34-18077
商品番号 34-18077

通販レコード→仏ダーク・ブルー黒文字盤
パリのモーツァルト ―  時は1778年、エピネー夫人のサロン。親類のマリー=アンヌ嬢は傍らのクラヴサンを弾くよう所望されるが、その鍵盤に触れるのを躊躇う。このクラヴサンこそは12年前、パリを訪れた神童モーツァルトが奏でた楽器だからだ。同席したグリム男爵は、かつて自分が面倒をみた天才少年を懐かしく回想する。そこに突然、知らせが入る。モーツァルトがパリに来ているというのだ。ほどなく、22歳の美青年に成長したモーツァルトがサロンに到着。挨拶もそこそこにクラヴサンの前に坐った彼は、ザルツブルクからパリへの旅の有様を物語る。道中モリエールの「ドン・ジュアン」を読み耽っていたといい、「これをいつかオペラにしたいな」などと口走る。そして、「人の心を掴んで、虜にするのって素晴らしい。パリよ、僕はお前を虜にしたい!」と高らかに唄う。
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本盤は、モーツァルトの4手(連弾)のためのピアノ・ソナタを4枚のレコードに収録した「モーツァルトの4手のためのピアノ作品選集」で、全収録曲は末尾に列記。“4手のための”とあると連弾(1台のピアノを2人で演奏する)のほかに2台のピアノを2人で演奏する曲も含まれるが、ここでは、フリードリッヒ・グルダを含めて当時の日本で“ウィーンの三羽烏”と呼ばれていたイェルク・デムスとパウル・バドゥラ=スコダの2人の名手が連弾の演奏をしている。連弾曲には、親しい2人が弾いて楽しむ趣が強いところであるが、ここでは、それに留まらず十分楽しめるとなっているのは当然である。
戦後、音楽の都ウィーンで3人の若く優秀なピアニストが揃って巣立った。それがフリードリッヒ・グルダ、イエルク・デムス、そしてパウル・バドゥラ=スコダで、以後誰がつけたか「ウィーン三羽烏」と称するようになった。パウル・バドゥラ=スコダは1949年にヴィルヘルム・フルトヴェングラーやヘルベルト・フォン・カラヤンらといった著名な指揮者と共演する。“生きたヒストリカル”。録音数は膨大で、200点以上に達するが、ウィーン古典派、とりわけモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトの専門家である。なかでは一番精力的で今だ現役、モーツァルトの校訂など学術的な活動もこなすスコダ。1927年にウィーンで生まれ。ウィーン音楽学校に入学した2年後、オーストリア音楽コンクールで優勝し、エドウィン・フィッシャーに師事。フィッシャーの死後、ウィーンやザルツブルク、エディンバラ、シエナでマスタークラスの伝統を続けていった。今日でも彼は、自分の貴重な時間と情熱を若い音楽家の育成に捧げ、熱心にアドヴァイスをしている。1949年、ウィルヘルム・フルトヴェングラーとヘルベルト・フォン・カラヤンが、バドゥラ=スコダの並外れた才能に注目し、ザルツブルク・フェスティバルで衝撃的なデビューを果たす。続いてニューヨーク、東京のリサイタルでもセンセーションを起こした。パウル・パドゥラ=スコダのレパートリーは大変広いが、中で最も素晴しいのはやはりモーツァルト、シューベルト、ベートーヴェンなどウィーン古典派音楽、及びシューマン、ショパン、ドビュッシーなどロマン派音楽である。フリードリヒ・グルダとイェルク・デームスと彼を「ウィーン三羽烏」と称する。中でも最も多く日本で演奏会を持ったのはバドゥラ=スコダで、リサイタルも津々浦々まで出向き、NHK交響楽団や東京都交響楽団とも何度も共演してファンを喜ばせている。彼のLPレコードは何年もの間、ピアニストとして発売枚数第1位を保持した。また、演奏活動に加えて、指揮、作曲、執筆活動にも携わるほか、膨大な量の自筆譜や初版のマイクロフィルム、歴史的な様々な鍵盤楽器のコレクションも行う。現在もレコーディングを続け、最近では、アストレー・レーベルからドビュッシーとブラームスをレリースし、三度目のベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲も録音している。また、モーツァルトの協奏曲の全曲録音も進行中である。そんな彼の録音全体を追うとレコード媒体の歴史を語ることもできそうに思える。
