聴き終わった時に、あなたはもっと成熟した色気の虜になっているでしょう。 ― 作家フリードリヒ・ニコライ(1733~1811)の著作『ウィーンの音楽について』(1784年)に
どちらかといえば熱心で熟練したウィーンの音楽愛好家たちの多くは、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハについて語ることに無関心であるだけでなく、内に敵愾心を持っている。クラヴィーアに関するかぎり、彼にとってはヨーゼフ・アントン・シュテファン(1726~1797)とレオポルト・アントニーン・コジェルフ(1747〜1818)がすべてであった。とある。ニコライはベルリン出身ゆえに、北ドイツ語圏の代表的なクラヴィーア音楽の作曲家であるバッハを引き合いに出しながら、当時のウィーンで活躍した、ボヘミア出身の2人の作曲家が高い人気を誇っていたことは確かなことだ。記憶している方も少なくない作曲家、ヤン・アントニーン・コジェルフ(1738〜1814)は従兄。父親アントン・バルトロメウスは教師であり、娘カタリナはピアニストになった。この従兄に作曲を師事したコジェルフは、プラハの大学で法学を修めたうえで、プラハ国立劇場に作曲家デビュー。24歳から7年間の間に約25曲のバレエ音楽を作曲し高く評価されました。1778年にウィーンに上京し、短期間のうちに名ピアニストへと腕を上げ、ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイルの後任として、オーストリア帝室音楽教師に就任。クラヴィーア奏者、作曲家、教師として活動することとなった。つまりモーツァルトがザルツブルクの大司教と決裂してウィーンに移り住む3年前のことで、モーツァルトの弟子でもあった盲目のピアニスト、パラディス嬢もコジェルフにクラヴィーアを習いました。3年後に同地へ移住して来るモーツァルトと同じように、彼はフリーランスの音楽家だったのである。1780年に崩御したマリア・テレージアを悼む葬送カンタータを作曲しているところからも、ウィーンでの彼の名声はモーツァルト登場以前に確立していたことが窺えるだろう。1781年には、モーツァルトが去った変わりを埋めさせたかったザルツブルク大司教の専属オルガニストの職を断っている。この頃には、モーツァルトとコジェルフは交友関係があったのは間違いなく、少なくとも前者が後者を同業者として強く意識していたのは間違いない。1791年にモーツァルトが亡くなると、コジェルフは新皇帝のレーオポルト2世よりモーツァルトの跡を継いで、1792年にウィーンの宮廷作曲家に任命され、帝室宮廷楽長を兼務し名実ともにウィーンを代表する音楽家の一人となった。俸給は宮廷に嫌われたモーツァルト(700フローリン)の倍以上の1700フローリンだった。教育活動にも専念し、特別な弟子は自宅で個人指導した。コジェルフは70歳で亡くなるまでウィーンで活発な活動を続けました。シンフォニー、室内楽、バレエ音楽、宗教音楽など幅広い分野に及んでいますが、自身優れたクラヴィーア奏者であったこともあり、多数のクラヴィーアのための作品を残しています。
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初期のフォルテピアノのために書かれたソナタの中でも、50曲ほどあるレオポルト・アントニーン・コジェルフの作品は突出しており、ハイドンとベートーヴェン、シューベルトを繋ぐ橋渡しとしての役割も備えています。当時の多くの作曲家が最も音楽的と賞賛した鍵盤楽器は、人間が歌うように演奏できる楽器だった。その楽器とは、蚊の鳴くような音量のクラヴィコードである。モーツァルトやハイドンの初期のソナタはクラヴィコードを対象に作曲されていた。重量も音量も小さく形状も長方形で小型だったクラヴィコードは、中部ドイツや北ドイツでは練習用、教育用の楽器としても盛んに使用され、庶民の家庭生活にも最も溶け込んだ楽器だったのである。