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土壌があればこそ、こうした才能が生れ出るのだ。 ― ピオネールの少年ピーターは、牧場に建つお爺さんの家に住んでいます。ある日ピーターは家から牧場に駈け出していきますが、庭の戸を閉め忘れてしまいます。すると庭で飼っていたアヒルが逃げ出して外の池で泳ぎ始め、アヒルは小鳥と言い争いを始めます。「飛べない鳥なんているのかい?」、「泳げない鳥なんているのかい?」。そこにピーターのペットの猫が忍び寄っていきますが、ピーターが声を掛けたために小鳥は木の上に、アヒルは池の中央に逃げます。お爺さんが出てきて、ピーターが一人で庭の外に出たことを叱ります。「狼が森から出てきたらどうするんだ?」。ピーターは「僕のような男の子は狼なんて怖くないんだ」といいますが、お爺さんはピーターを家に連れ戻し、戸を閉めます。そこに、大きな、「灰色の狼」が森から姿を現します。猫は素早く木の上に駆け上がって難を逃れ、アヒルは慌てて池を出て逃げますが、狼に追いつかれ、とうとう飲み込まれてしまいます。たいへんだ。ピーターはロープを持ち出すと、庭の塀を上って小鳥に話しかけ、狼を捕まえる「作戦」を伝えます。小鳥が作戦通りに狼の鼻先を飛び回っている時に、ピーターがロープの結び目で狼の尻尾を捕えます。狼は逃れようとしますが、ピーターがロープのもう一方を木に結びつけたため、結び目が締まっていく一方で逃げることができません。そこに狼を追ってきた数人の狩人が銃を持って登場します。狩人たちは狼を撃とうとしますが、ピーターは狼を動物園へ送ってもらうことにします。さあ、動物園に向かうピーターの勝利のパレードが始まりです。行列の先頭はピーターで、それに狼を引く狩人、猫、文句をこぼし続けるお爺さんは、「狼を捕まえられなかったらどうなってたと思うんだ?」とぶつぶつ。行列の最後に小鳥が続きます。ちょっと待って、「耳をすまして下さい。アヒルが狼のお腹の中で鳴いているのが聞こえるでしょう。狼は慌てていたので、アヒルを生きたまま丸呑みしてしまったのです」とナレーションが語ってこの物語が終わります。プロコフィエフはあらゆるジャンルの作品を作曲していますが、《ピーターと狼》は、モスクワで設立された中央児童劇場(Moscow Children’s Music Theater)のナターリャ・サーツから着想を得たものといわれています。プロコフィエフは1918~1922年はアメリカで、1922~1936年の間はパリで、そして1936年以降は再びロシアの楽団に復帰して平易なスタイルー新古典主義を標榜していたので、作品は簡素で明快、また子供向けの作品ということもあって、大衆性を持った分かりやすいものになっています。この作品では登場人物がそれぞれ ― ピーターは弦楽合奏、小鳥はフルート、アヒルはオーボエ、猫はクラリネット、お爺さんはファゴット。そして3本のフレンチホルンで狼を、猟師の撃つ鉄砲はティンパニやバスドラムと、オーケストラの楽器で演奏されています。プロコフィエフは1904年からペテルブルク音楽院で本格的に音楽を学びますが、早熟な彼にとって学ぶべきものは多くはありませんでした。初期の頃はスクリャービンの神秘主義やロスラヴェッツ、モソロフなどのロシア・アヴァンギャルドの影響を受けた前衛的な作品が多く、「古典交響曲」(1917年)を作曲してアメリカに亡命を決意してからは「新古典主義」と呼ばれた作品群を多く作曲しますが、帰国してからはロシアの伝承音楽と自己の音楽との融合を図り、自らの音楽の中にロシア音楽を採り入れて作品を発表していきます。ブリテンの《青少年のための管弦楽入門》は、オーケストラの各々の楽器を紹介する形になっているオーケストラの入門曲として『ピーターと狼』と並んで、非常に有名な作品。
