34-16154

商品番号 34-16154

通販レコード→仏レッド"Trésors Classiques"銀文字盤

ソリスティックな演奏はコンチェルトを聴きいるが如し。 ― 往年の音楽ファンには懐かしく、若い音楽ファンには新しい。ヴァイオリンの艶やかな美しさと端正でエレガントなスタイルで人気を博した名手アルテュール・グリュミオー。1950年代のモノラル録音から1980年代のデジタル録音までヴァイオリン協奏曲から室内楽まで、ヴァイオリンが参加する作品で幅広くグリュミオーは名録音を残した。その室内楽でグリュミオー・トリオ(Grumiaux Trio)でアンサンブルを伴にした、ヴィオラのゲオルク・ヤンツェルとチェリストでヤンツェル夫人でもあるエヴァ・ツァコはヴェーグ四重奏団のメンバー。ヴェーグ四重奏団は1940年にハンガリー出身の名ヴァイオリニスト、リスト音楽院の教授だったシャーンドル・ヴェーグが組織した弦楽四重奏団。メンバーはすべてリスト音楽院の出身者。1946年に戦後初めて開催されたジュネーヴ国際コンクールの弦楽四重奏部門で第1位を獲得、ハンガリーを去って西側で国際的に活躍した。そして、しばしばパブロ・カザルスとも共演していますが、グリュミオー・トリオとしてもオランダPHILIPSに大量のレコーディングを残しており、そのどれもが高い水準にあるとされています。当初はレコーディングのために編成されたが、その後は一般の演奏会にも出演するようになった。本盤、ベートーヴェンの「弦楽三重奏曲」全曲を初めとして、モーツァルトやシューベルトの室内楽の名演奏を残している。特にモーツァルトの演奏には定評がありましたが、ベートーヴェンのほんの若書きの作品だからか、世間からは黙殺されているような録音。ヒューマンな心の歌を奏でるのをモットーとしていたグリュミオーのレパートリーの中核にあったベートーヴェンの、三重奏曲は名盤です。こじゃれてるし、美しいし、何より明るいし楽しいし、モーツァルトの延長で屈託のない音楽。演奏はグリュミオー・トリオで、艶やかなグリュミオーのヴァイオリンの音色が魅力です。作品25はチェロの代わりに、当時30歳代のマクサンス・ラリューのフルートが加わっている。セレナードというよりも鳥のさえずりに似て、フルートとヴィオラ、グリュミオーのヴァイオリンが親しく鳴き交わしている、極上のアンサンブルが聴ける。
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ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが各ひとりの弦楽三重奏ながら深みのある音楽性を追求した、《ディヴェルティメント 変ホ長調 K.563》は晩年のモーツァルトの意欲作。アンサンブルの基本である弦楽四重奏からさらに第2ヴァイオリンを外し、その役割をヴィオラに集約させて響きを確保しているのは既に音楽的に成熟したモーツァルトのチャレンジ精神によるものでしょう。ベートーヴェン存命当時はともかく、今は、ほとんど見向きもされない曲種である。ピアノ・トリオというと、ジャズを思い浮かべる人が多いかもしれない。若きベートーヴェンが自立した音楽家として〝世に問う〟という意味で、ウィーンで最初に出版したのが「ピアノ三重奏曲第1番」で、自分で作品番号を〝1〟と付けた。ベートーヴェンの作品1というのは3曲のピアノ三重奏だが、作品1の2のト長調ですでにスケルツォが使われ 、ベートーヴェンのスタイルがすでに現れている。これらの3曲は1793年から94年、ベートーヴェンが23歳から翌年の頃の作品。ベートーヴェンは1770年、ケルンの南ライン川沿のボンで生まれた。祖父ルードヴィヒはケルン選帝侯の宮廷楽長を務るほどの才能を持った人で、父ヨーハンも宮廷音楽家だった。父は天才を示したベートーヴェンの年齢を2歳も若く誤魔化して音楽会に出演させ、モーツァルトの成功にあやかろうとしたらしい。正式な教育は最初祖父の友人で宮廷オルガニストを勤めていたエーデンから受けたが、1780年10歳の時、ネーフェにオルガンや鍵盤楽器、作曲法を学んでベートーヴェンの才能は開花したという。ネーフェの作品は「モーツァルトの『魔笛』の司祭の行進による変奏曲」や「モーツァルトの『魔笛』の主題による6つの小品」が知られる。ベートーヴェンは、生涯こだわって多数の変奏形式の楽章を書いているが、そのルーツをネーフェの作品の中に見出すことが出来るだろう。