自信に満ちた充実した打鍵から生まれる音色とスケールの大きな堂々とした表現 ― 少年時代に、シューマンの友人であったヴァイオリニストのヨアヒムから薫陶を受けたルービンシュタインは、生涯を通じてシューマンの作品に強い共感を抱き、自家薬籠中のものとしていた。ここに収録されているのは、1960年代の心技とも最も充実していたルービンシュタインによる演奏で、シューマンの作品に内包されたファンタジーとロマンティシズムが、豊かな音色で紡ぎ出されてゆく。アルトゥール・ルービンシュタインはショパンと同じポーランド生まれの巨匠、 20世紀最大のピアニストの1人で彼ほど巨匠という言葉が似合う芸術家も少ないのではないかと思います。レパートリーは比較的広く、バッハ等のバロックから、ラヴェル、ドビュッシーのフランス近代までの時代の作品を網羅していますが、その中で最も得意としていた作曲家が他ならぬお国モノのショパンでした。幼少期から民族舞曲、マズルカやポロネーズが自然に耳に入ってくる環境で育った彼は、その土着のリズムを体で覚えており、それが彼の演奏の大きな特徴となっています。 彼の演奏は録音でしか聴くことができませんが、ショパン演奏に関しては、1958年から1966年というステレオ初期に録音された。70歳過ぎてからの録音だけにワルツ、マズルカの一部では枯れすぎて面白くない演奏があることは否定できませんが、ポーランドの民族精神を高らかに歌い上げた雄渾なポロネーズ集、ショパンの語法を知り尽くしルバートの粋を堪能させてくれるノクターン集、ゴージャスでブリリアントな音色でスケールの大きいバラード・スケルツォなど、スタンダードな秀演が揃っており、このショパンの偉業だけでも今後名前が忘れ去られることはなかろうと思います。本盤は、そうしたショパンでの余勢をかって収録したシューマン、素晴らしく充実したタッチからは、スタインウェイが完全に鳴りきった時にのみ聴ける本物のピアノの音色が 堪能できます。シューマンのピアノの小曲集は一曲一曲が非常に個性的で、非常に惹かれる。謝肉祭と幻想小曲集は、いずれもシューマンの名曲として知られるものです。ルービンシュタインはこの両曲を遅めのテンポで実に淡々と、しかし自然な息遣いで再現していきます。リヴィング・ステレオ、ダイナグルーヴ盤。
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アルトゥール・ルービンシュタインはポーランドのユダヤ人家庭に生まれ、1898年にベルリンでデビューした。ヨーロッパで長く活動した後、第二次大戦前にアメリカへ渡り世界的な名声を得た。祖国愛、政治的亡命、アメリカでの成功と、いかにもアメリカ人が喜びそうなサクセス・ストーリーが見え隠れしている。彼の祖国への愛に嘘偽りがあるとは思わないが、どうもプロモーション上、そういうイメージが作られていたような気がする。1940年代に結成した「百万ドルトリオ」も然り。ルービンシュタインは、この呼び名を嫌ったらしい。ヤッシャ・ハイフェッツとグレゴール・ピアティゴルスキーのコンビとは袂を分かちている。ルービンシュタインほど数多くのリサイタルを開いたピアニストはいないとも言われ、超過密スケジュールのリサイタルをこなすその体力に皆が一様に驚嘆していたそうで、 ルービンシュタインは聴衆の前でピアノを弾くことを心の底から楽しんでいました。「演奏会を開くのがどんなにつらい仕事か」と誰かが口にしたとき、「演奏会を開くことは仕事ではありませんね。それは喜びですよ。ピアノに向かって座り、美しい音楽を弾く。これほど楽しいことが他にありますか?」とルービンシュタインはきっぱりと言ったそうです。ルービンシュタインは怠惰を勤勉に置き換えることによって、現存のもっとも賞賛される芸術家となった。「怠惰」から「勤勉」に切り替わるきっかけとなったのがアニエラ・ムリナルスカとの素晴らしい出会い、結婚、 そして幸福な家庭に恵まれたことでした。そして多くの聴衆の心をつかみ、世界中の多くの人たちとの交流を大切にし、彼らを愛しました。そして聴衆は皆、ルービンシュタインを愛していました。当時73歳のルービンシュタインが、ロンドンで〈モーツァルトのピアノ協奏曲第17、20、23番〉を録音した時のこと。