第3楽章での感興の高まりは得も言われぬものがある。 ― 「ナチの音楽家」というレッテルを貼られ、裁判にもかけられたヴィルヘルム・フルトヴェングラーを擁護したのは名ヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインでした。このユダヤ人の必死の弁護のおかげで無罪を勝ち取ったフルトヴェングラーのその後の活躍はご存じの通り。恩人メニューインとはまずベートーヴェンを録音し、その2年後にこの精魂込めたブラームスが録音されたのです。ルツェルン音楽祭のオーケストラはフルトヴェングラーの演出で深淵たるスケールの大きさで、ソロはメニューインが、まだ若く線は細いが、情熱が迸り熱く雄弁だ。透明な音色による初々しい表現で第3楽章での感興の高まりは得も言われぬものがある。この曲を語るには避けて通れぬ名盤です。フルトヴェングラーの窮地を救った恩人メニューインとの友情が生んだ名盤。ナチ協力者の嫌疑を掛けられたフルトヴェングラーと、ユダヤ人の身で彼を擁護し無罪に導いたメニューインの友情は音楽史に残る美談のひとつ。ドイツ音楽界の巨星に対して、メニューインの取った果敢な行動はそれ自体賞賛されるべきものだが、これが今なお好楽家の間で語り草となっているのは、二人の邂逅から生まれた芸術があまりに気高いものだからだろう。1949年8月、スイスのルツェルンで収録されたブラームスのヴァイオリン協奏曲は、メニューインのしなやかで艶っぽい音色が魅力的。少しも力むことなく自然体なのに緊張感溢れる入魂の演奏で、これぞドイツ音楽の真髄といった、自信に満ち溢れた演奏に思わず引きずり込まれてしまいます。作品に精魂のかぎりを注ぐメニューインのヴァイオリンと、途方もなく土壌が広く渓谷のように深い管弦楽の響き。ブラームスの協奏曲は名ばかりで、どれも交響曲に独奏楽器が付随しているとでも言って良いが、シンフォニックで雄大なフルトヴェングラーの指揮が素晴らしい。二つが相呼応して築かれた世界は、私たちの常識をはるかに超えたもの。ファシズムや自由主義という名の狂気が猛威を振るった後で、このように清く純情な心がまだ人間に残されていたのかと思うと目頭が熱くなってしまう。人をまやかしたり、陥れることの出来ない ― 或いは知らない ― 実直な心をそこに感じる。誠実なブラームスは、そんな良心を棄てられない人のための音楽だろう。1949年8月29〜31日の録音セッション。当然SP録音でテープ収録ではない。
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当時フルトヴェングラーは、遠くから尊敬される指揮者であった。わたしは1947年まで彼と共演したことはなかったが、彼については評判やレコードから十分な知識をもっていたので、彼の指揮による演奏がきっと異常な経験であろうと推測していた。 ― メニューイン
先輩格のアルトゥール・ニキッシュから習得したという指揮棒の動きによっていかにオーケストラの響きや音色が変わるかという明確な確信の元、自分の理想の響きをオーケストラから引き出すことに成功していったヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、次第にそのデモーニッシュな表現が聴衆を圧倒する。当然、彼の指揮するオペラや協奏曲もあたかも一大交響曲の様であることや、テンポが大きく変動することを疑問に思う聴衆もいたが、所詮、こうした指揮法はフルトヴェングラーの長所、特徴の裏返しみたいなもので一般的な凡庸指揮者とカテゴリーを異にするフルトヴェングラーのキャラクタとして不動のものとなっている。戦前、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やウィーン・フィルハーモニー管弦楽団をヨーロッパの主要都市で演奏させたのは、ナチスの政策の悪いイメージをカモフラージュするためであった。1933年1月30日、ヒトラーは首相に就任しナチス政権が始まった。25歳のヘルベルト・フォン・カラヤンは、この年の4月8日、オーストリアのザルツブルクでナチスに入党した。カラヤンはそれからすぐにドイツのケルンに赴き、同年5月1日、党員番号3430914としてケルン―アーヘン大管区で改めて入党した。オットー・クレンペラー、フリッツ・ブッシュ、アドルフ・ブッシュ、アルトゥール・シュナーベル、ブロニスラフ・フーベルマン、 マックス・ラインハルトなどが、次つぎと亡命し、ついにゲヴァントハウス管弦楽団の主席指揮者であったブルーノ・ワルターがドイツを去ることになった。世界はフルトヴェングラーがどのような態度をとるか興味深く見守っていた。アルトゥーロ・トスカニーニやトーマス・マンなどは、フルトヴェングラーはドイツに留まることによってナチスに協力し、それを積極的に支持したと非難した。