ベートーヴェンの最も初期の作品は12歳の時に作曲した「ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲ハ短調 WoO.63」がある。翌13歳の時に作曲した「選帝侯ソナタ WoO.47」は、まだモーツァルトなどの古典派ソナタの模倣なのだが、単なる模倣なら音楽が模倣の中に閉じ込められてしまうものだ。だが、ベートーヴェンの場合はやはり音楽が生きていると感じた。14歳の時、師のネーフェの助手として無給の宮廷オルガン奏者助手の地位を認められ、翌1785年、正式に宮廷オルガン奏者となる。その後ボンの貴族の師弟にピアノを教えるようになり、次第にベートーヴェンの生活空間は広がっていった。1787年、17歳の時ベートーヴェンはウィーンに行き、モーツァルトを訪ね、弟子入りを申し出た。その時ベートーヴェンが与えられた主題で即興演奏をするのを聴いたモーツァルトは、傍に居た人に「この人はこれから世間を騒がすことになるだろう」と言ったという。しかし、そのウィーン滞在中に母が死去し、ベートーヴェンはすぐにボンに引き返すことになり、モーツァルトと再び会うことはなかった。
母が死去した後、父はアルコール依存症になり宮廷楽団を退職しなければならなくなるほどに廃疾した。そのためベートーヴェンが弟二人の面倒を見、一家を支えなければならなくなった。1788年、ボンの有力者ブロイニング家の娘エレオノーレにピアノを教えることになり、家族同様に付き合うことになる。ブロイニング家は、宮廷顧問官を務めたエマヌエル・ヨーゼフ・フォン・ブロイニング(1741-1777)が不慮の事故で亡くなった後、未亡人ヘレーナ(1750-1838)が、長男クリストフ(1771-1841)、長女エレオノーレ(1772-1841)、次男シュテファン(1774-1827)、三男ロレンツ(1774-1798)の4人の子供を育てていた。ベートーヴェンは、1787年に母を亡くした後は毎日のようにブロイニング家に通ったということである。ボンの地図を見ると、ミュンスター広場にあるその家は、ベートーヴェンの家から1キロ足らず。4人の子供たちとはほぼ同年齢で、未亡人の母親もベートーヴェンを我が子のように扱ったということでもあるらしいから、彼には大きな救いになったことだろう。そこで多くの文化人と知り合いさまざまな教養を身に付けた。そしてエレオノーレはベートーヴェンの初恋の女性となる。その後エレオノーレは医師フランツ・ゲルハルト・ヴェーゲラーと結婚する ― 1807年にコブレンツに移り住み、ベートーヴェンと会うことはなかった ― が、その後もヴェーゲラー夫婦とベートーヴェンの友情は終生続いた。ヴェーゲラーは、1765年生まれで、ベートーヴェンより5歳年上です。ベートーヴェンの死後、1838年にフェルディナント・リースとともに最初の「ベートーヴェン伝」を書いています。1789年5月、ベートーヴェンはボン大学に入学し、ウィーンに行くまでの3年間在学する。同じ時にボン大学に入学した学生に宮廷楽団の同い年の親友アントン・ライヒャ(ドイツ名)がいた。ベートーヴェンは宮廷楽団でヴィオラを奏いており、ライヒャはフルート奏者だった。ライヒャは後にフランスに帰化(フランス名、アントワーヌ・ライシャ)し、パリ音楽院の教授となり、ベルリオーズやフランク、リストなどを指導したが、その音楽理論はロマン派を開く多くの作曲家に影響を与えることになる。ベートーヴェンはボン大学で、哲学・思想や文学を学び、フランス革命を支持するシュナイダーから大きな影響を受けた。そしてシラーやゲーテの文学に出会い、それらはこの後のベートーヴェンの芸術に影響を与えてゆく。
ベートーヴェンはブロイニング家で、ウィーンの名門貴族フェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵と知り合う。ヴァルトシュタイン自身も作曲もする音楽愛好家だった。1791年、ベートーヴェンは伯爵の作品として「騎士バレー」というオーケストラ曲を代作する。翌1792年、ハイドンがボンを訪れた時、ベートーヴェンは自作のカンタータの譜面を見せ、弟子入りを申し出る。ハイドンは快く了承し、ベートーヴェンは、この年の11月、いよいよウィーンに行くことになる。ボンの友人たちはベートーヴェンに餞別の寄せ書きを書いた。ヴァルトシュタイン伯爵は「モーツァルトの精神をハイドンの手から受け取りたまえ」と書き、初恋の人エレオノーレは「友情は夕暮れの影のように人生の落日の時まで続く」というヘルダーの詩の一節を書いた。