ルービンシュタインは、彼の弾く全ての音が自分の聴衆に聴こえなくてはならない、と録音プロデューサーだったジョン・カルショーに何度も言っていた。カルショーにはその意味がよくわからなかったが、セッションが始まるとすぐに理解した。初めから終わりまで、情け容赦もないほど強大にピアノを響かせたい、ということだと。ルービンシュタインが指名した指揮者のクリップスは、ルービンシュタインの要望どおり、オーケストラの音をできるだけ小さくして演奏し、ルービンシュタインは逆に雷鳴のごとくピアノが響くように大きな音量で弾いた。バランスエンジニアは対応不可能。その頃はピアノとオーケストラを2つのトラックに直接録音していたので、バランス調整ができなかったのだ。この録音セッションを委託したRCAも、このルービンシュタインのフォルティシモへの情熱に耐えてきたらしく、この録音を聴いた結果、モーツァルトの協奏曲を発売するより費用を無駄にすることを選ぶ、とカルショーに伝えてきた。実際に、その録音は公開されていない。
怪人プロデューサーの自宅アパートで深夜、部下の事業部長が打ち合わせをやっていたら、ガサゴソと音がして食堂の大型冷蔵庫の扉が開いた。手に何か食べ物と飲み物を抱えてベッドルームへ去ろうとしている小柄な男がいた。斯くも、世紀の巨匠は人懐っこい人柄であった。アルトゥール・ルービンシュタイン(Arthur Rubinstein, 1887〜1982)は若いころから華があるピアニストであり、大変に人気もあるピアニストだった。優れた音感と驚異的な暗譜力を持ち備えており、初めて見る楽譜も練習もせずに見ているだけで難なく弾くことができた天才肌のタイプであった。ルービンシュタインは早くから異常なピアノの才能を示し、姉の弾くピアノの曲を聴いただけで、そっくりそのままピアノで再現することができ、姉が間違えたところはそっくりそのまま間違えて弾いたそうです。ルービンシュタインは厳格なメソッドが嫌いで、それよりも音楽の情熱、躍動を重視するタイプのピアノ弾きでした。演奏旅行中に次の演奏会のプログラムとなっていた「フランクの〈交響的変奏曲〉を汽車の中で楽譜を読んだだけで覚え、マドリッドで初めて弾いたことがある」と回想されても居るように、ユーディ・メニューイン、ヴィルヘルム・バックハウスと並ぶ練習嫌いの上に、練習に時間も取れなかったのだろう。ショパンの「木枯らしのエチュード」は左手が旋律を担うのだから右手を適当に弾いてもそれらしく聴こえる、と言って実践したこともあったようです。彼は第1次世界大戦前はパリ、ロンドンに拠点を置いて、ヨーロッパ、南米各地で超過密スケジュールで演奏活動を展開し、その華やかで情熱的な演奏で聴衆に熱狂的に迎え入れられていましたが、その一方でアメリカ合衆国では聴衆・批評家ともに比較的冷淡な反応だった。
実際、当時はミスが多いがため、アルトゥール・ルービンシュタインが演奏しているピアノからこぼれ落ちる音符を掃除担当者が片付ける風刺画さえ描かれていた。そんなある時、17歳年下のホロヴィッツがパリデビューを果たした際、ルービンシュタインはその素晴らしいテクニックに驚嘆し、静かな絶望に陥ったようです。ウラディミール・ホロヴィッツ(Vladimir Horowitz, 1903〜1989)は研ぎ澄まされた独特の感性と、正確無比な演奏をする完璧主義者でもあった。わずかなミスにも妥協を許さず苦悩の様子を見せていた、そんな彼の姿はきっとルービンシュタインから見ると理解できる範囲を超えていたのかもしれない。ルービンシュタインはそれを自覚して自己の演奏の欠点を顧みることはありましたが、その一方で彼の情熱的で華やかな演奏を好んでくれる聴衆もいるのだから、あえてその欠点を修正する必要もないのではないかという思いもあり、そのはざまで揺れ動いていました。しかし、ホロヴィッツに限らず彼よりも若いピアニストは皆、彼よりも正確なテクニックでピアノを弾くという現実に直面し、「今は聴衆に受け入れられていても、努力しなければやがて忘れ去られてしまうのではないか」と自信が揺らぎ始めていました。1928年、41歳になったルービンシュタインに変化の兆しが見え始めます。彼は以前、ピアノ演奏の録音を経験したことがありましたが、そのロールピアノの録音は音質が非常にこもっている上にノイズも多く、すっかり失望してしまい録音には懲りていました。この年、イギリスのH.M.V.