18世紀は、「クラヴィコード全盛の時代」であった。クラヴィコードは、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)が最も好んだ鍵盤楽器とされ、息子のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714~1788)も、著書『正しいクラヴィーア奏法』の中で最も優れた鍵盤楽器であると強調し、そのため彼の優れた鍵盤作品の多くはクラヴィコードのために書かれている。実践に優れた音楽家であったC.P.E.バッハは、マンハイム楽派とともにクラヴィーア・ソナタにおいて、急 ― 緩 ― 急の3楽章ソナタの形式の確立や、単主題から複主題をもつソナタ形式の発展を押し進め、古典ソナタ形式の成立に重要な役割を果たした。その過程で使用された楽器は、主にクラヴィコードであった。モーツァルト(1756~1791)は晩年の「魔笛」や「レクイエム」を愛器のクラヴィコードで作曲している。フィレンツェのメディチ家お抱えの楽器製作者バルトロメオ・クリストフォリ(1655~1731)は、1700年までにハンマーで弦を打ち、ダンパーを有する楽器を発明していたとされ、その生涯に製作した20台のフォルテピアノは、現代ピアノの基本的な構造は既に備えられていた。ピアノという楽器の名称は、「グラーヴェチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(Gravecembalo col piano e forte)」=弱くも強くも演奏できる大きなチェンバロからきている。チェンバロのような輝きとイタリア特有の開放感のある音色をもち、更にピアニッシモで〝優しく柔らかくそっと弾く〟ことができる、このフォルテピアノはバロック時代後半に生まれ、古典派のプロローグの時代に発展し、続く古典派の作曲家たちに大きなインスピレーションを与えることになった。
チェンバロはバロック音楽の形も影もなく、初期ルネサンス音楽が、ようやく形成される14世紀前夜の1397年にオーストリアで生まれた。ルネサンス音楽は、中世西洋音楽とバロック音楽の中間に位置し、その中心をなすのは、ポリフォニーによる声楽、とくに、宗教曲である。現代にみる指揮者という存在がなかったので、音程を整え、テンポを維持する通奏低音楽器として弦楽器より、簡単に発音できるチェンバロは便利重宝され、アルプスを越えてイタリア、フランス、イギリスに広まり、クラヴィチェンバロ、クラヴサン、ハープシコードと、それぞれの名称を与えられて各国独自のチェンバロ文化が開花した。フランスでは、いわゆる18世紀フランス音楽における〝良い趣味〟として、高貴な響きと豊富なニュアンスが求められて、数多くの装飾音に限りないニュアンスを与えるような演奏が保証されていた、チェンバロが隆盛を極め、美術品としても貴族社会で持て囃された。フランソワ・クープラン(1668~1733)、ラモー(1683~1764)等による優れたチェンバロ独奏曲が残され、その作品すべてがチェンバロを美しく響かせる術を心得ていた。このことはフランスに特有な現象であった。つまりチェンバロは、フランスにおけるこの時代の音楽の理想を最もよく表現し得る楽器であったが、ドイツ・オーストリアを中心とする前古典派の諸楽派が各地に誕生し、多感様式の新しい音楽(シュトルム・ウント・ドランク=疾風怒濤)が生まれた18世紀後半には衰退してしまった。通奏低音を必要としなくなった、この楽派の音楽にチェンバロの役割は大きく減ってしまったのである。モーツァルトやベートーヴェンが、このピアノの発達段階に呼応する傑作を数多く残している、この130年間は、チェンバロ、クラヴィコード、フォルテピアノと3つの個性的な鍵盤楽器が共存する時代であったことは、あまり人々に意識されてはいない。ポルトガルからスペイン宮廷へ嫁いた王妃マリア・バルバラの音楽教師であったドメニコ・スカルラッテイ(1685〜1757)は、72歳までの生涯に王妃のために500曲にのぼるソナタを作曲したといわれている。彼の没年の3年後に亡くなった王妃の遺産目録には12台の鍵盤楽器があり、そのうちの5台がフォルテピアノ、7台がチェンバロであるとされている。クラヴィコードはそれほど高価ではないため、所有はしていても目録に記載されなかったと推測される。1700年にクリストフォリがピアノフォルテを初めて製作してから、現代のピアノの形に落ち着くのは1830年の頃で、シューマンやショパン、リストが20歳の時である。