そしてウィーンの音楽愛好家であったヨハン・カール・フォン・リヒノフスキー公爵は、ベートーヴェンのために自分の持ち家を提供してくれ、この家でヨーゼフ・ハイドンのレッスンを受けることになったという。こうしてウィーンでの新たな生活の中で、3曲のピアノ三重奏曲が作曲され、1795年に作品1として出版され、リヒノフスキー公爵に献呈された。ハイドンはこの3曲のピアノ・トリオを聴き、ハ短調(作品1の3)だけは出版を見合わせた方が良いとアドバイスしたという。ハイドンにしてみればピアノ・トリオというのは、家庭音楽会に相応しいようなディベルティメント風のイメージがあったのだろうか。ベートーヴェンはそのアドバイスがひどく不満だったらしく、ハイドンが自分の才能を嫉妬しているのではないかとさえ思ったという。そして今日、3曲の中で最も頻繁に演奏されるのはハ短調だという。「運命」交響曲やピアノ協奏曲第3番、そしてピアノソナタ第8番「悲愴」など、〝ハ短調〟はベートーヴェンの生涯を通じての心象風景の一つの幹になっているらしい。ベートーヴェンは1789年、フランス革命が起こった年にボン大学に入学しウィーンに移るまでの3年間在学している。特にシュナイダーの授業から大きな影響を受け、そこで「自由・平等・博愛」という革命思想やシラーやゲーテの文学に遭遇する。そのシラーの詩は30年後に交響曲第9番の最後の《合唱》として結実することになる。ベートーヴェンの芸術の性格には、生得的なものもあるのだろうが、フランス革命の時代に多感な青春時代を送り、その時代に受けた大学での知識・思想は、それ以上に大きな影響を与えたのかも知れない。1792年、22歳のベートーヴェンが自らの思想を表明した言葉が友人への手紙の中に残されている。
Woltuen, wo man kann, Freiheit über alles lieben, Wahrheit nie, auch sogar am Throne nicht verleugnen
能うかぎり善を行ない、何にも優りて不羈を重んじ、たとえ玉座の側にてもあれ、絶えて真理を裏切らざれ
綴りが古く、〝woltuen〟は現代語では〝wohltun〟「善を行う」です。文体も詩的で文法も今は使わないものがあるようです。ドイツ語の〝am Trone〟を「玉座(権力)のそばで」と解釈すれば「権力(者)のそばにいても(そのために)真実を曲げるな」ととれそうですが、ここでは次のように解釈してもベートーヴェンの自分自身への強い信念が感じとれるだろう。
(人に)できる(限りの)善を行う 何よりも自由を愛する そしてそれが玉座(権力)のためであっても 決して自由を裏切らない
現代においても、自分の作風を見つけ出すまでが第一の目標で、それは作曲家に限らないことだ。ベートーヴェンが楽聖と称される奥深さは、他の作曲家が、独自の作風を持って維持しているとしても、やはり自分の作風の類型を踏襲する。例えばロッシーニ・クレッシェンドという言葉があるが、歌劇「セビリアの理髪師」の序曲でも、「セミラーミデ」の序曲でも、曲の最後は景気の良い速いテンポのリズムで次第にクレッシェンドしてゆく。その様なものだ。ブラームスでもやはりブラームスの作風で、聞けばブラームスだなと感じる。ところがベートーヴェンは自分が作った作風を自分で破る。9つの交響曲を聞いても、同じようなものは1つとしてない。「英雄」は他の作曲家の作品だと言われても納得してしまうような、その曲だけで自立した個性がある。そして、「英雄」第4楽章の主題は「プロメテウスの創造物」に使われていたもので、他に変奏曲形式で書かれたコントルダンスにも使われていても、主題そのものでなく、全く作風の異なる音楽になっている。さて、1796年にベートーヴェンは「チェロ・ソナタ第1番、第2番」、「ヘンデルの主題による変奏曲」「魔笛の主題による変奏曲」など、チェロのために集中的に作曲している。ボン時代の友人のチェロ奏者ベルンハルト・ロンベルグの演奏を聴き、チェロの持つ表情の豊かさに惹かれたからだという。この年、ベートーヴェンはヨハン・カール・フォン・リヒノフスキー公とともに、プラハからドレスデン、ライプツィヒにしばらく滞在し、その後ベルリンを訪れたのだが、2つのソナタはチェロをプロ並みに奏いたプロイセン国王のヴィルヘルム2世に献呈され、王室楽団のチェロ奏者ジャン・ピエール・デュポールによって国王臨席のもとで初演されたという。時代はフランス革命のうねりがドイツ諸邦をも洗い、ボンはフランス革命軍に占領された。