第2ピアノのイェルク・デムスは2011年春、東日本大震災後に多くの海外アーティストが日本でのコンサートを中止、延期する中で来日し、コンサートを行ったことでも話題になった有名なピアニストの一人であると言えよう。体全体から溢れる詩情と美しい抒情、はかり知れない熱情で、多くの聴衆に、深く新鮮な感動を刻みこんできた稀有なピアニストと思います。ニーダーオステルリッツのセント・ポルテンで1928年12月2日に生まれ、6歳の時からピアノを学ぶ。ワルター・クレッチュバウマーとエドウィン・フィッシャーにつき、一方ヨーゼフ・クリップスに指揮法を学んでいる。デームスはわずか14歳のとき既にウィーン楽友協会のコンサートでデビューし、1956年ブゾーニ国際ピアノコンクールで第1位を獲得。更に、ギーゼキング、イヴ・ナットのもとで研鑚を重ね、世界的なピアニストとしての地位と名声を不動のものとしていった。レコード録音も多数あるが、殊にドビュッシーの全曲、シューマンの全曲録音は歴史に残るもの。パドゥラ=スコダ、フリードリッヒ・グルダと共に、ウィーンの若手ピアニストの三羽烏と言われるデムスは、シューマン、ブラームス、シューベルトに抜群の演奏を聴かせ、パドゥラ=スコダとは良きライヴァルであると同時に朋友として屡々共演を行っている。ウィーンの三羽烏と言われたスコダと組んで残してくれたこの一連のモーツァルトが素晴らしいのは云うまでもありません。
モーツァルト親子を描いた1780年の肖像画は、ウォルフガングが姉のナンネルとチェンバロの鍵盤に向かって連弾をしている光景を写している。これは、モーツァルト姉弟の連弾が、各地の宮廷やサロンでもてはやされていたこと、それと同時に、当時すでに連弾という形式がかなり好まれていたことを物語る一つの証拠ともいえよう。本盤はモーツァルトが作曲した連弾曲(普通四つ手用とか、四手用といっている)の曲と、ピアノの二重奏用(これも普通は2台のピアノ用という)のソナタ。これらは同じように2人のピアニストが、別々のスコアによって合わせるという点では一応似ている。しかし、四つ手のためのピアノ曲と、2台のピアノのための曲とは本質的に別種の性格を持つ音楽なのだ。つまり、四つ手の方は、1台のピアノに向かって2人のピアニストが並んで坐り、プリモ(鍵盤に向かって右側、つまり高音部を主として受け持つ)とセカンド(鍵盤に向かって左側、低音部を大体において担当する)というふうに各自別個のパートを合奏する。いっぽう2台ピアノの曲は、そうした音域には関係なく、2人がそれぞれ別のピアノを弾きつつ合奏する。そこで2台ピアノの曲は、音量も2台だから、1台のピアノによる四つ手連弾とは比べ物にならないし、表現も一段とスケールの幅を広げる。そして、ソナタもここに聴かれる(K.448)ように、しばしばピアノ・コンチェルト的な様相を見せながら華麗なパッセージやソロとトゥッティの交代などという効果的な表現が試みられる。必然的にそこでは多くの声部を用いることが可能だから、たいそうシンフォニックな響きを出し得る。だから、ものによると、交響曲や協奏曲のスケッチか編曲のような印象を与える作品も生じてこないでもない。シューベルトの『大二重奏曲』作品120などのように、交響曲になり損なったような感じの大曲もあるし、あとにはブラームスなどは、盛んに協奏曲や交響曲をピアノ2台用の曲として考えていたものを改編して、幾つもの傑作を生み出していったものである。こんな風に、演奏会向きの効果を見せるコンチェルト・タイプの2台ピアノ用の曲と比べると、まず四つ手用の連弾曲の場合は、寧ろ、アットホームな音楽として、サロン向きの合奏そのものを楽しむといった用途に向かって発達してきた。また、時には教師と生徒の学習用の合奏としても、これほど便利な形式も他にない。こういう標本的な差は、モーツァルトの曲を集めたこのレコードでも非常にはっきりと現れてきている。同じように、どちらも、いかにもモーツァルト的な音楽であっても、そうした変化の楽しさは、また格別であり、ピアノの好きなファンにとっては、この上ない秘められた喜びの一つとも言えるのではないだろうか。
1787年5月28日の早朝にモーツァルトの父レオポルトが亡くなっているが、父の死を知らないモーツァルトはその翌日にこの曲(ハ長調 K.521 は、モーツァルトが31歳の時にウィーンで作曲。モーツァルトの親友ゴットフリートとピアノの弟子で美貌の才媛として知られたフランツィスカのジャカン兄妹に捧げられた。)を完成させたという。そのソナタほど、わずらわしさがなく、生命の喜びに満ちた作曲はモーツァルトの全作品中でも見出し得ない。父親から独立したかったモーツァルトにとって、皮肉なことにも感じられる。ヘ長調 K.497 は、モーツァルトが30歳の時にウィーンで作曲、1786年8月1日に完成した。その書法は対位法様式が、まったく有機的に、和声や朗唱の効果と合致している。これが、交響曲や協奏曲のスケッチか編曲のような印象を与える作品の典型といえる、これらを以って音楽学はまさしく、このソナタをモーツァルトの最後の3つの交響曲の傑作のための理想的な前段階として認めている。
Produced For – Barclay Suisse、Recorded By – François Magnenat。1974年リリース。
FR ERATO  STU70899 ピーター・アロノスキー  モー…
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