現代のグランドピアノ(家庭用)は、最低音ラを空手のような強いタッチのフォルテッシモで打鍵すると、だいたい70秒ほどの間を鳴り響いている。最高音で5秒程度である。弦の総張力17トンを支える鋼鉄フレームをもつ現代のピアノから考えるとチェンバロは、あまりにも華奢で、同様に空手のようなタッチで打鍵すると粉々に砕け飛んでしまうような楽器であった。この楽器からショパンの音楽のように美しい旋律が弱音の音数の多いアルペジオの伴奏にのって演奏されるという発想は当時の楽器の性能上、考えられないことであった。ピアノの完成とロマン派ピアノ芸術の巨匠の誕生が同時期にスタートし、現代までの180年間の間に人々に愛される多くのピアノ・レパートリーが形成されてきた。ベルリン楽派(北ドイツ楽派)を代表する大作曲家として、プロイセン宮廷でフリードリヒ大王に仕えたカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの音楽は、幻想的で甘美な憂愁、焦がれるような愛、別れの悲しみ、魂と神との会話、不安な予感、荒れ狂う嵐、楽園の嵐の一瞥などの劇的な語法に富んでいた。主観としての激しい感情や情景は、〝大胆な転調〟〝音の跳躍〟や〝突然の休止〟などの作曲技法によって表現され、この主観性により古典派を超えて19世紀のロマン派と強く結び付いている。フォルテやピアノ、クレッシェンドやディミニュエンドなど音量にかかわる「ダイナミックス」や「ディナーミク」とは、本来人間の持っている感情を、音楽を通じてどう表現していくかという意味である。バロック時代においては、歌心とは〝精神的な意味〟だけを指し、演奏表現として求められるものではなかったため、フォルテやピアノなどの感情の抑揚につながるダイナミックスは楽器の数によるものや音源との距離によるものなど、単純明快な捉え方であった。モンティベルディ作曲の歌劇「オルフェウス」では、オルフェウスが冥界のエウリディチェとの会話をする場面で、あの世から聞こえる歌はピアノで、現世から冥界へ呼びかける歌はフォルテで表現している。それが18世紀には、単純明快な表現から多感様式による複雑な表現へ進化した。18世紀中葉から後半にかけファルツ選帝侯領の首都マンハイムに赴任したカール・テオドール(1724~1799)は、彼自身も優れた音楽家であったため音楽活動や音楽施設に多額の出費を惜しまず、ヨーロッパ各地から有能な音楽家を選抜して宮廷に招き、その宮廷オーケストラは当時、国際的な音楽市場であったパリやロンドンでの演奏で評判になった。
さらに、演奏だけではなく優れた作品を数多く生み、それらはパリやロンドン以外にアムステルダムでも出版されたことは大きく、後に続く多くの作曲家に影響を与えた。クレッシェンド、ディミヌエンド、あるいは爆発するようなフォルテやフォルテッシモなどのディナーミクを効果的に使用したマンハイム楽派は、ヴァイオリンを旋律とするホモフォニックな様式をとる、ソナタ形式や交響曲という作曲技法の発達を促し、また、管楽器を重視し、オーケストラに豊かな色彩感をもたらす演奏技法の発展を促し、続く古典派音楽の形式・様式の完成に大きな貢献を果たしたとされている。斯くも、バロック時代、及び前古典派におけるフォルテとピアノの意味は、ベルリオーズの「レクイエム」を紹介した時に挿入した、昨年末のNHK交響楽団「第九演奏会」の話に連なる。フォルテピアノが産声を上げた当時の有弦鍵盤楽器の双璧、つまりクラヴィコードとチェンバロが、当時の作曲家や愛好家にどのように使用されていたかを、ここにみてとれる。