次弟のカールはすでにウィーンに移り音楽教師をしていたが、薬剤師をしていた末弟のヨハンは、この年難を逃れてベートーヴェンを頼り、ウィーンに移り住んだ。プロイセンはフランス革命軍とバーゼルの和約を締結し、プロイセン宮廷にもフランス色が強まっていた。ベートーヴェンはフランス化したベルリンの聴衆に違和感を覚え、ベルリン滞在継続を求めた王宮の意向にも拘わらずウィーンに戻る。ベートーヴェンは思想的にはフランス革命に共感を覚えていたが、文化的な感受性という点では、フランス色を受容できなかったようだ。ベートーヴェンの人生にとって宿命的な重圧となった失聴の始まりは、1802年にハイリゲンシュタットで書いた遺書には6年前と書かれているというから、1796年のことになる。この年の夏のある日に、暑さをやわらげようと窓を開けたままにしてズボンだけの半裸でいたため、身体を冷やして体調を壊し、その時に聴覚の異常が始まったという。そして、まだこの年には完全に失聴するとベートーヴェンは思わなかっただろうが、遠くから話しかけられても人の声を聞き取ることが出来ず、それを人に知られるまいとして、次第に人を遠ざけるようになり、引き篭りがちになっていったという。1797年という年はピアノ・ソナタ第4番の他には家庭音楽会用の弦楽三重奏やピアノ練習用のソナタなどがあるだけだが、その翌年1798年に、ベートーヴェンはウィーンを訪れたフランス人ヴァイオリニストのロドルフ・クロイツェル(ロドルフ・クレゼール)と知り合う。後に『クロイツェル・ソナタ』を献呈する人物である。
この年には作品9の3曲の弦楽三重奏曲、作品10の3曲のピアノ・ソナタやピアノ三重奏曲第4番 変ロ長調『街の歌』作品11が完成し、8番ハ短調作品13『悲愴ソナタ』の作曲が始められた。また作品12の3曲のヴァイオリン・ソナタ、ヴァイオリンと管弦楽の為の「ロマンスヘ長調」など、初めてヴァイオリン曲も作曲された。作品9の3曲の弦楽三重奏はブラウン伯に献呈されているが、この作品についてベートーヴェンは非常に自身をもっていたようで、この3曲のセットもそれぞれ意図的に違った構成を持たせている。「弦楽三重奏曲第2番 ト長調 作品9の1」は第1楽章に序奏を持たせたソナタ形式で、第2楽章アダージョ、第3楽章スケルツォ、第4楽章ソナタ形式によるプレストという構成になっている。作品9の3曲を変化を与えながら全体の統一を考えているということだろうか。「弦楽三重奏曲第3番 ニ長調 作品9の2」は各楽章の緩急にあまり差をつけず、第1楽章はアレグレット、第2楽章はアンダンテ、第3楽章はメヌエット、第4楽章はロンド・アレグロで、全体に流麗、女性的な印象を与える。「弦楽三重奏曲第4番ハ短調 作品9の3」は第1主題をユニゾンで提示しているが、作品9と同じ年に出版されたクラリネットを入れた変ロ長調のピアノ三重奏曲『街の歌』もユニゾンによる第1主題の提示という形を取っているが、ソナタ形式の中で如何様にも調理出来るように基本主題を出来るだけシンプルなものにしようとして、ユニゾンで提示するという方法を取る形も試したのだろうか。第3楽章は8分の6拍子のスケルツォで、短い楽章だが印象に残る。これも珍しい形式で、さまざまに音楽の表現を拡張して行こうとしているようである。

Beethoven - Maxence Larrieu, Le Trio Grumiaux ‎– Intégrale Des Trios À Cordes / Trio Pour Flûte, Violon Et Alto

Side-A
  • 弦楽三重奏曲第2番 ト長調 作品9の1
Side-B
  • 弦楽三重奏曲第4番ハ短調 作品9の3
Side-C
  • セレナード ニ長調 作品8(弦楽三重奏のための)
Side-D
  • セレナード ニ長調 作品25(フルート、ヴァイオリンとヴィオラのための)
Side-E
  • 弦楽三重奏曲第1番 変ホ長調 作品3
Side-F
  • 弦楽三重奏曲第3番 ニ長調 作品9の2
