モーツァルトの最高の名盤を吹いていたデニス・ブレインが《イタリア》交響曲でも吹いていた。 ― 傑出した優性遺伝の例に挙げられるのがバッハ一族だが、演奏家にも当てはまる例がある。イギリスのホルン奏者デニス・ブレイン(1921〜1957)の家系は、3代にわたって5人の名手を輩出したホルン一家だった。ブレインにとってホルンを吹くことは我々が呼吸をするのと同じぐらい、あたかも「普通のこと」だったように感じます。サー・トーマス・ビーチャムが創立し、メンデルスゾーンの「イタリア」交響曲を録音しているロイヤル・フィルのホルンの首席にはブレインが座っていたと思われる。ブレインは1954年4月まで、このロイヤル・フィルともう一つウォルター・レッグが創立したばかりのフィルハーモニア管弦楽団と兼務で活動していた。ブレインは双方の演奏会に毎回出演していたわけではなく、それぞれのオーケストラの録音時には出席するという実態であった。1957年9月、エディンバラ音楽祭からの帰路、トライアンフTR2に乗っていたブレインは、ロンドンまであと約33キロというハートフォードシャーのハットフィールドを通過中に運転を誤って樹木に車をぶつけて即死した。ブレインは車が好きで、譜面台には時々車雑誌が載っているほどだった。享年36歳。一方メンデルスゾーンに与えられた人生は、たったの38年でした。昨日のレコード鑑賞会の帰り道、熊本地震で壊れた歩道が敷き直されて、新しい石畳になっているのが話題になった。ローマ時代の石畳は、よほどしっかり敷かれているんだな。第1楽章で軽快な弦の刻みに乗って吹かれるホルンの跳躍が、高速道路を軽スポーツで疾駆するメンデルスゾーンが鳴らすクラクションのように感じてきました。『グノーのアヴェ・マリア』は世界一、好まれている名曲だろう。1859年にシャルル・グノーがヨハン・ゼバスティアン・バッハの《平均律クラヴィーア曲集 第1巻》の「前奏曲 第1番 ハ長調」 を伴奏にしていることが解説され、よく知られている、ラテン語の聖句「アヴェ・マリア」を歌詞に用いて完成させた声楽曲である。それで納得してしまわないで比較するとグノーの引用した伴奏譜は、厳密には前奏曲1番の22小節目の後に1小節新しい音形を挿入している違いに気づく。この1小節はクリスティアン・フリードリヒ・ゴットリープ・シュヴェンケが挿入したものである。今でこそバッハは音楽の父と小学校でも教わるが、SPレコード時代にパブロ・カザルスが古本屋で出会った『無伴奏チェロ組曲』はチェロ練習用の楽譜だと思われ、後年大発見だとわかる。1818年生まれのグノーはバッハの音楽とどう出会い、そして、「グノーのアヴェ・マリア」に結実した、その動機は語られたことがあるだろうか。
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ドイツの大作曲家のいわゆる「3大B」 ― バッハ、ベートーヴェン、ブラームスのことを少々意地悪に、音楽史上の「3大退屈男」と呼んだことがある。とはいえ、はなから拒絶したわけでもなくベートーヴェンは全交響曲や協奏曲をしばしば演奏し、レコーディングも行っている。現在では「トルコ行進曲」と序曲しかレコーディングされることがほぼない劇付随音楽『アテネの廃墟』全曲をレコーディングしている。自慢の財力と持ち備えたセンスで若い頃から大々的な活動を繰り広げたビーチャムを突き動かしたのは、ある意味「音楽の開拓者」という使命感だったと言われている。その演奏は世界各地で絶賛され、独特の熟成した美しいアンサンブルにマイルドでエレガントな音色はビーチャムの時代から変わらぬ名演に満ちています。英国音楽界を牛耳っていたとも言われるほどの存在だった怪物だからこそ成し得た、満足できる音楽を自由にやりたいように演奏、録音をした。その演奏内容の多彩さには驚くべきものがあります、定評あるディーリアスでは独特の空気感を伝える絶妙な美しい演奏をおこなう一方、フランス音楽やベートーヴェン、モーツァルトなどでは、ときに過激なまでの思い切った表情付けで楽想をえぐり、さらにハイドンではスケール大きく懐の深い演奏を聴かせるといった具合で、それぞれの作品に真摯に向き合う姿は実に感銘深いものがあります。また、レオポルト・ストコフスキーを初めとして1950年代にレコードをたくさん録音した指揮者は楽譜にはない演奏を良くしている。ビーチャムのレコードもそういった演奏がとても多くあって新鮮に楽しめます。SP時代から録音をおこない長いキャリアをもっていたビーチャムですが、晩年の録音ほど自由な個性、ウィットや豪快さが特によく示されていました。ビーチャムは幅広いレパートリーを誇り、正規レコーディングだけでも採り上げた作曲家の数は69人、そして録音曲の数は477曲を数えたという。ビーチャムの演奏は常に生き生きとした演奏をして、聴衆を大いに喜ばせた。ジョン・エリオット・ガーディナーは『アート・オブ・コンタクティング』の中で「彼の演奏は玉のような宝石があふれ出てくるようである」と評している。レコード録音のレパートリーのスタンダードも構築したような業績もあるので、親しんでいる曲からでもビーチャムの録音盤と聴き比べるのは面白く勉強に成る事でしょう。
