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チェロを「第一ヴァイオリン」にした男 ― 日本でも多くの音楽ファンに愛された20世紀後半を代表する偉大なるチェリスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチが、2020年3月27日で生誕93周年となる。その豊かな表現力と卓越した技術を巨匠パブロ・カザルスも絶賛。指揮者としても、特にスラブ音楽に独自の境地を開きました。タイム誌によれば、彼は同時代で最も名の知れた音楽家であった。称号や受賞はおびただしく、彼ひとりを教材に米国から日本まで世界のあらゆる場所における奨励システムを学べるほどである。ロストロポーヴィチがいかに独自であるかは、プロならずとも、僻村の聴衆にさえ明らかであった。阪神大震災後の来日公演で「拍手しないで下さい」と言ったロストロポーヴィチ。リヒャルト・シュトラウスの交響詩《ドン・キホーテ》のセッションで、どぎついチェロの音にカラヤンが異を唱えた。それに遠慮無くロストロポービッチは「これは人物描写だ」といっても、カラヤンは「どぎつくては美しくない」と反対したそうです。両者強いこだわりがある人間であることは、小澤征爾とロストロポーヴィチが共演したドキュメンタリーで音楽を止め、オーケストラに説明をしてから小澤に同意を求めるような場面が多く、小澤が意見を挟む様子が無く不甲斐無さを感じたものです。ロストロポーヴィッチは反体制作家アレクサンドル・ソルジェニーツィンをモククワ郊外の別荘に匿い、その弁護にあたったために、ソビエト国家から迫害をうける身となります。「リヒテルさんは政治には興味がなかったけれど、ロストロさんは違った。」という話もあるところからすると、かの国際問題にまで成りそうだった喧嘩セッションは、スヴャトスラフ・リヒテルとヘルベルト・フォン・カラヤンがテンポを巡って意見が合わず、間に入ったロストロポーヴィチは穏便に、といった態度ではなかったのかもしれないと思えてきます。彼はいつも人間の密集したなかで生きてきた。出生から言えばロシアの大都市の人間ではない。生まれ育ったバクーは当時、ソビエト体制下のアゼルバイジャンの首都であった。人間は音楽に劣らず彼が愛したものだった。その交友の輪は莫大で、同僚以外の人たちも大勢そこに含まれていた。彼は音楽祭を組織する一方で、病気の子供たちのための慈善基金を組織した。そうした活動のために、各国大統領や、実業家らとも会った。ロストロポーヴィチの才能は類まれな技術、スタイル、激しさだけにはとどまらなかった。そのやや舌足らずな発音、洗練された冗談、礼儀正しい態度とで、彼と出会う誰もが、彼を好きになった。世界中で今も姓「ロストロポーヴィチ」でなく愛称の「スラ―ヴァ」で親しまれる彼の一面である。リヒテルはカラヤンに挑みかかってきたが、この距離感は余計にただ度とならん。カラヤンのドライブするゴージャスなベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に一歩も引けをとらないロストロポーヴィチのチェロのスケールの大きさ。一言で言うと〝豪放磊落〟なドヴォルザークのチェロ協奏曲。太く豊かな響きが圧倒的な名演。まさにがっぷり四つ、という感じ。ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー指揮レニングラードフィルハーモニー管弦楽団とのシューマンのチェロ協奏曲にしても、ジャクリーヌ・デュプレの同曲名盤とは、ソリストを引き立てる演奏と異の内容。クラシック音楽にもバトルがあることを教えてくれた時代だ。
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音楽は世界共通の言語です。国も、性別も職業も、宗教も歌ったり、楽しんだりすることに関わらない。様々な国の音楽を聴いて、その国に想いを馳せ、その曲自体を楽しむことは、まことに正しいし、音楽の持つ偉大な力のひとつだと思います。音楽を聴いて幸せな気持ちになったり、癒されたりする。何より、生きる喜びを人とシェアできるのが音楽の素晴らしさです。しかし、言葉には様々な種類の言語があり、知らない言語との会話は理解できない。同じ九州内に生活していても、まともな会話にならないことも有るでしょう。それなのに、一方で音楽が「世界共通語」であるという誤った認識が従来よりある。