通販レコード→仏ラージドッグ・セミサークル銀文字・初期フラット盤[オリジナル]
FR EMI FALP115 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー ベートーヴェン・交響曲7番
《不滅のアレグレット ― 第2楽章は、ことによるとクレンペラーを凌ぐかもしれない。心の通いきったヴィオラ、チェロは、これこそ本当の精神の音で曲が盛上るにつれて感動の波が高まり、クライマックスに於ける昇華された涙の表現はフルトヴェングラーの独壇場である。》 「第7はある意味では最もフルトヴェングラー向きの作品ではないだろうか。たとえばフィナーレだが、この踏み外し寸前の情熱、そのアッチェレランド効果の凄まじさ、オーケストラの生々しい鳴らし方はドラマチックな解釈の最高峰で、かのクレンペラーと両極を成し、立派さにおいてはクレンペラーを、音のドラマにおいてはフルトヴェングラーを採るべきであろう。 第2楽章はことによるとクレンペラーを凌ぐかもしれない。心の通いきったヴィオラ、チェロはこれこそ本当の精神の音で、曲が盛上るにつれて感動の波が高まり、クライマックスにおける昇華された涙の表現はフルトヴェングラーの独壇場である。 その他、第1楽章のものものしい序奏部、スケルツォの前進してやまない運動性も抜群で、緩急自在であり、とくに速い部分のスピード感は圧倒的だ。これに対し、中間部では思い切ってテンポを落とし、ウィンナ・ホルンのフォルテピアノやその後の酔いしれたリタルダンドも強い印象を与える。」と音楽評論家の宇野功芳氏は解説する。
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商品名 | FR EMI FALP115 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー ベートーヴェン・交響曲7番 |
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第2次世界大戦時中もドイツに残り、ひとり指揮をし続けたという大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1986〜1954年)。べートーヴェンの交響曲第7番の第2楽章をさして、その圧倒的な音の説得力に大作曲家ワーグナーが敬愛して「不滅のアレグレット」と称した。「不滅のアレグレット」である第2楽章は歩くようなゆっくりとした揺るぎのないテンポで、一分の隙も無く静かに歩を進める。まるで葬送行進曲のようだ。そこへ、木管楽器クラリネットの調べが天からの声のように聴こえてくる。軽さがまったくみられない音楽に心が揺さぶられるようだ。一転して最後の第4楽章は、まさに疾風怒濤。凄まじいばかりの嵐が風を運び、波が激しく打ち寄せるような圧巻の演奏のうちにフィナーレを迎える。戦時中の1943年10月演奏会場がベルリン・フィルの当時の本拠地だった旧ベルリン・フィルハーモニーでのものだった。 ― しかし、その後、1944年1月のベルリン大空襲の際、ホールは炎上し焼け落ちてしまった。 ― この43年の第7番は 76cm/s で磁気テープ録音された素晴らしい「不滅のアレグレット」だ。ドイツが敗戦し第2次世界大戦は終結。戦後、戦犯の疑いをかけられたフルトヴェングラーが非ナチ化裁判の末、晴れて無罪放免。1947年、手兵ベルリンフィルとともに再び活動を開始し、その3年後の1950年1月にウィーン・フィルと挑んだベートーヴェンの交響曲第7番のスタジオ・セッション録音です。
ここでは弦楽器の美しいウィーン・フィルの特質が活き、十分に歌わせ柔らかく艶やかな音色が音楽に寄り添って、第1楽章から明るい響きでウィーン・フィルの魅力一杯。 序奏、響きは柔らかい。木管、ホルンと穏やかに歌いこまれる。ヴァイオリンの静謐な弱音。勢いと音量を増し、ヴァイオリンとコントラバスの高音と低音が明瞭に奏でられる。コントラバスからヴァイオリンへの低音から高音への推移も明瞭。 第1主題、「無からの生成」の間とエレガントな「生成」のすばらしさ。コントラバスのソフトな太さからヴァイオリンの高貴な高音まで、美しいサウンドが過不足なく奏でられてくる。 第1、第2ヴァイオリンの掛合いの鮮明さ。第2楽章のチェロのレガートが美しい。