ヨーロッパ屈指の家電&オーディオメーカーであり、名門王立コンセルトヘボウ管弦楽団の名演をはじめ、多くの優秀録音で知られる、フィリップス・レーベルにはハスキルやグリュミオー、カザルスそして、いまだクラシック音楽ファン以外でもファンの多い、「四季」であまりにも有名なイタリアのイ・ムジチ合奏団らの日本人にとってクラシック音楽のレコードで聴く名演奏家がひしめき合っている。英グラモフォンや英DECCAより創設は1950年と後発だが、オランダの巨大企業フィリップスが後ろ盾にある音楽部門です。ミュージック・カセットやCDを開発普及させた業績は偉大、1950年代はアメリカのコロムビア・レコードのイギリス支社が供給した。そこで1950年から60年にかけてのレコードには、本盤も含め米COLUMBIAの録音も多い。1957年5月27~28日に初のステレオ録音をアムステルダムにて行い、それが発売されると評価を決定づけた。英DECCAの華やかな印象に対して蘭フィリップスは上品なイメージがあった。
サー・トーマス・ビーチャムは1879年4月29日、英国ランカシャー生まれの指揮者。また、アイロニー、ユーモア、ウィットに富んだイギリス楽壇の名物男でした。1961年3月8日ロンドンにて没。オックスフォード大学を中退し、ウッドとモシュコフスキに個人的に作曲を師事した他は、ほとんど独学で音楽を学んだ。1898年、急病のハンス・リヒターの代わりにハレ管弦楽団を指揮してデビュー。まずは巡業オペラ団を結成し、これは数年続いた。ディアギレフが主宰した伝説的なバレエ団「バレエ・リュス」の指揮者も務めました。同時代音楽の擁護者としてディーリアスやリヒャルト・シュトラウス、シベリウスとの交流はよく知られています。1909年には大富豪であった父の財産をつぎ込んで、ビーチャム交響楽団を設立、リヒャルト・シュトラウスなどの作品を英国に紹介した。1910年からはロイヤル・オペラ・ハウスを自腹で借り切って、自分の思うとおりのオペラ上演を開始した。半分以上はロンドン初演で当たり外れも大きく、決して充実した実入りにはならなかったものの、足らずと損失補填分は父に借財してどうにか凌いだ。1915年にはイギリス・オペラ・カンパニーを創設、しばらくはオペラ指揮者として活動したが1932年、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(The London Philharmonic Orchestra)を創設、1946年にはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団(The Royal Philharmonic Orchestra)を組織し現在も活動している。それ以前にも、1906年の新交響楽団(The New Symphony Orchestra)、1909年のビーチャム交響楽団(The Beecham Symphony Orchestra)を組織、ビーチャムは生涯4つのオーケストラを創設し亡くなるまで指揮者を務めた。現在まで続く製薬会社・ビーチャム製薬(現:グラクソ・スミスクライン)創業家一家の御曹司であった彼は、その類まれなる行動力と潤沢な資金を元手に気儘にオーケストラを創設し、自腹で音楽祭でのオペラ公演やコンサートをしていた。莫大な私財を投じて英国楽壇に貢献した功績は大きく、指揮者としては同時代の作曲家ディーリアスの作品の紹介に務めたことでも知られている。現在コンサートの前に演奏者などがプレトークと言って解説をすることもあるけれども、これもビーチャム卿が最初に始めた。ヘルベルト・フォン・カラヤンより先駆けて初のステレオ・レコードとして発売され、英EMIのカタログから消えることなく50年間以上も多くのクラシック愛好家が代々忘れずに愛聴しているのですから、評価の方も高いことは証明されているでしょう。ビーチャムは82歳まで生きた長寿だけども、1960年に自分の為に創設、編成したロイヤル・オーケストラ後継者にルドルフ・ケンペを指名して引退。1961年に他界しています。現在でも世界4番目と言われる製薬会社の御曹司に産まれたビーチャムは、やりたいことをやって生き抜いた音楽家として満足でしょう。
1952年録音。
YIGZYCN
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