しかし、フルトヴェングラーは1928年に、「音楽のなかにナショナリズムを持ち込もうとする試みが今日いたるところに見られるが、そのような試みは衰微しなければならない。」と厳しく警鐘を鳴らしていた。1933年7月、フルトヴェングラーはプロイセン首相のゲーリングから枢密顧問官の称号を与えられた。この称号は、総理大臣(ヘルマン・ゲーリング)、国務大臣、総理が任命する50名の高官、学者、芸術家によって構成された。枢密顧問官は名誉職であり、たとえば鉄道が無料となるなどの特権があった。ほかに総理から必要な費用の支払を受けることができ、この費用の受け取りを拒否できないとあった。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーはこの称号をなにかで利用することはなかったし、1938年11月の「水晶の夜」が起こってからは、この称号をけっして使うことはなかった。しかしフルトヴェングラーをナチスの一員として非難する人たちは、この称号を受けたことを立派な証拠とみなしていた。フルトヴェングラーはドイツにおいて高額所得者であったが、仮にイギリス、アメリカに移住しても金銭的に不自由することはなかったであろう。それどころか反対に、より豊かになったことは間違いない。フルトヴェングラーがなぜ、ナチスと妥協したりせずに外国に移住しなかったのだろうか。フルトヴェングラーのきわめて、おそらくは過渡に発達した、使命感だった。つまり、彼がひきつづきドイツに留まり音楽を創造していくことが、彼と同じ気持ちを懐いているすべての『真正なる』ドイツ人に慰めを与えるのだという確信だった。フルトヴェングラーはたしかに国外にいるよりは国内にいることによって、迫害された人たちをより多く助けることができたのだった。…アルトゥーロ・トスカニーニはベニート・ムッソリーニにどれほどの打撃を与えたか。トーマス・マンはアドルフ・ヒトラーにどれほどの打撃を与えたか。やはりドイツの伝統を維持していたウィルヘルム・ケンプと対比してユーディ・メニューインは推察した。「もしも現代においてケンプが、どこにいようとも、ドイツの伝統を守ることができるのであれば、フルトヴェングラーはかくも深く過去に根ざしていたので、彼は国外移住が独自性を危険に晒すこと、山や平原と同様に国にも属している種族や国民の魂が存在すること、彼の音楽的ヴィジョンがドイツにおいてドイツの公衆を前にしたドイツのオーケストラにより、最良の状態で存在が可能となることを信じていたのかもしれない」フルトヴェングラーがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、つまりドイツのオーケストラ演奏を維持し続けることに大義があった。1947年5月1日、ついに非ナチ化委員会はフルトヴェングラーに対して全面無罪を宣告した。フルトヴェングラーが戦後、2年ぶりにベルリンに復帰した演奏会は1947年5月25日、フルトヴェングラーは満員の聴衆の興奮と熱狂の坩堝と化したティタニア・パラスト館で、ベルリン・フィルとオール・ベートーヴェン・プログラムを演奏した。この復帰コンサートのチケットはまたたく間に完売となった。ベルリンの市民は、空襲の恐怖の中でも彼の指揮するベルリン・フィルの演奏会が唯一の心の慰めであり支えであったことを忘れていなかったのである。戦後の混乱した経済の中で貨幣なみに流通していたコーヒーやタバコ、靴、陶器などを窓口に差し出してチケットをもとめようとするものも多かった、という。コンサートは同じプログラム ― エグモント序曲、「田園」、「運命」交響曲の3曲 ― で5月25、26、27、29日の4日間行なわれた。62歳のフルトヴェングラーはけっして老いていなかった。しかし重ねた年輪はベートーヴェンの悲劇的な力をこれまで以上に刻印を深くし、聴衆との再会はフルトヴェングラーが心から願った共同体の理念を再び呼び覚ました。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーはベルリンに復帰したが、1949年まではベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する回数は非常に少なかった。むしろウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やベルリン以外の客演先のオーケストラを数多く指揮した。まず1948年、ウィーンに戻るとヨーゼフ・クリップスとともにウィーン・フィルを率いてロンドンに行き、5日間にわたるベートーヴェンの交響曲のサイクル・コンサートを行った。このベートーヴェンのサイクル公演で、10月3日、ユーディ・メニューインとコンチェルトを共演した。