レコードの代表者から録音の話を持ち掛けられた時も、以前の録音で懲りていたルービンシュタインは気乗りしませんでした。しかし、「気に入らなければレコードを発売しない」という条件で彼はその誘いを受け入れ、非公開でショパンの「舟歌 Op.60」を録音したところ、その音質の良いことには驚きましたが、改めてプレイバックを聴くと自分の演奏の音抜けやミスタッチがあまりに多いのに閉口しました。「こんなことではダメだ。もっと正確な演奏をしなければ」という危機感がさらに強くなってきました。ルービンシュタインのピアノ演奏の技術的な精度は録音技術の発達と大いに関係があるようです。またそれと同時に、彼は「そろそろ結婚して家庭を持ちたい、大切な伴侶と家庭に恵まれれば、彼らが自慢できるようなピアニストを目指そうと頑張れるのではないか」という思いも芽生えます。この年、久しぶりに彼の祖国ポーランドに帰り、エミール・ムリナルスキ指揮ワルシャワフィルと共演し成功を収めます。その時、最前列で彼の演奏にうっとりと聞き惚れていた女性がいたことにルービンシュタインは気づいていました。演奏会後、指揮者ムリナルスキが楽屋裏でこの女性を彼に紹介しました。それは指揮者の娘、まだ10代の金髪の美少女アニエラ・ムリナルスカでした。ルービンシュタインはこの人に惚れ込みました。
それまで遊んできた数々の女性よりもはるかに魅力的で、そこには知性と良き妻の資質を垣間見て、アルトゥール・ルービンシュタインは寝ても覚めてもこの人のことを考えるようになりました。しかし彼はアニエラとの24歳という年齢差を考えると積極的になれず、そうしているうちにアニエラは何と他のピアニストと結婚してしまいました。ルービンシュタインは奈落の底に突き落とされたように落胆し茫然自失となり、その心の慰めをピアノと友人に求めました。そんなある時、アニエラが離婚したという話を友人が彼にこっそりと教えてくれました。表向きにはアニエラの年齢が若すぎるからというのがその理由だったそうですが、本当はアニエラがルービンシュタインのことをどうしても忘れられなかったというのがその理由だということでした。「父の指揮するあのコンチェルトの演奏会の時、私はあなたのことが好きになりました。でもあなたは私に少しも関心を示してくれなかったものですから ... 」とアニエラは告白しました。「歳の違いを気にしていましたし、それにその時はまだ心の準備もできていませんでした」とルービンシュタインは言いました。しかし、アニエラは歳の差を全く気にしていなかったようです。プレイボーイの返上。2人は1932年に結婚します。この時、ルービンシュタイン45歳、アニエラ21歳、歳の差24歳の結婚でした。アニエラはピアノを聴く優れた耳を持っていたようで、ルービンシュタインの良い聴き手だったようです。そして彼は演奏スタイルを根本から見直し、新たなスタイルを構築・確立していった。ミスタッチや音抜けを克服するため、ルービンシュタインは楽譜を入念に読み、パッセージ毎に細かく区切って楽譜に忠実に正確に音を再現していきました。その鍛錬期間は3か月間だったようですが、この3か月間でルービンシュタインの演奏は見違えるように変わったようでした。練習の合間にアニエラと一緒に村を散策するのを楽しみました。ルービンシュタインは小柄なピアニストですが、ピアノ演奏に自信をつけた彼はアニエラからは 「まるで巨人が歩いている」ように見えたそうです。この1934年の鍛錬の前後の録音はEMIに残されています。1932年録音のショパン・スケルツォ全曲、1934年録音のショパン・ポロネーズ1番~7番は、非常に情熱的で躍動感溢れる天才肌の演奏ですが、ミスタッチは多く感じられますが、しかし1938年から39年に録音されたショパンの51曲のマズルカ集では、ミスタッチ、音抜けが格段に少なくなり、持ち味の溌溂としたリズムと情熱、変幻自在で豊かな音楽性をそのままに、そこに抑制とコントロールが加わることで技術的な完成度は格段に増し、「大家の芸」と呼ぶに相応しい見事な演奏となっています。この1934年の前後で、ルービンシュタインが遊び人タイプの練習不足のピアノ弾きから、押しも押されもせぬ一流ピアニストに大きく前進したことが録音記録からもはっきりと聴きとれます。