ウィーンやハンガリーで宮廷楽長を務めた室内楽の天才クロンマー、父ヨハンが創設したマンハイム楽派の第2世代を代表するカール・シュターミッツ、作曲家、楽譜出版社、そしてピアノ製作家という様々な顔を持ったオーストリアの偉才プレイエル、ボヘミアで生まれベートーヴェンの交響曲第1番の初演者でもあるヴラニツキーに、18世紀ウィーンにおけるチェコ音楽の第1人者コジェルフは、モーツァルトと同世代を生きた19世紀の5傑。フリーランスの音楽からが結集していた、ウィーンの音楽界ではモーツァルトのピアノ協奏曲が人気を博しており、もちろん、コジェルフもこれらの作品を耳にしたことはまちがいありません。そのせいか、至るところにモーツァルトの影響も感じられます。そういうところが、モーツァルトの偉大すぎる才能の影に隠れる結果になったのかもしれません。モーツァルト円熟の5大コンサート・アリアに、最後の歌劇「皇帝ティートの慈悲」のアリアに、モーツァルトが17歳の時に作曲したモテットが同居している本盤でも、コロレド大司教が歌詞を書いたとされる《エクスルターテ・ユビラーテ(踊れ、喜べ、幸いなる魂よ)》が違和感ないだけでなく、さしずめ声楽と管弦楽のための協奏曲のような構成になっている。その独創性においても、なんと素晴らしいことか。太刀打ちできるものはないだろうほどに、コジェルフのソナタにはハイドンやモーツァルトほどの革新性はないものの、明らかに当時最高の人気を誇っていただけの優雅さがあり、また曲によっては驚くほど劇的な表現も含んでいるという興味深いものです。作曲家デビューの前に、法学を修めたことはコジェルフの名跡を現代にまで伝えることに役立っているだろう。
晩年のレオポルト・コジェルフは宮廷作曲家としての仕事や教育活動に専念し、作曲活動はイギリス各地の民謡編曲などに限られていた。ベートーヴェンやシューベルトが既に充実した活動をしていた1818年の5月7日、彼はウィーンで没している。コジェルフはすでに存命中からヨーロッパ全土で評価を受けていた。しかし最晩年になると多くの批評家から、書き飛ばしているという非難の声が次第に高くなっていった。モーツァルトやベートーヴェンから受けた歯に衣着せぬ酷評は、今日になるまで忘れられていない。とはいえ、ベートーヴェン、シューベルトへの影響ははかり知れない。事実、彼の数作品は長らくベートーベンのものと誤認されていたほどである。その中で、ハ短調のソナタでは、やはり同じ調のモーツァルトのソナタが思い起こされ、全体的に優雅で、味わい深いものがありました。ただハ短調でありながら、終楽章は、これ以上ないくらいに明るく、残念ながらモーツァルトの深遠な世界とはほど遠いものがありました。モーツァルト以上に人気作曲家だったコジェルフは、モーツァルトの偉大すぎる才能の影に隠れる結果になったのかもしれません。しかし、自身フリーランスの音楽家だっただけに、同時代の作曲家たちにとって多大な恩恵となった存在であったことだけは忘れられることはない。コジェルフは、ロンドンで活躍したムツィオ・クレメンティと同じように、ウィーンで楽譜の出版事業を行いました。1785年に弟のアントニーン・トマーシュ・コジェルフ(1752~1805)とともに「ムジカリシェス・マガザン(Musikalisches Magazin)」なる名の出版社を興している。この出版社は1802年頃まで活動し、その主目的は自作出版であったが、イギリスの有名な出版会社のウェルシュなどと提携して、クレメンティ、プレイエルなどの人気作曲家の幅広い作品を世に紹介しました。モーツァルト作品も、《魔笛》K.620が初演された直後の1791年12月には、このオペラの13のナンバーを歌とクラヴィーアのために編曲した版を販売している。
Exsultate, Jubilate - Ch'Io Mi Scordi Di Te? - Le Nozze Di Figaro - La Clemenza Di Tito...