1943年演奏と比べて流れを重視した音楽運び。チェロ、コントラバス共に明晰、明瞭。チェロ、ヴィオラ、ヴァイオリンの音色も素晴らしい。チェロの音色が圧巻。生々しく艶がある。 第1、第2ヴァイオリン、コントラバスの高音と低音のコントラストのバランス。 第2部「不滅のアレグレット」は、木管群とホルンがソフトにまろやかに歌われる。第3楽章での緩やかに、時にシャープに刻まれるリズム。自然な流れの良さ。トリオ、通奏のヴァイオリンが清々しい。ソフトに堂々と構築されるフォルテシモ。終楽章は速いテンポでも各楽器が瑞々しく細部に至るまで鳴りきっている。 ダイナミックレンジ、ワイドレンジは自然な範囲での最大限。ソフトで厚みのある、そして、ここぞというところで唸りと、うねりを聴かせる低弦。浮揚する伸びのある高域。音色と分離が明瞭で豊かな音。演奏を堪能できフルトヴェングラーが1音1音に込めた意図が余すところなく再現されていく。
先輩格のニキッシュから習得したという指揮棒の動きによっていかにオーケストラの響きや音色が変わるかという明確な確信の元、自分の理想の響きをオーケストラから引き出すことに成功していったフルトヴェングラーは、次第にそのデモーニッシュな表現が聴衆を圧倒する。当然、彼の指揮するオペラや協奏曲もあたかも一大交響曲の様であることや、テンポが大きく変動することを疑問に思う聴衆もいたが、所詮、こうした指揮法はフルトヴェングラーの長所、特徴の裏返しみたいなもので一般的な凡庸指揮者とカテゴリーを異にするフルトヴェングラーのキャラクタとして不動のものとなっている。全く機械的ではない指揮振りからも推測されるように、楽曲のテンポの緩急が他の指揮者に比べて非常に多いと感じます。しかし移り変わりがスムーズなため我々聴き手は否応なくその音楽の波に揺さぶられてしまうのである。フルトヴェングラーはブラームスを評して「非常に客観的な音楽家」といい、「音楽における客観とは、音楽と精神、精神と音楽が結び付いてひとつになった時に起こるのである」といっています。この偉大な指揮者はブラームスの音楽は彼の哲学そのものであると喝破したのです。それは、そのままベートーヴェンにも当てはまり。それがドイツの交響曲に対する彼の表現方法なのだろう。
フルトヴェングラーの音楽を讃えて、「音楽の二元論についての非常に明確な観念が彼にはあった。感情的な関与を抑制しなくても、構造をあきらかにしてみせることができた。彼の演奏は、明晰とはなにか硬直したことであるはずだと思っている人がきくと、はじめは明晰に造形されていないように感じる。推移の達人であるフルトヴェングラーは逆に、弦の主題をそれとわからぬぐらい遅らせて強調するとか、すべてが展開を経験したのだから、再現部は提示部とまったく変えて形造るというような、だれもしないことをする。彼の演奏には全体の関連から断ち切られた部分はなく、すべてが有機的に感じられる。」とバレンボイムの言葉を確信しました。これが没後半世紀を経て今尚、エンスーなファンが存在する所以でしょう。しばらくカラヤンを聞き続けた耳には、伝統的なそれは、どんより曇った暗い演奏に聞こえるに違いない。しかし、この曲はカラヤンもフルトヴェングラーの延長線上にいる。
戦後のスタジオ録音はフルトヴェングラーの録音の中では音が良い。 ― 一概にフルトヴェングラーの音が悪いというのは、演奏された響きに対して録音の響きが浅いのだ。 ― フルトヴェングラーの EMI 録音のなかではLP盤での音質は抱えている問題が知られている。テープ録音でしたが市場的にSPレコードが標準だったためSP盤プレス用の原盤が完成した段階でオリジナルテープは処分されている。磁気録音テープは貴重で次のセッションに使われたと思われる。発売されるまでは大ヒットする録音かは、わからないから仕方ない。こうした反省が1960年代後半になって、ようやく商品として認められたLPレコード時代になって英DECCAが、セッションの録音エンジニアやプロデューサーが原盤のカッティングまで責任を持つ動きになったのでしょう。フルトヴェングラーの録音はSP盤で聴く音が一番素晴らしい。LP初版があるのは独エレクトローラの WALP や仏パテの FALP くらいで、本家英 EMI から ALP での販売がありませんでした。
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