気高いフレージングと物狂おしい抒情性 ― ソプラノ歌手リュシエンヌ・ブレヴァルがガブリエル・フォーレに《ペネロープ》の作曲を勧めたのは1907年1月のことである。若きルネ・フォーショワの台本を用いるという提案だった。このオペラは1907年4月に着手され、1912年8月に完成している。1913年4月にモンテカルロで行われた初演ではブレヴァルがペネロープ、シャルル・ルスリエールがユリッスを演じ、大成功を収めた。《ペネロープ》はシャンゼリゼ劇場の杮落とし公演(1913年5月)としてパリで上演された際にも大反響を呼んだ。ところが、秋になるとシャンゼリゼ劇場の破産騒動に巻きこまれるかたちとなり、結局ブリュッセルの王立モネ劇場で再演されることになった。やがてパリのオペラ・コミック座で再演の準備が進むが、1914年7月に第一次世界大戦が勃発。戦争は当初の予想を超えて長期化し、大量殺戮兵器の出現によって一般市民もまきこまれ、未曾有の犠牲と被害がもたらされた。1918年11月、ドイツとオーストリア・ハンガリーが敗れ、大戦は終結した。ドイツでは、すべての王侯貴族が追放された。オーストリアでは、600年以上にわたって君臨してきたハプスブルク家が追放された。この大戦によって、それまでの世界秩序が決定的に破壊された。終戦まで《ペネロープ》は5年ものあいだ、お蔵入りとなってしまった。1918年になると、もはやこの作品は新作としての話題性を失っていた、とはいえ両大戦間には、定期的にオペラ・コミック座の舞台にかけられている。のちの1943年にはパリ・オペラ座のレパートリーに加わり、1949年まで複数の演出で上演は続いた。ほどなく劇場での上演は減少したが、《ペネロープ》はデジレ=エミール・アンゲルブレシュト指揮フランス国立放送管弦楽団の演奏会で取り上げられたことによって、幾度も名演を生んだ。新たにペネロープ役に抜擢され見事な歌唱を披露したレジーヌ・クレスパンの演奏を、幸いなことに聴くことができる。LP時代には主に仏デュクレテ・トムソンにフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルを多く録音しているアンゲルブレシュト。本盤は、フォーレ唯一のオペラ《ペネロープ》全曲の世界発録音。1956年5月24日パリ、シャンゼリゼ劇場での実況録音だが、初発は1980年だった。アンゲルブレシュトは過度に洗練されたフォーレを志向せず、むしろあるがままに一見すると無造作な手つきで音楽を差し出す。そこにえも言われる魅惑がある。優れた「序曲」で虜になるはずだ。《ペネロープ》の序曲(ト短調)は、離れ離れになった夫婦、ペネロープとユリッスの主題に基づいている。先に提示されるペネロープの主題は、求婚者たちの腹立ちに接したペネロープの強い哀しみを表現する和声的なテーマだ。トランペットが奏でるユリッスの光り輝く主題は、明快なリズムが特徴で、じつに力強い。これらふたつの主題が終始、インスピレーションに富んだ発展を促していく。この美しい序曲が演奏会で取り上げられることを切に望んだフォーレは、きわめて抒情的なコーダ(愛の主題)を添えている。この主題は、ペネロープとユリッスの主題とともに、オペラ全体の最後で壮大なフィナーレを形成している。類まれな息吹を感じさせる、印象深く壮大な曲である。気高いフレージングと物狂おしい抒情性。フォーレの曲は、打ち解けた間柄の人に語る親密な音楽という考えが広まっている。また、管弦楽法はうまくないというのは自他共に認めるところであった。しかし、この序曲には、フォーレを過小評価し続けている者たちの批判を一掃してしまう力がある。→コンディション、詳細を確認する
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ルイ・ニーデルメイエールの古典宗教音楽学校で学んだガブリエル・フォーレは、つとに教会音楽家 ― とりわけパリ・マドレーヌ教会のオルガニストとして知られていた。しかし彼は、毎日のようにオルガンを弾いていたにも関わらず、この楽器のためには一曲も作品を書いていない。一方、残された種々の証言によれば、師で友人でもあったカミーユ・サン=サーンスのもとで研鑽を積んだフォーレは、傑出したピアニストだった。彼の演奏を特徴づけていたのは、深いタッチ、規則正しいテンポ、低音域の重視、そして音楽外の効果には背を向ける〝音楽至上主義〟的な態度であったという。実際、ピアノ音楽はフォーレの創作の中核を成していた。