そして彼はウラディーミル・ホロヴィッツと共にピアノ音楽の巨木的存在としての地位をゆるぎないものにした、安心して聴くことのできる温か味を感じさせるピアニストになっていった。しかも、ホロヴィッツに見られるような目の覚めるような派手なテクニックを追い求めるのでなく、明るくキラキラと輝くダイヤのような芯を持ち自然に朗々と歌い上げられるフレーズに卓越したリズム感にあると彼自身の魅力を見出した。その音はアルトゥール・ルービンシュタインとホロヴィッツの音楽の方向性、人柄、音色、性格、レパートリーに多々対極にあるように見えるが、音楽への想い、観客へのサービス精神は何ら変わるところがない。ルービンシュタインは過去、数回に渡ってショパンのあらゆる曲を録音していますが、 演奏技術の完成度、音質を考えると、1958年~1966年というステレオ最初期にRCAビクター・レッドシールに録音したもので、録音当時、ルービンシュタインは70歳代でしたが、演奏技術は若い頃よりもむしろ正確で、強靭な打鍵でスタインウェイのフルコンサートを鳴らし切る美しく輝かしい響きで弾き進めていくゴージャスで堂々としたショパン演奏です。ショパン演奏はセンチメンタルで感傷的な演奏が主流だった一時期もあったようですが、ルービンシュタインは安っぽい感傷に陥る瞬間は一瞬たりともなく、板についた自然なテンポ・ルバートで朗々と格調高くピアノを歌わせます。ルービンシュタインの演奏が今の時代にもあまり古さを感じさせないのは、彼の演奏のこのような特徴によるところが大きく、ショパン演奏の規範として今でも多くの愛好家に愛聴されているのは皆さんもご存知の通りです。
僕がルービンシュタインを何故嫌いかというと姿勢が良いわけ。ということは上半身の力が全部鍵盤にかかるわけ。すると、もう割れんばかりの強い音が出るけれども、汚い音になる ― 坂本龍一がグレン・グールドの演奏から聴こえ出るピアノの音と姿勢の関係を語るところで、引き合いに出されている。20世紀のアメリカが求めたショーマンシップもシンボリックすぎるほど見事だった世紀の巨匠、アルトゥール・ルービンシュタイン。1935年の初来日の後、2度目に彼がやって来たのは1966年6月、すでに79歳の高齢であったが、その舞台のなんという素晴らしさだったことだろう。演奏も舞台姿も円熟の極み、風格豊かで一切の無駄と虚飾を取り去った音楽の本質がそこにあった。しかも、どんなに枯れていても若い頃の道楽者には艶福の名残りがあった。「私は40歳までは女ばっかりだった」とルービンシュタインは指揮者の岩城宏之に語ったそうだが、まあ話半分としても求道者よりはプレイボーイ的な演奏であることは確かだ。しかし、そうした遊びを芸の肥やしにして壮年から老年にかけてのルービンシュタインの深まり方は只事でなく、ほとんど奇蹟のような出来事であった。レコード録音はSP時代はもちろんだがモノーラル時代、そしてステレオ時代に入ってからも、その初期の頃のルービンシュタインには大味なイメージが強い。そんなアメリカの外面的なヴィルトゥオーゾが、70歳代も半ばを超えてから急速に円熟への道を歩み始めた。若い頃は放蕩と道楽の限りを尽くし、60歳代に至るまで効果を狙うだけのピアノを弾いていた最も人間臭い人間ルービンシュタインが、やっとその脂ぎった演奏に抑制を効かせ過度に華やかだったタッチを是正した結果が、ピアノを弾くのが楽しくてたまらない。という風情で、まさに人生の達人の姿がそこにあった。いかなる激しい演奏場面においても背骨がピンと伸びきって、身体のあらゆる部分に無駄な動きが全くないのには驚かされる。そんなルービンシュタインの演奏にはいやらしさが寸毫も感じられない。それは歌舞伎の名優が舞台上で大見得を切っても、演技が少しも下品にならないのと似ている。華のあるステージであり、華麗な音楽創りをしているのに思わせ振りがない。1世紀に一人か二人しか出現しない、この人はまことに「大名人」としか表現しようのない音楽家であった。
1962年12月3日&4日、1963年1月23日、ニューヨーク、マンハッタン・センターでの録音。Recording Engineer – Anthony Salvatore, Producer – Max Wilcox.
YIGZYCN
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