Side-ASide-B
- Aria Di Madama Lucilla, KV 583 演奏会用アリア「私は行ってしまうわ、でもどこへ」
- Aria Di Sesto, KV 621 歌劇「皇帝ティートの慈悲」からセストのアリア「行きます、でも愛するお人よ」
- Aria Di Madama Lucilla, KV 582 演奏会用アリア「判らないわ、何なのか」
- Recitativo & Rondo Di Idamante, KV 505 演奏会用レチタティーヴォとロンド「どうしてあなたを忘れられましょう」「心配しないで、愛する人よ」
- Rondo Di Susanna, KV 577 演奏会用ロンド「あなたに焦がれる私のところに」
- Arietta Di Susanna, KV 579 演奏会用アリア「喜びの高鳴りを」
- Motet, KV 165 モテット「エクスルターテ・ユビラーテ(踊れ、喜べ、幸いなる魂よ)」
女声版ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウと称されるほど、バロックから近現代まで驚異的に幅広いレパートリーを誇ったデイム・ジャネット・ベイカーの肌理細やかなニュアンスを施した歌唱。ベイカーの声はしっかりした芯がキリッとした印象を与え、歌の強さを誇示せんばかり。クラシックを聴く人は知らない人はいないでしょう。しっかりと芯を感じる筋の通った歌唱。冷徹な色気とでもいうような気配が漂います。1933年生まれのイギリスのメゾ・ソプラノ。ベイカーは、サー・エイドリアン・ボールトやサー・ジョン・バルビローリ、オットー・クレンペラーといった巨匠たちから信頼されて、英デッカや蘭フィリップスに多くのレコーディングを行なってきた。ベイカーの声は、キャリアの最初は低音寄りで、次第に高域が充実するという変化を見せましたが、解釈は常に緻密・正確で、声のコントロールにも秀でており、オーケストラ付き大作などでの高度な表現力には定評がありました。楽曲のメロディーラインがはっきりしてくると、主旋律をクッキリ浮かび上がらせるようにはっきりと歌います。1956年にキャスリーン・フェリアー賞を受け、ザルツブルクのモーツァルテウムに留学、1959年にロンドンの王立音楽アカデミーで女王賞を授与され、1960年に歌手としての本格的な活動を開始、ロンドンやエディンバラのリサイタルで成功を収めた。1962年にはクレンペラー指揮するマーラーの『復活』で評判となり、1966年からはロイヤル・オペラやグラインドボーンでのオペラの舞台でも活躍するようになります。グラインドボーン音楽祭でパーセルの「ディドとエネアス」のディドを歌い、絶賛を博したベイカーは、バロック・オペラを初め、モーツァルト、ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスから、ブリテンなどのオペラで活躍する一方、バッハのロ短調ミサのような宗教曲や、スカルラッティからマーラーにいたる歌曲などのコンサート歌手としても卓越した才能を発揮した。温かみのある美声と正確な歌唱は高く評価されており、真摯な学研的姿勢はそのレパートリーの広さにも表れている。
レイモンド・レッパード(Raymond Leppard)は、1927年8月11日にイギリスのロンドン生まれ。サー・コリン・デイヴィスと同世代。ケンブリッジのトリニティ・カレッジでチェンバロを学んだ。そして、1952年にロンドンで指揮者としてデビューし、イギリス室内管弦楽団との共演によってバロック音楽の指揮者として、またチェンバロ奏者としても名声を博し、1956〜1968年にはロイヤル・シェイクスピア劇場の音楽監督をつとめ、グラインドボーン音楽祭でも活躍した。1973〜1980年、BBCノーザン室内管弦楽団の首席指揮者となったが、1977年にアメリカに移って市民権を得ており、1983年からはセントルイス交響楽団の首席客演指揮者を務めた。日本との関係は1970年、大阪万博にイギリス室内管と来日している。レッパードは、ヴェネツィア楽派の研究でも知られており、モンテヴェルディのマドリガーレ集(1971年)や2度目の録音となったパーセルのディドとエネアス(1985年)はその代表盤である。しかし、そのレパートリーをバロック音楽に限定せず、古典派やロマン派、さらに近代の作品でも、その時代と様式を的確に捉えて溌剌と端正な演奏を聴かせてくれる。イギリス室内管とのグリーグの「ペール・ギュント」組曲(1975年)の澄んだ詩情を豊かに湛えた演奏も味わい美しく、レッパードの才能が爽やかに示された佳演だった。
