FR PHILIPS 6515 006 ジョルジュ・シフラ ショパン・ポロネーズ1-6番
商品番号 34-12791
通販レコード→仏レッド・ラベル白文字盤 SUPER ARTISTIQUE - STÉRÉO
リストの再来といわれた技巧の持ち主、シフラのショパンは極度につまらない。 ― フジ子・ヘミングを評価する人と、アンチの論争は彼女自身を否定するものではないはず。シフラの演奏も楽曲に負けない圧倒的な存在力がある。 ― リストを生んだハンガリーに生まれ、後半生をフランスで送った名ピアニスト、ジョルジュ・シフラは1956年11月、パリで開いたリサイタルの後、各紙誌の音楽批評蘭は〝20世紀のリストの再来〟という讃辞で埋め尽くされた。一躍脚光を浴び、楽壇の寵児となった彼は2度目のコンサートを催したが、コンサートで待っていたのは「内容空疎」という聴衆の大ブーイングであった。この現象はフジ子・ヘミングを評価する人と、アンチとの間で「芸大を卒業したフジ子さんを批判するな!芸大に入れるのか?」と繰り広げられている如何にナンセンスな応酬かと思いながらも、シフラに対する評価は両方共正しい。作家の森鴎外が東大医学部を出ながらも奢りによって多数の兵士を死に追いやったように、点数を取れる賢さと理性的な倫理観は必ずしも一致しません。シフラの人生は、その華麗な演奏とは全く異なる、苦難の連続であった。10歳にしてブダペスト音楽院に入学を許されるほどの俊才であったが、母国ハンガリーが戦後ソ連の衛星国にされ、共産党独裁政権の支配下となる不幸に見舞われる。俊英といわれた青年だが生活は困窮し、レストランでジャズ・ピアノを弾き、一方クラシック音楽の練習を続けて希望を持って時を待った。国外脱出を試みた罪で3年の禁錮刑に服したこともあったが、1956年のハンガリー動乱に乗じて西側に逃れる。逃亡中、鉄条網で腕が切り裂かれて、生涯の傷痕を留めていた。以前、吉田秀和氏の「シフラの演奏で聴くと、リストの音楽の空虚さがよく判る」に共感した。リストの録音としてはホロヴィッツの「ソナタ」、シフラの「死の舞踏」は決定的&歴史的名演奏だ。その即興演奏の凄まじさには圧倒される。ただ凄まじいだけでなく、時には溌剌として、時には軽快な指捌き、時には高速連打など驚くべき演奏を聴かせる。故郷の大先輩リストを髣髴させる。肩肘を張らないで、こんなに楽しくスリリングな世界もありますよ。と ― SPレコードでパハマンを聞くにつけ ― 声とか楽器の超絶技巧そのものを楽しむのも悪く無い。サーカス芸に、あれこれ注文はつけないでしょう。ステージ・スタイルだったのではと思えてくる。シフラは圧倒的な技量だけでなく、表現力の幅の広さ、スケールの大きさにおいても圧倒的な存在であった。シフラのショパンは極度につまらない。が“あなたの得たものを自分だけのものにしていてはいけない。あなたの経験を若手のために役立てなければ”というマルグリット・ロンの願いを叶えて、フレンチ・リビエラの Juan-les Pins に1967年、芸術センターを設立。シフラの後半生はピアニストとしての活躍よりも、若手の演奏家を支援することに注がれることになる。それはおそらく、若き日のシフラがハンガリーにおいて貧しく苦しい日々を送ったことと無縁ではない。翌年、ド・ゴール将軍の命によりフランスに帰化し、まもなくシフラ・ピアノコンクールを設立した。
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ポピュラー音楽ともジャズとも違う、クラシック音楽の精神ながら独創的で、隅から隅までシフラ節を聴かせる。時代考証だの演奏法だのを言っても始まりません。頭の中を空っぽにしてシフラの世界を聴いて下さい。かしこまった孤高の演奏も良いですが音楽とは楽しむ為にもありますよね、ただ彼をまだ聴いた事の無い方はまず彼がナチス・ドイツの将校たちを前にして最初に弾いて見せたという「剣の舞」をネットで見つけて聴いて下さい。ともかくも演奏が独特でピアノというよりも打楽器を聴いているような感じの、個性的なピアニズムである。リストを生んだハンガリーに生まれ、後半生をフランスで送った名ピアニスト、シフラは〝20世紀のリストの再来〟と云われんばかりの技巧を持ち、聴衆を唖然とさせることの出来る数少ないピアニストの一人でした。ハンガリーからフランスに、1956年秋のハンガリー動乱の際に亡命したことで陽光の下に立てるようになった彼にとって、暗雲の時代の頼りは、まともに演奏もできない環境下で指慣らしをつづけることだけだった。テクニックそのものを研鑽し最高に発揮することが演奏の最終目的であるような、あまりにも技巧一辺倒であると看做されたために世紀の超絶技巧を有していながら終世賛否両論と毀誉褒貶のあった、その理由の一つに名人芸的要素を持つ演奏を良しとしない意見も多いことも事実ですが、その即興演奏の凄まじさには圧倒される。ただ凄まじいだけでなく、時には溌剌として、時には軽快な指捌き、時には高速連打など驚くべき演奏を聴かせる。