彼はピアノのために数多くの曲集を手がけており、代表的なものに、13曲の「夜想曲」、13曲の「舟歌」、8曲の「小品」、5曲の「即興曲」がある。とりわけ私たちの関心を引くのは、彼が残した多数の室内楽曲のほぼすべてにピアノが用いられている点だ。2つの「ヴァイオリン・ソナタ」、2つの「チェロ・ソナタ」、「ピアノ三重奏曲」、2つの「ピアノ四重奏曲」、2つの「ピアノ五重奏曲」等など。唯一の例外は、最晩年の「弦楽四重奏曲」である。フォーレの「バラード」の優美なピアニズムは、ショパンが愛してやまなかった黒鍵の響きを彷彿させる ― 子守歌、舟歌、練習曲作品10-5、即興曲作品36と作品51。フォーレの「夜想曲」第2番の中間部は、シューマンの「色とりどりの小品」の1曲から派生しているように感じられるし、「夜想曲」第4番の中間部は、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」第2幕の恍惚を思い起こさせる。難聴を患った75歳のフォーレによって作曲された「幻想曲」は、湧出するエネルギー、輝き、ピアノが紡ぐ清らかなアラベスクによって、私の心を魅了する。フォーレの曲は、打ち解けた間柄の人に語る親密な音楽という考えが広まっている。また、管弦楽法はうまくないというのは自他共に認めるところであった。だからこそ、なぜ歌劇を作ったか、私には今一つよくわからない。作曲家というものは報われなくとも歌劇を作りたくなるものだろうか。なぞるものにシューマンやシューベルトの例もある。
もとは古代ギリシアの古典を代表する叙事詩、有名なホメロスの「オデュッセイア」に題材を採り、モンテヴェルディの「ウリッセの帰還」と同じ、夫、オデュッセウスの帰りを待つ、ぺネロペの物語を描く。ペネロペ(フランス語ではPénélopeと綴る。フランス語では、ペネロプ、またはペネロープという発音が近い)とは、オデュッセイアの妻の名前である。なお、オデュッセイアはフランス語ではUlysse(ユリッセまたはウリッセ)となる。脚本はルネ・フォーショワによる。全3幕。オデュッセウスのトロイア戦争からの帰還を待つぺネロープには王位簒奪を狙う求婚者が ― 凡そ50人も結婚を求めていいよってくるが、ペネロペはこの織物が織りあがったら婚約を受けるといって、それをはねつけ続けている。ところがペネロペは昼間織っている織物を夜こっそりほどいていた。これが求婚者の一人にばれてしまう。ペネロペは仕方なく、夫オデュッセイアが使っていた弓を使って、的を射た者がペネロペと結婚すると宣言した。求婚者達は次々に弓を引いて挑戦するが、弓の力が強くて矢が全く飛ばない。そんなところへ身なりのぼろぼろの牧童がやってきて、自分に引かせろという。やっと帰還したオデュッセウスは、陰謀をたくらむ求婚者達を欺くために変装して館に入っていた。みなの嘲笑を浴びる中、牧童が弓を引くと、すわ命中。オデュッセウスは名乗りを上げ、求婚者達を打ち倒して大団円。このフォーレのオペラは「静謐の極」なのだそうだ。それだけ、荒唐無稽なオペラが一般的だからだろうか。もちろん、フォーレならではの色彩感と流麗さに彩られ、全編に渡ってとても美しい。しかも、わたしは十分にダイナミックだと聴いた。ワーグナーを拒絶したドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」(1902)にはない、より具体的なドラマティシズム、ダイナミズム。フランスの印象主義の作曲家には、古代への関心が見て取れるわけだけれど、題材的にも、まるでオペラの原点に帰るような、そんな雰囲気もあるかもしれない。作りはフォーレの作品の中では重厚。少し資料をめくってみると、フォーレのオペラ「ペネロープ」は、1913年3月4日にモナコで初演された後、シャンゼリゼ劇場で、パリ初演を迎え、大成功を収めた。この5月10日という日。ストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」が初演される19日前のことだった。リヒャルト・シュトラウスの楽劇「ばらの騎士」の初演(1911)が2年前、シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」の初演(1912)が前年。ホルストは、その翌年から組曲「惑星」(1914〜16)の作曲に取り掛かり、3年後、レスピーギはローマ三部作の1作目、交響詩「ローマの噴水」(1916)を完成させる。