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ホルストの組曲『惑星』が英国のオーケストラ曲として人気ですが、私は20世紀のイギリス、というよりエルガー以降のイギリスの作曲家を高く評価している。こうした土壌があればこそ、ブリテンのような才能が生まれ出るのだと思う。ブリテン男爵ことエドワード・ベンジャミン・ブリテン(Edward Benjamin Britten, Baron Britten OM CH, 1913年11月22日〜1976年12月4日)は、イギリスの作曲家・指揮者・ピアニスト。英国放送協会(BBC)が制作し翌1946年11月29日に公開された音楽教育映画「Instruments of the Orchestra(オーケストラの楽器)」のために、1945年12月中旬から同月31日深夜にかけて作曲された。初演は翌1946年10月15日にサー・マルコム・サージェントの指揮、ナレーションはエリック・クロージャーの下、リヴァプール・フィルハーモニック管弦楽団によって行われた。映画ではサージェントが指揮とナレーションを行い、ロンドン交響楽団が演奏している。「青少年のための管弦楽入門」のタイトルにふさわしい、平明な音楽。親しみやすいメロディを使って、弦楽器、管楽器、打楽器がパートごとに紹介されて、最後に全体で高度な作曲技法を施した大フーガを奏でる。オーケストラの各々の楽器を紹介する形で、それぞれの特色が分担して仕事をしていることで全体の音楽が成り立っていることを教える啓蒙になっている。その主題となっているメロディが、ヘンリー・パーセルの劇付随音楽『アブデラザール』の「ロンド」です。パーセルは西欧バロック音楽中期に活躍したイングランドの作曲家。生涯に残した曲はおよそ400曲以上あるが、どれもエリザベス朝時代のイギリス音楽が持つ諸要素にイタリアやフランスの影響を受けつつ独自の音楽を生み出した、最も優秀なイギリス人の作曲家の1人として知られている。イギリスの伝統にイタリア・フランスの風が巧く融合し、自由奔放な彼独特の世界観は魅了したが、富裕貴族が先をこぞって、イタリアやフランスの作曲家をイギリスに呼び寄せる方向に嗜好が移り、パーセル以降のイギリス作曲家の育成が途絶えてしまう。イタリアやフランスの作曲家もイギリス趣味の音楽を披露して応えていたが、ドイツから訪れたヘンデルが、オリジナリティを発揮したことでイギリス音楽の継承は希薄になっていく。パーセルが没したのは1695年。その200年後。アメリカにおける国民楽派的なスタイルの音楽の確立を夢見ていたニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者・理事長ジャネット・サーバーからドヴォルザークに音楽院院長職への就任依頼が届いて1892年に渡米する前。すでに交響曲第6番が好評を博していた、ロンドンを訪れて1885年に初演した、交響曲第7番は「イギリス」の愛称があるが、もはや、ロンドンで初演されたからという理由でしかなくなっていた。パーセルが『アブデラザール』を1695年に作曲してから250年、遂にイギリス音楽は復興した。レコード時代になってイギリス音楽は ― ロックだけでなくクラシック音楽も全世界で愛好されるようになった。ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」のほか、よく親しまれている曲としては、長いことパーセルの作とされてきた同年代の作曲家ジェレマイア・クラークが鍵盤楽器のために作曲した『デンマーク王子の行進曲』を、指揮者のヘンリー・ウッドがオルガンとトランペットのために編曲した『トランペット・ヴォランタリー』は、今では結婚式の定番曲となっている。
指揮者のニコラウス・アルノンクールが、かつて『音楽はその土地の言葉で、何かを語っています。』とレクチャーしていますが、実はこの町の位置付けが非常に重要で、その特徴が少なからずこのオーケストラの音色やアンサンブルに影響を与えている。ストラスブール・フィルハーモニー管弦楽団が本拠を置く風光明媚なストラスブールはフランス北東部アルザス地方の中心都市である。現在の人口は約27万人、周辺地域を含めると50万人を超える、ブリュッセルとともにヨーロッパ全体の重要な施設(欧州評議会や人権裁判所)、EUの議会を擁する等、『EUの顔』としての重要な役割を担っている。