シンフォニー・ホールに響き渡る壮麗な鎮魂歌。 ― 第2次大戦後のボストン交響楽団に黄金時代をもたらし、小澤征爾の師としても知られ、3回の来日歴もあるフランスの名指揮者シャルル・ミュンシュはゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターをつとめたミュンシュの音楽家としてのルーツであるドイツ音楽の演奏においても本領を発揮し、その一方で、ピエール・モントゥーが確立したフランス式の演奏様式の伝統を継承し、ボストン響をフランス音楽の演奏にかけては類のないアンサンブルに仕立て上げました。ドイツ系の名指揮者ミュンシュにとってフランス音楽も重要なレパートリーだった。ミュンシュは自国の音楽に先天的共感を以って、この効果の難しい難曲を実に巧みに演奏し妙に現代風なダイナミックを強調しない点はさすがである。就中、ベルリオーズの激情の〝レクイエム〟では、膨大な編成に託した作曲者の情熱を気宇壮大に歌い上げている。ティンパニ10台を含む大規模なオーケストラ、テノール独唱、混声合唱のほかに、4群のバンダを必要とするこの大曲の名演・名録音として知られる名盤。聴けば、耳から離せなくなる。劇情の音楽家ミュンシュの懇切丁寧でスケールの大きい、悪魔的魅力を放つ音楽。その背景にはこの名作だけが持つ真実性を、全身全霊をかけて明らかにしようとしたミュンシュの使命感があり、それが強烈な説得力となって演奏全体に輝きとスリルを与えている。1959年録音の3ch録音での試みは、音色の多彩さと広大なダイナミック・レンジが素晴らしい。大曲だけに録音を前提とした十分な準備と練習のもとに行われた演奏会直後のセッションで、録音ではボストン・シンフォニー・ホールの客席を取り払い、そこにオーケストラを置き、合唱はステージ上に、また4群のブラスはバルコニーに配置して2日間をかけて行われた。劇的に表出した演奏を余すところなく記録した、ステレオ初期の決定盤として高く評価されていた名盤。ベルリオーズの《レクイエム》第8曲「サンクトゥス」におけるカナダの名テノール、レオポルド・シモノーの清澄な名唱も印象的な大きな魅力。作品に盛り込まれた感情のダイナミズムを余すところなく表現しきる思い切りの良さ、作品全体を俯瞰するスケールの大きさ、夢中になってのめり込んで行く演奏の勢いでも、この録音の8年後のバイエルン放送交響楽団とのドイツ・グラモフォン録音との比較も興味深いところです。なじみのないオーケストラを相手にした老境の解釈に比べて、オーケストラの上手さ、合唱の立体感、そして何よりも作曲者の破天荒な発想を現実の音としている点においてボストン・シンフォニー・ホールの空気感までをも伝える優秀録音盤の価値は揺るぎ無い。→コンディション、詳細を確認する
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ミュンシュは、多少コスモポリタン的な傾きはあるが、全く現代的で、緊迫度が高く簡潔緻密だ。特に、ほど良く淡白な叙情性と人生の秋をしのばせる曲趣の調和が目立つ。尻上がりに油が乗ってくる。ワルターとは逆の手法で成功したものといえよう。盤鬼・西条卓夫
シャルル・ミュンシュ(Charles Munch, 1891〜1968)のキャリアはヴァイオリニストからスタートしていますが、若かりし頃、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のコンサートマスターに就任、その時の楽長がヴィルヘルム・フルトヴェングラーだった。毎日その巨匠の目の前に座って多くのことを習得したことから、知らずと例の拍子を暈す内容重視の指揮法はフルトヴェングラーの指揮姿から身につけたものと推察出来ます。ミュンシュは音楽が持っているのストーリー性を、物語の様な視点で語りかけてくる。それが度を越すケースが多いのだけど、熱を持って表現する。ゲヴァントハウスではドイツ語でカール・ミュンヒ(Carl Münch)と呼ばれていた。生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送った彼は、両国の音楽を共に得意とした。ベルリオーズの幻想交響曲とブラームスの第1交響曲でのミュンシュがドライヴするパリ・コンセバトワールの燃焼ぶりは永遠に色褪せることがない。ミュンシュは当時ドイツ領だったストラスブルク出身であることから、歴としたドイツ人であるが故にブラームスなどのドイツものまで得意としていたのは当然、彼の演奏で聞いても見たかったがバッハも熱愛していた。1929年にパリで指揮者としてデビュー、1937年にパリ音楽院管弦楽団の指揮者となって、1946年まで在任した。1949年からボストン交響楽団の常任指揮者に就いたミュンシュは、このオーケストラと数多くのレコーディングを行い、ミュンシュの録音はほぼ全てをリチャード・モーア、ルイス・レイトンというRCAのステレオ録音の礎を築いたコンビが手がけた。『生涯の終わりごろ、ブラームスが目も眩むほどの速さでヴァイオリン協奏曲を振りはじめた。そこでクライスラーが中途でやめて抗議すると、ブラームスは「仕方がないじゃないか、きみ、今日は私の脈拍が、昔より速く打っているのだ!」と言った。』そんな興味深いエピソードを、ミュンシュはその著書「指揮者という仕事」(福田達夫訳)の中で紹介していますが、今ここで音楽を創造しながら、「ああ生きていて良かった!」という切実な思い、光彩陸離たる生命の輝き、そして己の殻をぶち破って、どこかここではない彼方へ飛びだそうとする〝命懸けの豪胆さ〟が私たちの心を犇々と打つのです。
録音史に残る名録音 ― LIVING STEREO
フリッツ・ライナー=シカゴ交響楽団のRCAレーベルへの録音は、1954年3月6日、シカゴ響の本拠地オーケストラ・ホールにおけるリヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」のセッションで始まりました。この録音は、その2日後に録音された同じリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」と並び、オーケストラ・ホールのステージ上に設置された、わずか2本のマイクロフォンで収録された2トラック録音にも関わらず、オーケストラ配置の定位感が鮮明に捉えられており、録音史に残る名録音とされています。ステレオ初期のカタログではセミ・プロ仕様の2トラック、19センチのオープンリール・テープは数が限られていましたが、その中でもミュンシュ=ボストン交響楽団のRCAレーベルへの録音は比較的多く存在していました。これ以後、1963年4月22日に収録された、ヴァン・クライバーンとのベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番まで、約10年の間に、モーツァルトからリーバーマンにいたる幅広いレパートリーが、ほとんどの場合開発されたばかりのこのステレオ録音技術によって収録されました。ヤッシャ・ハイフェッツ、アルトゥール・ルービンシュタイン、エミール・ギレリス、バイロン・ジャニスなど、綺羅星の如きソリストたちとの共演になる協奏曲も残されています。何れもちょうど円熟期を迎えていたライナー芸術の真骨頂を示すもので、細部まで鋭い目配りが行き届いた音楽的に純度の高い表現と引き締まった響きは今でも全く鮮度を失っていません。これらの録音「リビング・ステレオ」としてリリースされ、オーケストラの骨太な響きや繊細さ、各パートのバランス、ホールの空間性、響きの純度や透明感が信じがたい精度で達成された名録音の宝庫となっています。
- Record Karte
- レオポルド・シモノー(テノール)、ニュー・イングランド音楽学校合唱団、シャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団、1959年4月26〜27日ボストン、シンフォニー・ホールでのリチャード・モア(プロデューサー)、ルイス・レイトン(エンジニア)の名コンビが手がけた、セッション、3トラック録音。2枚組。
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