ベートーヴェンの難聴は1796年の夏に体調を壊した時に始まったというが、それから1、2年後の《悲愴ソナタ》が作曲されている頃には、それが一過性のものではないことを自覚していただろう。しかしまだそのことをベートーヴェンは誰にも打ち明けていない。彼は作曲家である以前にピアニストである。難聴というのは、その職業にとって致命的である。そのことが関係していることは当然考えられるだろう。又、ベートーヴェンはボン大学で哲学を学び、ゲーテやシラー、ヘーゲルなどと同じように、フランス革命に大きな共感を寄せていた。ところが、オーストリアは反仏同盟に参加し、そしてフランスに敗れ、故郷のボンもフランス軍に占領されていた。「自由・平等・博愛」という理念に共感しながら、ベートーヴェン自身は、フェルディナント・フォン・ヴァルトシュタイン伯爵やヨハン・カール・フォン・リヒノフスキー公爵などの貴族の好意、庇護によって支えられている。前年フランスと敗北的な講和をする前には、ベートーヴェンは「オーストリア軍歌」などの出征兵士を鼓舞する歌も作曲している。こうした思想的に引き裂かれた状態も関係しているかも知れない。さらには、ベートーヴェンの「充たされぬ愛」というものが根底にあったのかも知れない。ベートーヴェンの母は、モーツァルトと最初で最後の対面をした第1回目のウィーン滞在の最中に死去したのだが、残された資料を見ると、ベートーヴェンは母を深く愛していたのみならず、父親への嫌悪と相俟って、母親を理想化していたようで、母の死後、常に愛への渇望という心理を生み、〝不滅の恋人〟という想念を形成していったようである。それは友人への手紙によれば、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」を天才の乱用だと批判したことにあるように、異性を肉欲の対象として見ることを嫌悪し、どこまでも精神的な愛を求めていたらしい。11月25日の第61回定例鑑賞会で中尾さんから「ベートーヴェンの有名なバガテル『エリーゼのために』を贈った、テレーゼ・マルファッティと結婚しなかったのは何故」と質問されましたが、その答えの一つになるでしょうか。そのような「充たされぬ愛」が《悲愴ソナタ》の底辺にあったのかも知れない。《悲愴ソナタ》はベートーヴェンの初期の作品の中で最も有名な作品で、第2楽章は数々のポピュラーソングにもなっている素朴で何の変哲もない旋律だが、しかしこのメロディーが心に深く染み入って来るのだ。「悲愴」というのはベートーヴェン自らが付けた表題である。そのことはベートーヴェンが自らの情念や思想を歌詞を付けない純音楽に、文学と同じように語らせようとしたということでもあるようだ。
もちろん後のショパンのように感情をそのまま音楽にするというところまではいっていないのだが、それでもベートーヴェンはピアニストだったから、ピアノ曲に一番自分の個人的な感情が出ているように思う。そして音楽を文学と同じように人の感情や思想を表現する媒体にしようという意図があったのではないかと感じる。「悲愴ソナタ」の調性は、「運命交響曲」と同じハ短調で苦悩に満ちた減七和音の響きから始まる。この和音が与える印象というのは不思議なことに、全く異なる文化と歴史を持つ日本人が聴いても、やはり「苦悩」や「悲愴」を感じる。不思議としか言いようがない。また、この「悲愴ソナタ」が作曲されたころの作品としては今日ヴァイオリンの小品として、非常に親しまれている名曲「ロマンスヘ長調」がある。この暖かで懐かしさを感じさせるメロディーは、故郷のライン川近くの田園風景を思い浮かべて浮かんだものだろうか。その中には初恋の人エレオノーレ・フォン・ブロイニングの姿もあったのかも知れない。ベートーヴェンはシュトルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)の旗手であるシラーの心酔者だった。保守的な形式美を打ち破り、感情を表出することの熱気を青春時代に身に付けた人だったのである。ベートーヴェンの芸術に盛り込まれて行くロマン主義的要素は、シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)の潮流によって育てられた内面的要求でもあったのだろうが、一方でそれは音楽を必要とする貴族や有力市民の要求になってきたのだと思う。「悲愴ソナタ」 が出版された1799年にベートーヴェンは交響曲第1番や6曲の弦楽四重奏曲の作曲を始め、交響曲第1番は翌年4月に初演されるが、この時期はベートーヴェンにとって一つの転換期だったようである。この年67歳のハイドンは前年オラトリオ「四季」を完成したのに続き、オラトリオ「天地創造」の作曲に作曲家としての最後のエネルギーを費やしていた。もう新しい交響曲の作曲はすることなく、弦楽四重奏曲も1799年に『ロプコヴィッツ四重奏曲』の2曲(弦楽四重奏曲第81番 ト長調と第82番 ヘ長調『雲がゆくまで待とう』)が作曲されたのが最後になる。サリエリもこの年に歌劇「ファルスタッフ」を上演しているが、もはや自分の時代は終わったと自覚していたらしく、創作数も減り1804年に最後のオペラ「黒人」をジングシュピールで書いたのが最後らしい。