交通の要所にあり、フランスとドイツが領有権を争ったことで有名。街を流れる「ライン河」の対岸はドイツのケール、現在はパスポートチェックも必要なく自由に行き来が可能である。指揮者のシャルル・ミュンシュや、作曲家のエミール・ワルトトイフェルの生まれ故郷。大きくはフランスのオーケストラというカテゴリに入りながらも、実はドイツの都市の方が近かいこともあり、フランスのオーケストラが持つ色彩感豊かなイメージと、ドイツのオーケストラが持つ腰の低い重厚な響きとを併せ持っている、絶妙なバランスを持ったオーケストラでしょう。1972年からストラスブール・フィル、ライン歌劇場に就任した、アラン・ロンバールは1940年生まれ。1966年にミトプーロス国際指揮者コンクールで優勝してレナード・バーンスタインのもとで修業したりしていたが、1972年からストラスブール・フィルの首席指揮者となりエラートに数々の名演を録音しています。フランスの管弦楽曲の評価が高く、ややミュンシュ寄りの豪快な音楽づくりで聴きごたえがある。力強くパワフルでありながら、颯爽とした活力を聴かせる。やはりエラート的な、明るめというか、パステルカラーの音質のかいあって、あっさりとした印象が心地よいものとなっている、たたみ込むようなリズムに乗って高揚して行く様はエネルギッシュなロンバールの指揮姿が目の前に浮かぶようです。オーケストラも必死に指揮者に食らいついている様が伺え好感が持てます。地方のオーケストラを侮るなかれと言ったところでしょうか。地方のオーケストラとはいえ、ロンバールが求める音楽にはローカル色はない。これにはロンバールのオペラで培われた独特の視野による表現と解釈も去ることながら、やはりオーケストラのもつ音色や雰囲気に拠るところが大きいでしょう。どこにも無理な強調はないが気持ちの良い演奏。ベートーヴェンの交響曲全集ともども、実に侮れないマエストロです。ドイツ的なきっちり感と、オペラのオーケストラでもあるストラスブール・フィルに、ラテン系ながら、スマートな側面も持ってるロンバールの、名コンビの結実で素敵だった。コマーシャルベースに乗る様な派手な指揮者ではなく、老練な味とか仕掛けとかはないが、弾むようなテンポ感は何と言ってもロンバールの魅力だ。
楽団の歴史を辿ると古く1855年に「ストラスブール市立歌劇場」専属のオーケストラとして活動、通常のオーケストラ・コンサート活動は「ストラスブール市立管弦楽団」の名称を用いていた。現在の名称に改称されたのはアラン・ロンバール音楽監督時代の1972年からである。ストラスブール歌劇場は同演目を1か月に5回~10回程まとめて公演するシステム(スタジオーネ)で、 取り組むのは月に2演目程度。そのころミュンヘンのバイエルン州立歌劇場でも「カルメン」はドイツ語で上演されていました。それを、当時の総監督のジャン=ピエール・ブロスマンと音楽監督のロンバールの意向ですべて言語上演で行った。パリ市の音楽政策に私企業は積極的に参加しており、都市ガバナンスの創出という観点からも重要なアクターと見なされている。パリについていえば、その政治史によって示されているように、近年に至るまで国の絶対的な支配の下にあった。その上、確かに1977年まで、パリに市長は存在しなかった。また、パリ市の文化資源は文化都市パリというイメージを前面に打ち出すことに貢献し、より多くの市民にパリ市の文化を普及するという効果をもたらしているが、フランスでは何世紀も前から、クラシック音楽の領域に国が介入していた。王立音楽アカデミーの振興のため、ルイ14世がジャン=バティスト・リュリに特権を与えたのは1672年に遡る。パリ・オペラ座の今日までの存続は、音楽と政治権力との明白な結びつきを示唆する例の一つである。その上、1795年に国民公会の議決によって設立されて以来、フランス国立高等音楽院は国策と密接に結びついているといわれる。エラート・レーベルは、楽譜専門出版社エディション・コスタラ社の録音部門として、フィリップ・ルーリーによって1952年に創設、名プロデューサーとして知られるミシェル・ガルサンを迎え、当時未開拓だった中世からバロック時代にかけての音楽の録音を積極的に行って成功。