没。米国の作曲家。ロシア移民の子。アーヴィング・バーリンやジェローム・カーンに憧れてポピュラー・ソングの作曲家として出発。その後ロマン派の手法を学び、独自の音楽スタイルを確立、アメリカに根ざした作品を発表する。
アメリカが未来を信じて疑わなかった一番前向きだった頃に活躍したピアニスト、ペナリオはハリウッド系のオーケストラや野外コンサートへの出演も多く、アディンセルのワルソーコンチェルトのような作品もうまいし、当然ガーシュイン(George Gershwin)の演奏も得意。《ラプソディー・イン・ブルー》はかなり素晴らしい。他にもガーシュインの第2ラプソディやアイガットリズム変奏曲もあり、これらの作品は内容も充実していて優れた印象。さらにはジャズ風な自作の曲も大いに楽しめる。20世紀前半の覇者がウラディミール・ホロヴィッツとルービンシュタインの時代を受けて、20世紀後半にバイロン・ジャニスとレナード・ペナリオの時代を迎えるのも期待できたろう。アメリカでの評価はかなり高いと聞くし、室内楽でもハイフェッツらとの共演盤がある。前半生はヨーロッパで、後半生はアメリカ合衆国で活躍したアルトゥール・ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein, 1887.1.28-1982.12.20)は、ヤッシャ・ハイフェッツとは作品の解釈や、どちらの名が先にレコードのジャケットに表記されるべきかをめぐって常に揉め、1950年を境に2度と共演はおこなわなかった。そこで「百万ドル・トリオ」と評判だったピアノ三重奏団のピアニストとして「ハイフェッツ-ピアティゴルスキー・コンサート」と銘打ったテレビ番組で演奏を行うペナリオとルービンシュタインは、どうやら師弟関係ではなさそうだが音楽の作りが似ている。どの演奏も華やかだが手堅い感じで、過不足はないもの。奇をてらわずに、いかにも「華麗なるピアノ」といった風情。しかし、どの曲も「違和感なく普通に弾ける」ということに、どれだけの底力が必要とされるかを知るべきである。12歳でグリーグの《ピアノ協奏曲》をダラス交響楽団と共演し、神童として名を馳せた。当初予定されていたピアニストが病気になったため、かねてよりペナリオ少年のピアノ演奏に注目していたユージン・グーセンスの推薦によって、本人がこの作品が分かると明言したこともあり独奏者に抜擢されたのだった。実際にはそれまでペナリオはこの曲を聴いたことも弾いたこともなかったが、わずか1週間で覚えてしまったという。努力で希望を実現してしまうアメリカン・ドリームの一つだ。第2次世界大戦中は米国空軍に配属され音楽活動を一時中断、航空部隊に従軍し中国、ビルマ、インドを転戦する。この間にピアニストとしての力量が知られ慰問団に加わって奉仕演奏を行ない1943年11月17日、アルトゥール・ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団との共演でリストの《ピアノ協奏曲 第1番》を演奏して公式デビューした。晩年になって急に日本でホルへ・ボレ(ボレット)が有名になった例もあったが、メディアの取り上げられ方や宣伝によっては、わが国でももっと大スター的なピアニストになれたはずで残念だ。その当時のレコード芸術での評が、一言で言えば「通俗的で安っぽいピアノ」というものであった。そのまま現代、インターネット上でも「通俗的」を〝アメリカン〟と短絡してしまって流布している。録音を聴き、自己判定出来なくても史実としてラフマニノフの死後、最初に協奏曲のすべてを録音したピアニストでありアメリカでは絶大な人気があって、グラミー賞なども受賞している。こうした業績の大きいピアニストだが、また音楽に流れているヒューマンな温かみも特筆すべきものだ。
FR VSM C053-12018 レナード・ペナリオ 狂詩曲集
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