フランスのエラート・レーベルが最初に日本で紹介された時は、日本コロムビアからの発売だった。フランスに数多く残るバロック音楽ゆかりの宮殿での演奏会を再現した、空想音楽会のシリーズは忘れられない。その後、1970年代半ば、エラートの日本での発売権は RVC に移るが、移った当初は日本コロムビアのような輝きのあるエラートの音が作れず、エンジニアが苦労したと言われている。さらに、1990年代エラートはワーナー・ミュージック・グループの傘下となるが、ワーナー・ミュージック・グループでは1970年代初期音源のCD化にあたってはレコード時代の音質を復活させようとしてマスタリングを当時エラートを担当した日本コロムビアに依頼したという経緯がある。東京赤坂に当時「東洋一」と謳われた日本コロムビアの録音スタジオが完成したのは1965年。この録音スタジオとカッティング室が同一ビル内にあることから、1969年にはテープ録音機を介さず、録音スタジオとカッティング室を直結して、ミキシングされた音を直接ラッカー盤に刻み込むダイレクト・カッティングのLPを発売して音の良さで話題となった。奇しくも同時期に米国シェフィールド・ラボから発売された同じダイレクト・カッティングのLPが輸入盤として注目されていただけに、NHKの放送スタジオのレコードプレーヤーが同社製であることと日本コロムビアはレコード・ファンの好評を定めた。日本コロムビア録音部ではダイレクト・カッティングを経て、1972年のPCM録音機の導入以降、録音機の小型化、高性能化と並行して、様々なデジタル周辺機器の開発へ進む。その後、1981年にはハードディスクを用いたデジタル編集機の登場。そして、86年、日本から始まったCD化の波は世界中に波及し、CD工場を持たない国内外のレコード会社はこぞって日本にマスターテープを送り、CD生産を依頼してきた。しかし、会社経営母体が日立からリップルウッドに移り、スタジオの廃止は逃れられなかった。
エラート(Erato Disques, S.A.)は古楽録音で大きな実績をもつ最古参レーベルです。レーベル名はギリシャ神話に登場する文芸の女神・エラトーからとられている。独立系レーベルとして1953年にフランスで設立された。芸術責任者のミシェル・ガルサンの下、フランスのアーティストを起用した趣味性の高いLPを数多く制作し、クラシック音楽を中核とし、とりわけフランス系の作品や演奏家の紹介に努めてきた。その中心的なレパートリーはバッハ以前の古楽だった。日本ではバロック音楽すべてが含まれる場合もありますが「古楽」は、古典派音楽よりも古い時代の音楽=中世、ルネッサンス、ごく初期のバロック音楽の総称です。作曲された時代の楽器、演奏方法は、時代を経るにつれ変遷を遂げてきています。近年の「古楽」ジャンルの録音は、19世紀から20世紀にかけて確立されたクラシック音楽の演奏様式ではなく、現代の楽器とは異なる当時の楽器で、音楽史研究に基づいて、作曲当時の演奏様式に則った演奏によっています。但し、オリジナル楽器録音への取り組みはやや遅く、本格化するのはフランス系以外の奏者を積極的に起用するようになった1980年代以降。中心を担ったのはトン・コープマン、ジョン・エリオット・ガーディナー、スコット・ロスといった、グスタフ・レオンハルトたちよりも一世代後、かつフランス人以外の演奏家たちである。
1985年、ステレオ録音。
YIGZYCN
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