音楽を楽しむだけなら、それで充分なのですが音楽をプレイする立場がそれでは困る。『ルーツは誰ですか』と、2016年9月、長崎・佐世保で活動しているフルート奏者に問うた。ところが彼女の取り巻きが憤りを込めて「彼女の音楽は何かに似ているというものではない」と得意気に答えた。広瀬すず、中条あやみ、天海祐希らで感動実話を映画化した『チア ダン』で、「これがジャズ、これがヒップホップ」と表現してみせるワンシーンがあるが、〝マズルカ〟のリズムを覚えて、〝ポロネーズ〟はどういう踊りかを知ることがショパンの正しい演奏の理解になると勧められるのは今では良く有ること。チャイコフスキーのロシアの風土は〝トレパーク〟が大事だ。ベートーヴェンの旋律はウィーンの民謡を借りている。モーツァルトの〝きらきら星変奏曲〟はフランスの遊び歌だし、初めてモーツァルトを聴いたトルコ人は、こんな子供だましが音楽なのか、といって笑ったそうだ。同じ西洋の音楽であっても、ベートーヴェンばかり聴いていて初めてバッハを聴いたときは全く違う音楽のような印象を受ける。同じ作曲家であっても初めて聴く曲には、なんだかよく分からないという印象を持つ。何度も聴いている内に、その曲の良さや悪さが理解できるようになる。
音楽を演奏するのに大切な〝メロディー〟〝ハーモニー〟〝リズム〟を、本当に会得しようと思うには民族や文化、宗教の理解が必要です。それぞれの国の音楽を演奏して、その国の音楽を知った気になってしまうのは、まことに痴がましく、恥ずかしく、恐ろしいことです。ヨーロッパ音楽の伝統の何たるかをしっかり把握していないものは、聴いていて虚しいばかりです。それはジャズでも同様です。「ジャズには技法と作法がある」と黒田卓也さんが説いている。ジャズの歴史はクラシック音楽ほどではありませんがれっきと発展の断層があり、連続性にない歴史を知っているか知っていないかがミュージシャンには大切だ。インタープレイの相手が、どこの時代が好きなのかという言葉(言語)がわからないと会話ができない。ジャズ・ミュージシャン同士で重要視されている『NOW'S THE TIME』に関心がないと、アドリブもまともに出来ないでしょう。それを置き去りにしてしまっている「楽器を弾ける」演奏家が郎党を組んでいるのはどうしたもんじゃろの。One Step on a Mine, It's All Over ― 彼らは自分たちが育った街を自慢できるだろうか、胸はって自分の会社を誇れるだろうか。またそれとは別に「音楽的に弾く」と言う意味をとり違えている人を見ました。これは下手をすると一生引きずってしまうでしょうね。ちょっとかわいそう。日本人は器用な民族なので、真似をして良いのです。そして先達に敬意を忘れずに、ルーツを誇りましょう。ジャズのライヴでアドリブがただのメンバー紹介で、全くアドリブの様式に成っていない演奏は気持ち悪いが、最後で何十秒も長々と音を引っ張っているのも閉口してしまう。それは自分だけのエクスタシーに酔っているだけで、聴き手を疎かにしている演奏だ。音楽を聴いてもらうというのは、どちらが主体なのか、自分たちの満足を満たすのはリハーサルのうちに済ませて欲しいと思う。お金をもらって聴いてもらっていることを忘れてはいけない。特に、プロとして聴衆の方々に、瞬間芸術であるこの「音楽」を提供する場合には、もっと謙虚に、もっと慎重であるべきだと思います。必ずしも、その国、言葉のエキスパートであるべき、と考えるのは適切だとは思いません。ただ日本人である以上、一流のプレーヤー足り得るためには、器用に逃げないで自分の血の中にない部分については学び取る必要があるのです。どんなに個性的な演奏も、結局は独善的なもので専門家的に聴けば説得力はありません。
オーストリア生まれの大指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908〜1989)はその魅力的な容貌と優雅な身のこなしでたちまちにして聴衆の人気をとらえた。たんにこの点から言ってもその人気におよぶ人はいない。しかも彼の解釈は何人にも、そのよさが容易に理解できるものであった。芸術的に高度のものでありながら、一種の大衆性をそなえていたのである。元来レパートリーの広い人で、ドイツ系の指揮者といえば大指揮者といえども、ドイツ音楽に限られるが、カラヤンは何をやってもよく、その点驚嘆に値する。