アントニオ・サリエリ(1750.8.18-1825.5.7)とモーツァルトの理解者だった皇帝ヨーゼフ2世が死んだ後、新しい皇帝レーオポルト2世が即位します。サリエリは宮廷楽長になっていましたから、新しい皇帝のために戴冠式を祝う曲を書いて演奏しなければいけないはずなのに、それをせず、モーツァルトの曲を幾つも戴冠式へ持って行き、モーツァルトの曲で新しい皇帝の戴冠を祝ってしまうのです。ところで、このモーツァルトの宗教曲を演奏しようと思っても、楽譜が出版されているわけではないわけですから、サリエリとモーツァルトの間になんらかの交流があったのは間違いない点です。それは、サリエリと一緒に《魔笛》を観て、サリエリがこんなに褒めてくれたと書いた手紙が、モーツァルトの現存する最後の手紙なのです。ところが、新しい皇帝レーオポルト2世は即位から僅か2年で死んでしまいます。そして、新たな皇帝にフランツ2世が即位します。この皇帝は音楽に無関心だったので、サリエリから宮廷楽長の地位こそ奪わなかったのですが、新しい仕事を特に与えず、宮廷礼拝堂の合唱団の指導であるとか、体裁的な宮廷内の作法をするよう命じます。そして、「新しいオペラはもう書かなくていいよ」というようなことを言ったとも伝わっています。これが、サリエリが42歳のときで、オペラは書かなくはなったけれども、音楽家協会という協会の慈善演奏会を指揮することに熱心になります。別名「孤児と寡婦の会」ですが、音楽家の遺児や路頭に迷った未亡人たちに年金を与えるため、慈善演奏会を毎年開きます。その曲目の選定、オーケストラの訓練、演奏の指揮をサリエリが行っていたわけです。慈善演奏会では、ハイドンの《天地創造》や《四季》といったオラトリオが、毎年サリエリの指揮で演奏されています。それから、ウィーン学友協会の設立、あるいは音楽学校の設立ということもサリエリが行っています。現在のウィーン国立音楽院の前身にあたる音楽学校の立ち上げに協力したのがサリエリであり、その初代声楽教授がサリエリでした。こうした活動によって、ウィーン音楽界の頂点に立つ、影響力のある人物として尊敬を集めました。そして多数の弟子たちを育てています。例えばモーツァルトの遺児の音楽教育をサリエリはしています。それから、有名どころではシューベルト、ベートーヴェン、少年フランツ・リストにも音楽を教えています。つまり、彼はウィーン古典派の最も重要な作曲家たちの先生だったわけです。
当時は貴族に支えられた君主国家というのがヨーロッパの殆どの国の政体だったので、外交も内政も貴族の社交によって動かされ、その場に音楽は欠かせないものだったろう。モーツァルトの時代、音楽家の地位は低く、使用人としては料理人や庭師より、低収入を得ることも出来なかったが、政治上の儀式、典礼や教会のミサ、社交の場としてのオペラやコンサートなどだけではなく、宮廷では日常茶飯、国王や王妃、貴族や教皇のために音楽を必要とされていた。だからこそベートーヴェンも貴族に庇護されて成長してきたのだが、ハイドンやサリエリなどの貴族のための音楽という時代は終わろうとしていた。この頃からベートーヴェンはハイドン、モーツァルトの芸術を継承、発展させるという自覚と責任を持ち始め、交響曲と弦楽四重奏というハイドン、モーツァルトが確立し、最も多く作曲した分野に足を踏み入れることになる。また改善の様子が見られない耳疾のことを思えば、ピアニストとしては仕事が出来なくなっても、作曲家としてなら仕事を続けることが出来ると考えるようにもなっていったのではないか。「七重奏曲変ホ長調 作品20」は初期のベートーヴェンの作品の中でも、人気もあり、しばしば演奏される作品である。楽想は素材にして、生理的な快感がある。ベートーヴェンの緻密な構成というイメージより、この曲は音楽が自然に流れ出たという印象を受ける。《フルート、ヴァイオリンとヴィオラのためのセレナード ニ長調 作品25》は佳作で、モーツァルトの弦楽セレナーデを範として7楽章とし、フルートを使ってチェロを欠いているので、爽やかで明るく、楽想もモーツァルト風に優美である。出版の関係で作品25となっていますが、今日聴く、《弦楽三重奏のためのセレナード ニ長調 作品8》より1年早かったようで、ベートーヴェンの難聴が始まる前の所為か明るくて屈託のない音楽になっています。