パリのモーツァルト ― 時は1778年、エピネー夫人のサロン。親類のマリー=アンヌ嬢は傍らのクラヴサンを弾くよう所望されるが、その鍵盤に触れるのを躊躇う。このクラヴサンこそは12年前、パリを訪れた神童モーツァルトが奏でた楽器だからだ。同席したグリム男爵は、かつて自分が面倒をみた天才少年を懐かしく回想する。そこに突然、知らせが入る。モーツァルトがパリに来ているというのだ。ほどなく、22歳の美青年に成長したモーツァルトがサロンに到着。挨拶もそこそこにクラヴサンの前に坐った彼は、ザルツブルクからパリへの旅の有様を物語る。道中モリエールの「ドン・ジュアン」を読み耽っていたといい、「これをいつかオペラにしたいな」などと口走る。そして、「人の心を掴んで、虜にするのって素晴らしい。パリよ、僕はお前を虜にしたい!」と高らかに唄う。ここまでが第一幕。このあとモーツァルトは、パリの貴族たちの注文で、交響曲(31番「パリ」)やらバレエ(レ・プティ・リアン)やらを作曲する傍ら、貴族の令嬢やら小間使の娘やらと浮き名を流す(第二幕)。心配したグリム男爵は作曲家に向かって、「一刻も早くパリを出発し、そして音楽に専念したまえ」とこんこんと説得。やがて意を決したモーツァルトは、楽しい思い出を胸に、ドイツへと旅立っていく(第三幕)。パリに恋したモーツァルトの、青春の6ヶ月にスポットを当てたシリーズの第1集です。〝パリのモーツァルト〟と題したシリーズはメジャー・レーベルから、商圏の狭いレーベルまでクラシックを専門にするプロダクションが必ず取り上げるストーリーです。曲は、トルコ行進曲付きのソナタ、ヘ長調のソナタ、〝きらきら星変奏曲〟の名前で親しまれている《フランスの歌曲「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」による12の変奏曲》の3曲をひとまとめにしている。スイスの名ピアニスト、ペーター・アロンスキーはチューリヒの生まれ。半世紀以上欧米で活躍しているが、録音はあまり残されていなかった。が、アロンスキーの実力の高さを存分に伝えてくれるのが本盤である。
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しかし、第三幕。曲の方も、「新全集」ではプラートとレームの編集者はこの成立時期を、1783年ウィーンか、またはその年にモーツァルトが新妻コンスタンツェを伴ってザルツブルクを訪問したときと推定している。アルバート・アインシュタインは「1777年にマンハイムで書き下ろされたか、完成された」と言っていたが、だいたいは近年まで1778年の「パリ・ソナタ」の一つと考えられていた。テオドール・ド・ヴィゼワ(Theodore De Wyzewa, ロシア領ポーランド 1862.9.12-1917.4.15)とジョルジュ・ド・サン=フォワ(Georges De Saint-Foix, パリ 1874.3.2-1954.5.26)の「これら4曲はパリの様式を表していて、パリでしか書けない作品だ」とする説をアインシュタインが採り入れた結果である。
エラート(Erato Disques, S.A.)レーベルは、1953年にフランスで創設された。クラシック音楽を中核とし、とりわけフランス系の作品や演奏家の紹介に努めてきた。レーベル名はギリシャ神話に登場するエラトーからとられている。第2次世界大戦後のフランス音楽の復興運動の中で、楽譜出版社エディション・コスタラ社のレコード録音部門として1952年に創設されたERATOレーベルは、知られざるフランス音楽の紹介やフランスのアーティストによる演奏の録音に力を入れ、中でも当時録音の少なかった中世からバロック時代の膨大なレパートリーを続々と録音することで高い人気を誇ったレーベルです。同じLPレコード黎明期にフランスに創設されたデュクレテ・トムソンやディスコフィル・フランセなどのレーベルが活動を休止したり買収されたりしていく中で、ほぼ半世紀以上にわたってその独自の路線を貫き、日本でも多くのファンの支持を得てきました。
Produced For – Barclay Suisse、Recorded By – François Magnenat。1974年リリース。
YIGZYCN
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