その理由は、19世紀から20世紀にかけて確立されたクラシック音楽の演奏様式ではなく、現代の楽器とは異なる当時の楽器で、音楽史研究に基づいて、作曲当時の演奏様式に則った演奏によるところ。フランス音楽の貴重なカタログ、フランス楽壇黄金時代のアーティストたちによる演奏、暖かみのある録音などで人気を博し、1960年代には同分野でフランスを代表するレーベルに成長しています。当時、オーケストラ録音にこぎ出したエラートの看板コンビとして、フランスのオーケストラによるお国物ということで、普段聴き慣れている演奏と違う肌合いの魅力も相俟って、発売当時は話題の一役を買いました。本盤は1973年の録音で、バロック録音で見せる線の細さは感じさせず馬力のある音で充分楽しませてくれます。
当時も今も、フランスのエスプリと、ストラスブールという多面的な顔を持つ街のオーケストラの特色を引き出した点で指揮者とオーケストラと、本盤録音チームは大いに評価されていい。ストラスブールという町はドイツとフランスの国境付近にあり、独仏両方の文化を持つという。EUの街、そして交通の要衝となってます。ライン川を隔てて、ドイツのケールという街と一体化してます。さらに、地図で地名を見てみると、フランス内のストラスブール周辺は、ドイツ的な地名ばっかり。ストラスブールは地政学的な文化面で言うと、ドイツであり、そして、政治的な存在としてはフランスなのです。弦楽器のアンサンブルは筆致がはっきりしており、管楽器は輪郭が明瞭に感じられる。積極的な強弱の変化で音楽を聴かせる。テンポを落とすところもありますが、基本的には速いテンポで進みます。1950〜1960年代のパリ音楽院管弦楽団(Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire)、シャンゼリゼ劇場管弦楽団、パリ・オペラ座管弦楽団、フランス放送(ORTF=Office de Radiodiffusion Télévision Française)交響楽団、そしてラムルー管弦楽団、コンセール・コロンヌといった当時のパリで持て囃されていたオーケストラ録音を聴くと、指揮者もオーケストラも、そして録音も個性的ではっちゃけていた。ステレオ録音の初期は、こうした嫌に元気な元気な録音でいっぱいである。アンサンブルが崩れようが、どこかのパートが落ちようが、ポンコツのまま構わず楽しそうに進む。ジュネーヴのヴィクトリアホールの美しい響きと英DECCA録音の妙と、数学者でもあった指揮者の分析的な解釈として、精密さを印象づけていたエルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団も、独創的でありながらの精緻な音楽だった。それも、ステレオ録音のレコードで国際的に聴かれるようになっていくとともに独創的な録音も影を潜めはじめる。そうして1960年代後半、パリ音楽院管弦楽団の終焉とともに新録音は完全にストップする。1990年代に佐渡裕がラムルー管を牽引するまで、健在ぶりさえ気にしなくなっていた。その代わりに、1970年代に地方に新設されたオーケストラが一躍脚光を浴びる。1970年代のフランス音楽界は、アンドレ・マルローとマルセル・ランドフスキのかいあって、「地方の時代」といわれたが、その柱には、フランス近代以降の音楽の発展を受け継ぎながら、極端に走らず、無調音楽を展開しようとした。それは、調性的な発想から出ており、伝統的でわかりやすい表現を良しとした独自の音楽語法で、教条的なセリー技法には、つねに異を唱えていた。それ故に前衛音楽に距離をとったことや世俗的・社会的な成功から、ピエール・ブーレーズとその ― 識者も含む支持者から攻撃されており、なんだかんだで、良くも悪くも、紛れもない都の息吹があった。ジャン=クロード・カサドシュ(1927年7月17日〜1972年1月20日)率いる北のリール、ミシェル・プラッソン(1933年10月2日〜)率いる南のトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団、そしてアラン・ロンバール率いる東のストラスブール・フィルハーモニー管弦楽団。