ベートーヴェンは20歳代には管楽器を使った室内楽を数多く作曲しており、1792年には「管楽八重奏曲変ホ長調 作品103」や「管楽五重奏曲変ホ長調 Hess 19」などを、そして1796年には「管楽六重奏曲変ホ長調」を作曲している。しかし、ベートーヴェンはこれ以後木管楽器のための音楽を作曲していない。管楽器の持つ色彩感に大きな関心を持っていただろうし、それはこの後の多数の管弦楽の名作に生かされているが、この後、耳疾が進んでいったベートーヴェンには、その音色は若い頃の記憶の中にしかなく、音色を確めながら作曲することも出来なかったから、ロドルフ・クロイツェルに出会った時や、ボン時代の友人のベルンハルト・ロンベルグが演奏するチェロの持つ表情の豊かさに惹かれた時のような刺激を得ることが出来ないで、新たに管楽器のための作品を書く気持ちになれなかったのではないか。そして国際情勢は再び対仏同盟が成立し、オーストリアとフランスとの戦争が始まった。オーストリアは最初は優勢だったが、その後次第に劣勢になってゆく。そうした情勢の中で、フランス革命に共感するベートーヴェンは、ウィーンの貴族が主催するコンサートではなく、民衆に開かれたコンサートを自力で開くことを考え始める。自分の音楽の聴衆を貴族だけではなく、一般の市民に設定し、それ故市民の心に触れる音楽を、そして多数の聴衆を想定した大規模なオーケストラを使った音楽を作ること。それがベートーヴェンにとっては念願であっただろう。1800年4月2日、ウィーンのブルグ劇場で、ベートーヴェン自身が企画し、興行収入を目的としたコンサートが催された。この演奏会の最初の曲目はモーツァルトの「大交響曲」だったという。そして演奏会の最後の曲目がベートーヴェンの『交響曲第1番ハ長調 作品21』だった。
1953年に開始されたグリュミオーのフィリップスへの録音は、折しもレコードは78回転SP盤に代わるLPという新しい再生メディアの黎明期であり、録音再生技術の向上とともにより鮮明な再生音を家庭で手軽に味わうことが出来るようになった時代。グリュミオーの洗練された演奏は、繊細な音色までをも細かく収録することのできるこの新しいメディアの、そして戦後の新興レコード会社の一つ、フィリップス・レーベルの象徴ともなったのです。アルテュール・グリュミオー(Arthur Grumiaux, 1921.3.21-1986.10.16)はベルギーのヴァイオリニスト。ヴィレール・ペルワン(Villers-Perwin, ワロン地域のエノー州)で生まれた。労働者階級の出身だが、祖父の奨めにより4歳でヴァイオリンを学び、6歳でシャルルロワ音楽院に入り、11歳になるまでにシャルルロワ音楽学校のヴァイオリン科とピアノ科の両方で首席をとった。1933年ブリュッセル音楽院に進み、名教師アルフレッド・デュボワに師事。デュボアはウジューヌ・イザイの弟子にあたり、グリュミオーはまさにベルギーのヴァイオリン演奏伝統を一身に受け継いだ訳です。1949年にはグリュミオー自身も、そのブリュッセル王立音楽院のヴァイオリン科で教鞭を執った。パリに留学してジョルジュ・エネスコに入門もして、早くからその才能は認められました。第2次世界大戦中は、ナチス・ドイツ占領下のベルギーで室内楽の演奏旅行を行なった。戦後になってからソリストとしての名声がうなぎ上りとなり、とりわけルーマニア王国出身のピアニストのクララ・ハスキル(Clara Haskil, 1895.1.7-1960.12.7)をパートナーに迎えて行なった演奏活動は「黄金のデュオ」と評された。その美しい音色と華やかで流麗な芸風は〝ジャック・ティボーの再来〟と言われ、実演に、LPレコードに活躍しました。1960年にハスキルが急死してからは、一個人としても演奏家としても虚脱感に見舞われている。1961年には来日も果たしています。グリュミオーは音楽界への貢献が認められ、1973年に国王ボードゥアン1世により男爵に叙爵された。その後も持病の糖尿病に苦しめられながらヴァイオリンの指導を続けたが、1986年に心臓発作によりブリュッセルにて他界した。1727年製の愛器ストラディヴァリ《エクス=ジェネラル・デュポン(“Ex-General Dupont”)》を駆使したグリュミオーの美音は、まさにモーツァルトには打ってつけで、この作品群の最高至福の演奏が聴ける。ヴァイオリンはほかに、グァルネリ・デル・ジェス:1744年製「Rose」。ストラディヴァリウス:1715年製「ティティアン(”Titian”)」も所有。ジャン=バティスト・ヴィヨーム:1866年製は「エクス=グリュミオー」として知られ、現在はジェニファー・コウが所有している。肩当ては、ドイツのGEWA社のModell ll を使用していた。