さらに見ると4年後、プッチーニは歌劇「つばめ」を初演(1917)、5年後、バルトークは『青ひげ公の城』を初演(1918)していた。時代の転換点を思わせる様々な作品に彩られていた。そうした時代の作品のひとつをここで聴く。循環動機の使用等、ワーグナーの影響が現れている。ワーグナー流の重厚さがしっかりと土台を造り、いつものフォーレとは一味違う聴き応えをもたらしてくれる。また使われた循環動機のうちのいくつかは、他の作品でも使用されているし、序曲の深く、ロマンティックな表情は、より直接的にワーグナーの楽劇を思い起こさせるが、ワーグナーの亜流ではなく、ワーグナーをきっちりと自身の芸術性に取り込んで、新たな形も示しており。ワーグナーの進化系としてフランスの印象主義を繰り出して来るあたりが、思い掛けなく魅惑的。
デジレ=エミール・アンゲルブレシュトは、1880年パリ生まれ。初めヴァイオリンを学ぶ。7才から14才にかけてパリ音楽院で作曲を学ぶが、音楽に不向きという理由で放校。ヴァイオリン奏者をつとめつつ指揮を学ぶ。偏屈なドビュッシーに認められ、1911年の神秘劇「聖セバスチャンの殉教」初演の際に合唱指揮者をつとめ、かつ、翌年この全曲の指揮も行ったことで以来ドビュッシーのスペシャリストとして知られるようになる。1905年、国民音楽協会演奏会で指揮者デビュー。1913年にシャンゼリゼ劇場の指揮者に就任し、やがて音楽監督へ。1919年、パリ合唱協会とコンセール・プレイエル創設。1920~23年、ロシア・バレエ団から独立してパリを本拠にしたスウェーデン・バレエ団音楽監督。1924~25年および1932~33年、 ― この間、コンセール・パドルー管弦楽団(1928~32)、アンジュ・オペラ(1929~30)の指揮者もつとめる。 ― パリ・オペラ・コミーク指揮者を経て。第一次世界大戦後の1934年に新設した、フランス国立放送管の初代首席指揮者となった。短期間でこのオーケストラの水準を第一級まで引き上げたが、第二次世界大戦に遭遇し、楽団も解散同様になってしまう。戦後はパリ・オペラ座の音楽監督(1945~1950)をつとめ、1951~1958年にはフランス国立放送管の首席指揮者に復帰。再び、シャンゼリゼ劇場等で指揮活動を行った。録音はSP時代から行っており、ビゼーの「カルメン」前奏曲・間奏曲、「アルルの女」第1・第2組曲、グリーグの「ペール・ギュント」第1組曲が代表盤であった。あまり注目されなかったらしいが、ドビュッシーの「夜想曲」も全曲録音を果たしている。LP時代には主にデュクレテ・トムソンにフォーレ、ドビュッシー、ラヴェルを多く録音した。デュクレテ・トムソンの窓口が日本に無かったため、アンゲルブレシュトは長く、知る人ぞ知る、半ば忘れられた指揮者であった。それが1979年にレコード各社が、テーマを掘り下げた廉価盤を発売する傾向のなかで、東芝からEMIのフランス音楽エスプリ・シリーズとして「聖セバスチャンの殉教」とフォーレ「レクイエム」が再発されたことが再認識のきっかけとなり、1984年に出たLP5枚組の「アンゲルブレシュトの芸術」で、この名匠への評価が確立した。CD時代になってディスク・モンテーニュから発売された1962年にシャンゼリゼ劇場で開催されたドビュッシー生誕100周年記念演奏会における録音のオペラ「ペレアスとメリザンド」全曲録音が絶讃を浴び、四半世紀前の録音でありながらも、1988年のレコード・アカデミー大賞を受けたことは記憶に新しい。
- Record Karte
- 歌劇『ペネロープ』全曲 レジーヌ・クレスパン(ソプラノ)、クリスティアーヌ・ゲイロー(メゾ・ソプラノ)、フランソワーズ・オジュア(ソプラノ)、ジュヌヴィエーヴ・マコー(メゾ・ソプラノ)、ニコール・ロバン(バリトン)、ラウル・ジョバン(テノール)、フランス国立放送管弦楽団、デジレ=エミール・アンゲルブレシュト(指揮)、録音:1956年5月24日パリ、シャンゼリゼ劇場。Technician [Reconstitution Technique] – Jean-Paul Legrand, Directed By – Jacques Bertrand, Engineer [Cut] – Roland Michel, Engineer [Editing] – Catherine Couzy.1956年世界初録音、1980年初出。
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