それぞれ独自のカラーを出しながらも、何かしら猥雑なエネルギーを放出していた。そう、当の都では忘れ去られた息吹が1970年代には地方に移ったのである。オーケストラ文化が伝播したかのように、懐かしいエネルギーが地方で息づいていたのである。それも昨今ではマルク・アルブレヒト指揮のストラスブール・フィルがリヒャルト・シュトラウスやベルク、フランス近代物などをリリースした録音を聴いて、その演奏はロンバール時代の勢いはそのまま、クオリティはかなり上がっているのに残念だった。もはや、パリだの地方だのいう時代でなくなってしまったことを実感した。
アラン・ロンバール(Alain Lombard)はリヨン国立管弦楽団の指揮者として1961年にデビューした後、渡米してニューヨークでレナード・バーンスタインの助手を務めたフランスの指揮者。1940年10月4日、パリに生まれ、パリ音楽院でガストン・ブールに師事、その後、フェレンツ・フリッチャイの元で研鑚を積む。1966年、ミトロプーロス国際指揮者コンクールに優勝し、国際的な活躍を開始する。1999年以降はスイス・イタリアーナ管弦楽団の指揮者を務めている。彗星のようにあらわれたロンバールは、1971年から1983年まで母国ストラスブール・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任。ロンバールは1976年、手兵のストラスブール・フィルを率いて初来日し、またその後、単身でも来日しているが、いわゆるフランスの指揮者らしい、繊細で緻密なパステル画を思わせる、優しい音楽を聴かせるばかりの指揮者ではない。むしろロマンティックで色彩的な、感情の揺れの激しい音楽を特徴にしている。そして輝かしいバトン・テクニックと、ダイナミックな迫力を合わせ持ち、特にリズムの切れの良さにロンバールの個性が窺われる。主にオペラ指揮者として名高く、EMIやエラート・レーベルに数々の録音を残している。代表的な録音は、モーツァルトの歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」と「魔笛」、グノーの歌劇「ファウスト」と「ロメオとジュリエット」、ドリーブの歌劇「ラクメ」、プッチーニの歌劇「トゥーランドット」、ビゼーの歌劇「カルメン」に交響曲ハ長調、ベルリオーズの幻想交響曲のほか、シューベルトの交響曲が挙げられるが、特にストラスブール・フィルと演奏したフランスの管弦楽曲の評価が高い。アンサンブルにはラフなところがあるが、ソロもウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の奏者の力量には及ばないが、存在感があり、一直線に豪快に鳴らしている。特に打楽器奏者が素晴らしく、打ち込みは小気味よいし、ここぞという時の迫力が凄い。演奏を聴き終えた後の爽快感は、あゝ、いい音楽を聴いたという満足感は趣があり、このコンビは1970〜1980年代に持て囃されていた。エラートとの契約も成立し、当時、オーケストラ録音にこぎ出したエラートの看板コンビとして、大量の録音を残しました。その金属的な響きがするヴァイオリン。トロンボーンを主体にする旋律は抑え目で柔らかく。トゥッティの響きが薄いストラスブール・フィル。エラートの特色がでていて、全体的には大人しい響きの録音です。ロンバールがメジャーに躍り出ることは、いまに至るまでなかったけれど、エラート時代に残した演奏の数々は、古豪レーベル復活をかけたエラートの熱意と、ほぼ録音などなかった指揮者とオーケストラの前向きさ。それらが融合した結果のものか。ピエール・アモイヤルをソロにした、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番、第2番は長岡鉄男の外盤A級セレクション第1巻60掲載盤として超優秀。ムソルグスキーの《展覧会の絵》の「バーバ・ヤガーの小屋」は、1978年パリ国際音響フェスティバルに出品された「エラート・オーディオ・チェック'78」に採用され、装置の基本的なチェック(周波数特性、左右チェック、位相チェック)に続いて、最初に鳴り響く音楽でした。