ドイツ、オーストリアの指揮者にとって、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスは当然レパートリーとして必要ですが、戦後はワーグナー、ブルックナーまでをカバーしていかなくてはならなくなったということです。カラヤンが是が非でも録音をしておきたいワーグナー。当初イースターの音楽祭はワーグナーを録音するために設置したのですが、ウィーン国立歌劇場との仲たがいから、オペラの録音に懸念が走ることになり、彼はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団をオーケストラピットに入れることを考えました。カラヤンのオペラにおけるイギリスEMI録音でも当初はドイツもの(ワーグナー、ベートーヴェン)の予定でしたが、1973年からイタリアもののヴェルディが入りました。そこには、EMIがドイツものだけでなく広く録音することを提案したようです。この1970年代はカラヤン絶頂期です。そのため、コストのかかるオペラ作品を次々世に送り出すことになりました。この時期に録音した、オーケストラ作品はほとんど1960年代までの焼き直しです。〝ベルリン・フィルを使って残しておきたい〟というのが実際の状況だったようです。この時期、新しいレパートリーはありませんが、指揮者の要求にオーケストラが完全に対応していたのであろう。オーケストラも指揮者も優秀でなければ、こうはいかないと思う。歌唱、演奏の素晴らしさだけでなく、録音は極めて鮮明で分離も良く、次々と楽器が重なってくる場面では壮観な感じがする。非常に厚みがあり、〝美〟がどこまでも生きます。全く迫力十分の音だ。そして、1976年にはウィーン・フィルから歩み寄り、カラヤンとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は縒りを戻します。カラヤンは1977年から続々『歴史的名演』を出し続けました。この時期はレコード業界の黄金期、未だ褪せぬクラシック・カタログの最高峰ともいうべきオペラ・シリーズを形作っています。
  • Record Karte
    • DISQUE 1
      • FACE 1 ― パウル・ザッハー(指揮)チューリヒ・コレギウム・ムジクム, [録音]1977年9月、チューリヒ
        1. ボッケリーニ:チェロ協奏曲第2番ニ長調 G.479
        2. ヴィヴァルディ:チェロ協奏曲ト長調 RV 413
      • FACE 2 ― ロジェストヴェンスキー(指揮)レニングラードフィルハーモニー管弦楽団, [録音]1960年9月、ロンドン, シューマン:チェロ協奏曲イ短調 Op.129
    • DISQUE 2 ― ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団, [録音]1968年9月、ベルリン
      1. ドヴォルザーク:チェロ協奏曲ロ短調 Op.104
      2. チャイコフスキー:ロココの主題による変奏曲 Op.33
    • DISQUE 3
      • FACE 5
        1. グラズノフ:吟遊詩人の歌 Op.71 ― 小澤征爾(指揮)ボストン交響楽団, [録音]1975年8月、ボストン
        2. ヴィヴァルディ:チェロ協奏曲ハ長調 RV 398 ― パウル・ザッハー(指揮)チューリヒ・コレギウム・ムジクム, [録音]1977年9月、チューリヒ
        3. タルティーニ:チェロ協奏曲イ長調 ― パウル・ザッハー(指揮)チューリヒ・コレギウム・ムジクム, [録音]1977年9月、チューリヒ
      • FACE 6 ― マルタ・アルゲリッチ(ピアノ), [録音]1980年3月、ミュンヘン
        1. シューマン:アダージョとアレグロ 変イ長調 Op.70
        2. ショパン:序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 Op.3
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ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ
Universal Music =music=
2019-09-04

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