11月はベルリン・フィルとイギリス公演、ロンドン、リヴァプール、バーミンガム、オックスフォードの各都市を訪れた。イギリス公演を終えるとすぐさまストックホルム、パリで客演し、翌月はウィーンでフィルハーモニーを指揮した。このように信じられない超過密スケジュールを、62歳のフルトヴェングラーは実際に消化していたのである。1949年から、英EMIのためにウィーン・フィルと録音を再開。 〝ナチ裁判〟でヴィルヘルム・フルトヴェングラーを擁護したのがメニューイユーディ・ンだった。彼はユダヤ人演奏家で最も名前が知られた存在だった。まだ若年だったが10歳代で世界中に注目された存在だったことを最大限に活かした。しかし、それは演奏家生命をかけるほどの勇気を持っての事だったことを並々ならぬ友情だと歴史から学ぶべきことで見過ごせない。ナタン・ミルシテインの自伝に出てくるが「ヒトラーとゲーリングに頭を下げるフルトヴェングラー」という見出しのついた写真が雑誌に載った。演奏が終わって拍手をする聴衆にフルトヴェングラーが答礼をしただけで、たまたまそこにアドルフ・ヒトラーとヘルマン・ゲーリングが居合わせただけのことだが、それほどに何人かのアメリカ人はフルトヴェングラーが、ナチのドイツに留まって指揮をしたことが許せなかった。1948年にシカゴ交響楽団がフルトヴェングラーを監督として招聘したときに、何人かの著名な音楽家は、彼がシカゴで仕事をするならいっさいオーケストラとは協演しない、と言い出した。この「著名な音楽家」たちは、ウラジミール・ホロヴィッツ、アルトゥーロ・ルビンシュタイン、アレクサンダー・ブライロフスキー、アンドレ・コステラネッツ、ヤッシャ・ハイフェッツ。ホロヴィッツは、ナチとの戦争で死んだ多くのアメリカ人に敬意を表するものであると述べた。さらにドイツに留まって生活するしかない一般人ならともかく、フルトヴェングラーはいつでも亡命できたはずであると付け加えた。ルビンシュタインはヒトラー、ゲーリング、ヨーゼフ・ゲッペルスに協力したものとはいっさいかかわりたくない。フルトヴェングラーはナチが勝つと信じて留まったのであり、多くの人をナチから救ったなどという確証はなにもないとまで非難を緩めない。しかも彼らの鉾先はワルター・ギーゼキングにもおよんだ。ホロヴィッツはギーゼキングが出演する演奏会には絶対に参加しないと全米の興行主に警告した。ルビンシュタインはギーゼキングと契約したナショナル・シンフォニー・オーケストラに対して協演を拒否した。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは自身の著書「音と言葉」のなかで、ベートーヴェンの音楽についてこのように語っています。『ベートーヴェンは古典形式の作曲家ですが、恐るべき内容の緊迫が形式的な構造の厳しさを要求しています。その生命にあふれた内心の経過が、もし演奏家によって、その演奏の度ごとに新しく体験され、情感によって感動されなかったならば、そこに杓子定規的な「演奏ずれ」のした印象が出てきて「弾き疲れ」のしたものみたいになります。形式そのものが最も重要であるかのような印象を与え、ベートーヴェンはただの「古典の作曲家」になってしまいます。』その思いを伝えようとしている。伝え方がフルトヴェングラーは演奏会場の聴衆であり、ラジオ放送の向こうにある聴き手や、レコードを通して聴かせることを念頭に置いたヘルベルト・フォン・カラヤンとの違いでしょう。その音楽を探求するためには、ナチスドイツから自身の音楽を実体化させるに必要な楽団を守ることに全力を取られた。そういう遠回りの中でベートーヴェンだけが残った。やはりフルトヴェングラーに最も適しているのはベートーヴェンの音楽だと思います。カラヤンとは異世界感のシロモノで、抗わずに全身全霊を込めて暖かい弦楽器が歌心一杯に歌い上げた演奏で感動的である。フルトヴェングラーの音楽を讃えて、「音楽の二元論についての非常に明確な観念が彼にはあった。感情的な関与を抑制しなくても、構造をあきらかにしてみせることができた。彼の演奏は、明晰とはなにか硬直したことであるはずだと思っている人がきくと、はじめは明晰に造形されていないように感じる。推移の達人であるフルトヴェングラーは逆に、弦の主題をそれとわからぬぐらい遅らせて強調するとか、すべてが展開を経験したのだから、再現部は提示部とまったく変えて形造るというような、だれもしないことをする。彼の演奏には全体の関連から断ち切られた部分はなく、すべてが有機的に感じられる。」とダニエル・バレンボイムの言葉を確信しました。これが没後半世紀を経て今尚、エンスーなファンが存在する所以でしょう。
- Record Karte
- 1949年8月29〜31日、ルツェルン、クンストハウスでの録音。
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