エラート(Erato Disques, S.A.)は古楽録音で大きな実績をもつ最古参レーベルです。レーベル名はギリシャ神話に登場する文芸の女神・エラトーからとられている。独立系レーベルとして1953年にフランスで設立された。芸術責任者のミシェル・ガルサンの下、フランスのアーティストを起用した趣味性の高いLPを数多く制作し、クラシック音楽を中核とし、とりわけフランス系の作品や演奏家の紹介に努めてきた。その中心的なレパートリーはバッハ以前の古楽だった。日本ではバロック音楽すべてが含まれる場合もありますが「古楽」は、古典派音楽よりも古い時代の音楽=中世、ルネッサンス、ごく初期のバロック音楽の総称です。作曲された時代の楽器、演奏方法は、時代を経るにつれ変遷を遂げてきています。近年の「古楽」ジャンルの録音は、19世紀から20世紀にかけて確立されたクラシック音楽の演奏様式ではなく、現代の楽器とは異なる当時の楽器で、音楽史研究に基づいて、作曲当時の演奏様式に則った演奏によっています。但し、オリジナル楽器録音への取り組みはやや遅く、本格化するのはフランス系以外の奏者を積極的に起用するようになった1980年代以降。中心を担ったのはトン・コープマン、ジョン・エリオット・ガーディナー、スコット・ロスといった、グスタフ・レオンハルトたちよりも一世代後、かつフランス人以外の演奏家たちである。フランスのエラート・レーベルが最初に日本で紹介された時は、日本コロムビアからの発売だった。フランスに数多く残るバロック音楽ゆかりの宮殿での演奏会を再現した、空想音楽会のシリーズは忘れられない。その後、1970年代半ば、エラートの日本での発売権はRVCに移るが、移った当初は日本コロムビアのような輝きのあるエラートの音が作れず、エンジニアが苦労したと言われている。さらに、1990年代エラートはワーナー・ミュージック・グループの傘下となるが、ワーナー・ミュージック・グループでは1970年代初期音源のCD化にあたってはレコード時代の音質を復活させようとしてマスタリングを当時エラートを担当した日本コロムビアに依頼したという経緯がある。東京赤坂に当時「東洋一」と謳われた日本コロムビアの録音スタジオが完成したのは1965年。この録音スタジオとカッティング室が同一ビル内にあることから、1969年にはテープ録音機を介さず、録音スタジオとカッティング室を直結して、ミキシングされた音を直接ラッカー盤に刻み込むダイレクト・カッティングのLPを発売して音の良さで話題となった。奇しくも同時期に米国シェフィールド・ラボから発売された同じダイレクト・カッティングのLPが輸入盤として注目されていただけに、NHKの放送スタジオのレコードプレーヤーが同社製であることと日本コロムビアはレコード・ファンの好評を定めた。日本コロムビア録音部ではダイレクト・カッティングを経て、1972年のPCM録音機の導入以降、録音機の小型化、高性能化と並行して、様々なデジタル周辺機器の開発へ進む。その後、1981年にはハードディスクを用いたデジタル編集機の登場。そして、1986年、日本から始まったCD化の波は世界中に波及し、CD工場を持たない国内外のレコード会社はこぞって日本にマスターテープを送り、CD生産を依頼してきた。しかし、会社経営母体が日立からリップルウッドに移り、スタジオの廃止は逃れられなかった。
  • Record Karte
  • 1979年リリース。Enregistrement réalisé en janvier, février et mai 1978 en la Communauté Israélite de Strasbourg et en l'église Notre-Dame du Liban à Paris. 見開きジャケット。
Pr?Sentation De L'orchestre /
Jacques Martin & a Lombard
Warner
2005-07-04