しかし、シフラは超絶技巧も彼の魅力の一つであるが本質的な部分はその音楽性にあると思います。その音色は華麗で輝かしく、まばゆいばかりの光芒を絶えず発散する。シフラの楽曲にも負けない演奏には、圧倒的な存在力がある。もし単にテクニックの追求だけが目的であるなら、他にも技術的に優れたピアニストは何人もいる。特に最近の若いピアニストにとっては完璧なテクニックを持つことは世界の檜舞台へ打って出るための必要な最低限度の条件であって、それだけではもはや逸物として通用しないようにさえなっている。そしてその完璧なテクニックを土台として、その上に夫々の個性を打ち出そうとしている訳だが、然しもその場合彼等は決してテクニック自体をこれ見よがしに表面に出すことはしない。だがシフラはまさに堂々と表面切って、それをやっている。シフラはまさに目のくらむようなテクニックによって、聞き手を眩惑してしまうのである。
二枚目の役者は、どんなに歯の浮くようなセリフを言おうと決してテレてはいない、シフラはどんなに人からキザっぽく思われようと、決して自分でテレたりはしない。我々は時にそれをキザっぽいと思いつつも、瞬時にその魅力にすっかり捕らえられてしまうのである。感情をあからさまに出して歌うということは、前世紀的な名技主義の時代ならいざ知らず、現代のピアニストはやらない。歌うということは、我々が音楽の中にいつも求めている重要な要素だ。ただ現代ではそれが極めて抑制された枠の中でしか行われないということであって、我々が何時も音楽の中に歌うことを求めていることに変わりはない。だから我々は機械的なテクニックだけで歌うことを知らないピアニストに出会うと、それこそやり切れない空虚感を感じさせられるのである。だがシフラは歌うべきところは十分に歌う。ただそれがあまりにも徹底して行われるため戸惑い、シフラの演奏に時代の隔たりを感じるのかもしれない。現代のピアニストたちから聴けないものを聴いてしまい、それ故に、リストの再来といわれた技巧の持ち主が、そのリストの作品を唖然とするような技巧で弾ききり、魅力を存分に引き出している〝シフラ独壇場〟の演奏と称される。彼のような鬼才は2度と生まれないだろうと思わせるほどの輝くようなヴィルトゥオジティあふれる演奏。リストの「大ギャロップ」を弾く様子は、人間技ではない。上海雑技団を観て興じるような演奏も、下品は下品なりにそれなりの面白さは勿論あったのですが。ところが、リストの対局にあるショパン。これはなんと細かいところに神経が行き届いた落ち着いた演奏であることか。シフラについての認識が変わってしまいます。
Les Six Grandes Polonaises
- Side-A
- Polonaise N° 3 En La Majeur, Op. 40 N° 1, (Militaire)
- Polonaise N° 1 En Ut Dièse Mineur, Op. 26 N° 1
- Polonaise N° 2 En Mi Bémol Mineur, Op. 26 N° 2
- Side-B
- Polonaise N° 5 En Fa Dièse Mineur, Op. 44
- Polonaise N° 4 En Ut Mineur, Op. 40 N° 2
- Polonaise N° 6 En La Bémol Majeur, Op. 53, (Héroique)
ジョルジュ・シフラ(Georges Cziffra)は1921年11月5日、ルーマニアで生まれた。彼の人生はその華麗な演奏とは全く異なる、苦難の連続であった。まず、生後数年間は体も弱く、寝たきりのことが多かったらしい。それでも、この巨匠は父親がジプシー音楽家であったことから5歳でピアノを学び始め、もって生まれた才能から、わずか9歳でフランツ・リスト音楽院に入学し、12歳でコンサートデビューを果たした。ところが、第2次世界大戦の中で父を亡くした上に、自身も片耳を負傷し、聞こえなくなってしまう。さらに、ハンガリーは戦後、ソ連の支配下に置かれ、彼は亡命を決意した。しかしこれが当局にバレてしまい、3年間刑務所に入れられてしまった。彼がやっとハンガリーを脱出したのは、1956年、ハンガリー動乱の時であった。この脱出は徒歩で国境を越えるという、過酷なものであったという。なんとか西側に移ったシフラだったが、西側では爆発的に人気を獲得しヨーロッパ中でリサイタルや録音をすることとなった。また、1967年には芸術センター、1968年にはシフラ・ピアノコンクールを設立した。しかし、苦難は再びやってくる。1981年、家が火事になり息子がなくなるという事件が起こったのである。これまで数々の苦難を乗り越えてきたシフラも、このときばかりは意気消沈してしまったようだ。ピアノに向かう力を失ってしまう。その5年後再びピアノを取り戻そうと努力し始めたが、かつての力を取り戻すに至る前、1994年1月17日パリで肺がんにより死亡した。
1963年初発。本盤は1971年発売。
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