永遠の名盤とは虚ろな言葉で、それに値するものは決して多くはないのですが、ステレオLPレコード時代をPHILIPSで大量のヴァイオリン曲の録音をしたことで、いまでは評判は名前だけになっているところがアルテュール・グリュミオーの録音には言えるかもしれない。1966年、グリュミオーを中心に結成された。グリュミオー・トリオのメンバーは、ヴィオラのジョルジュ・ヤンツェルと、チェリストでヤンツェル夫人でもあるエヴァ・ツァコで、当初はレコーディングのために編成されたが、その後は一般の演奏会にも出演するようになった。ベートーヴェンの弦楽三重奏曲全曲を初めとして、モーツァルトやシューベルトの室内楽の名演奏を残している。明らかにセレナードあるいはディヴェルティメント的な楽章構成による、明るい雰囲気が横溢するベートーヴェンの「弦楽三重奏曲第1番 変ホ長調 作品3」。若々しい潑剌とした気分が溢れる、楽曲構成や楽器の扱い方などで充実した作風を示す「弦楽三重奏曲第2番 ト長調 作品9の1」。第2楽章を短調にすることによって、豊かな内面性を創出させた「弦楽三重奏曲第3番 ニ長調 作品9の2」。一段と充実した革新的な作風を示す、ハ短調で書かれた劇的緊張感の溢れる「弦楽三重奏曲第4番 ハ短調 作品9の3」。グリュミオー・トリオによる美しい音色と品格に溢れたきわめて魅力的なこの演奏は、作品が内包する真の魅力を明らかにしています。作曲当時広く愛好されていたウィーン風の旋律を用いた、娯楽性の強い作品として知られる弦楽三重奏のために書かれた流麗な「弦楽三重奏のためのセレナード ニ長調 作品8」。グリュミオー・トリオと、わが国にも馴染み深いラリューによる洗練された演奏で、他に例のないフルート、ヴァイオリンとヴィオラという特殊な編成で書かれた、楽章構成などで当時の習慣に従った機会音楽としての性格が強い「フルート、ヴァイオリンとヴィオラのためのセレナード ニ長調 作品25」。録音時絶大な人気を誇ったグリュミオーの遺した、瑞々しいこれらの演奏は、若々しく潑剌とした作品の本質を見事なまでに照射しています。
ヨーロッパ屈指の家電&オーディオメーカーであり、名門王立コンセルトヘボウ管弦楽団の名演をはじめ、多くの優秀録音で知られる、フィリップス・レーベルにはクララ・ハスキルやアルテュール・グリュミオー、パブロ・カザルスそして、いまだクラシック音楽ファン以外でもファンの多い、「四季」であまりにも有名なイタリアのイ・ムジチ合奏団らの日本人にとってクラシック音楽のレコードで聴く名演奏家がひしめき合っている。英グラモフォンや英DECCAより創設は1950年と後発だが、オランダの巨大企業フィリップスが後ろ盾にある音楽部門です。ミュージック・カセットやCDを開発普及させた業績は偉大、1950年代はアメリカのコロムビア・レコードのイギリス支社が供給した。そこで1950年から60年にかけてのレコードには、米COLUMBIAの録音も多い。1957年5月27~28日に初のステレオ録音をアムステルダムにて行い、それが発売されると評価を決定づけた。英DECCAの華やかな印象に対して蘭フィリップスは上品なイメージがあった。
ベートーヴェン:セレナード
グリュミオー・トリオ
ユニバーサル ミュージック クラシック
2012-06-06

弦楽三重奏曲op.3&9、セレナードop.8:グリュミオー・トリオ(Cello – Eva Czako, Viola – Georges Janzer, Violin – Arthur Grumiaux)、セレナードop.25:アルテュール・グリュミオー(ヴァイオリン)、ジョルジュ・ヤンツェル(ヴィオラ)、マクサンス・ラリュー(フルート)。弦楽三重奏曲第2番 ト長調 作品9の1、第4番ハ短調 作品9の3:1967年12月、アイントホーフェン録音。セレナード ニ長調 作品8(弦楽三重奏のための):1968年1月3〜11日、アイントホーフェン録音。セレナード ニ長調 作品25(フルート、ヴァイオリンとヴィオラのための):1968年5月8〜9日、アイントホーフェン録音。弦楽三重奏曲第1番 変ホ長調 作品3、弦楽三重奏曲第3番 ニ長調 作品9の2:1968年9月、ラ・ショードフォン録音。3枚組。
FR PHIL 802.895197LY グリュミオーTR ベートー…
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