豪華キャストによる精緻で隙の無い上演 ― 未完の傑作として名高い“ルル”ですが、未亡人ヘレーネは補筆を禁じ、完成していた2幕までと「ルル組曲」の抜粋という形で初演されたが、ここでは作曲家フリードリヒ・チェルハが第3幕を補筆完成したヴァージョンを使用してドラマとしての体裁がきちんと整えられています。1979年パリ・オペラ座でのピエール・ブーレーズ指揮、パトリス・シェロー演出、テレサ・ストラータス、イヴォンヌ・ミントン等、豪華キャストによる精緻で隙の無い上演。20世紀前半の音楽史に重要な功績を残した新ウィーン楽派の作曲家たちのなかで、アルバン・ベルクはある意味で特異な存在だったと言えるだろう。後期ロマン派から無調へ、さらに12音技法の創始者として、時代を切り開いていった師シェーンベルク。師の世界をさらに推し進め、前衛の時代の絶対的な規範となった盟友ウェーベルン。しかしながら彼らの道のりは同時に、20世紀の音楽が抱えることになった問題、すなわち聴衆との断絶を広げるものだった。そのなかでベルクはオペラ《ヴォツェック》によって興行的な成功を手に入れ、ストラヴィンスキーの《春の祭典》が20世紀音楽の古典と呼ばれるのと同じく、ベルクの《ヴォツェック》は1925年のベルリン初演以来、20世紀オペラの古典と評される。また「あなたの様式なら、無調の音楽やそれに対する否定的なイメージについて、突破口となるものが書ける」という依頼から、《ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出のために」》が生まれたように、十二音技法の中に調性を織り込んだ作風で知られる。結果、ベルクの音楽は最も早くから受け入れられ、そして最も愛されるレパートリーとなってきた。「歌う声による伴奏付き大オーケストラのための交響曲」となってしまった楽劇から、オペラを「退屈な劇」とすることなく、「人間の声に仕える芸術形式」へと取り戻すこと。そこにはオペラ作曲家としてのベルクの信念があった。そのために2作目のオペラである《ルル》にも、より拡大されて受け継がれている。
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前作と同様にベルクは自らの手で、フランク・ヴェーデキント(1864~1918)の2つの戯曲、『地霊』と『パンドラの箱』を3幕の台本へと編纂した。それにより《ルル》のドラマは、第2幕の真ん中を頂点に、世紀転換期を生きたファム・ファタル ― フランス語で「運命の女」、すなわち男性を破滅させる魔性の女であるルルが人生を登り詰め、そして凋落していくという、シンメトリー構造のなかに置かれることになった。このルルを中心とする因果応報の世界を、ベルクは12音技法によるオペラとして作曲した。ここでは唯一のルルの音列から、すべての登場人物の音列が導き出され、《ヴォツェック》では場ごとであった器楽形式は、シェーン博士にはソナタ形式、その息子のアルヴァにはロンド形式と、登場人物ごとに与えられている。さらに《ルル》における声は、全くの演劇的な語りからシュプレヒシュティンメ、そして歌にいたるまで、6つのレベルを自在に行き来する。《ヴォツェック》に続く《ルル》で、ベルクはさらなる飛翔を遂げるはずだった。すなわち《ルル》は、第3幕の始めまでしかオーケストレーションされなかった。ブーレーズの音楽は最初の音から最後の音、いや休符に至るまで全く曖昧さを残さない。ピエール・ブーレーズ(Pierre Boulez)は1925年3月26日、フランスのモンブリゾンに誕生。リオンで数学などを学んだ後、パリ音楽院に進んでオネゲル夫人に対位法をメシアンに和声を師事し、その後レイボヴィッツに12音技法を学びます。1945年ブーレーズは『ノタシオン」を作曲、翌1946年には『ピアノ・ソナタ第1番』、『ソナチネ』、『婚礼の顔』も書き上げています。この年ブーレーズは、プロとしての最初の本格的な仕事となるジャン=ルイ・バロー&マドレーヌ・ルノー劇団の音楽監督に就任します。仕事の内容は舞台演劇に音楽をつけるというものでブーレーズ自身、オンド・マルトノ演奏を行ったりギリシャ悲劇『オレスティア』のための音楽を作曲・演奏するなどして、1956年までの10年間に渡って活躍します。その間、『ピアノ・ソナタ第2番』、『水の太陽』、『弦楽四重奏のための書』などの他、代表作となる『ル・マルトー・サン・メートル(主のない槌)」を作曲。この頃のブーレーズは過激な言動でも知られていた時期で、「オペラ座を爆破せよ」、「シェーンベルクは死んだ」、「ジョリヴェは蕪」、「ベリオはチェルニー」といった数々の暴言が現在のブーレーズからは信じられない刺激的なイメージを伝えてくれます。そして1954年10月、過激な時期のブーレーズによって創設されたのが室内アンサンブル「マリニー小劇場音楽会」で、この団体は翌年には「ドメーヌ・ミュージカル」と名前を変え、以後大活躍をすることとなります。
「ドメーヌ・ミュージカル」は当時のブーレーズが音楽監督を務めていた劇団の舞台でもあるパリのマリニー劇場を本拠地とし、件のジャン=ルイ・バローと、その夫人のマドレーヌ・ルノーがパトロンになって発足したもので創立者にはブーレーズと、この両名が名を連ねています。彼らは最初から現代音楽に特化したアンサンブルだったわけではなく、1954年のシーズンにはマショーやデュファイ、バッハといった古楽プログラム、ドビュッシー、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、ストラヴィンスキー、バルトーク、ヴァレーズといった近代プログラム、シュトックハウゼン、ノーノ、マデルナなどの現代プログラムが3つの柱として存在しており、年を経るに従って現代プログラムの占有率が高くなっていきました。さらに、この団体の活動は演奏会の開催だけにとどまらず機関紙や研究書の発行にまで至り、ヨーロッパのみならず世界の現代音楽シーンに多大な影響を与えることとなります。作曲も順調で、『プリ・スロン・プリ』、『ストローフ』、『ピアノ・ソナタ第3番』、『エクラ』、『ストリクチュールⅡ』なども手がけています。その間、注目されることになったブーレーズは1960年から1963年にかけてバーゼル音楽アカデミーの教授を務めたりしましたが1967年には、フランス政府の音楽政策に抗議してフランス国内での演奏活動の中止を宣言、「ドメーヌ・ミュージカル」をジルベール・アミに託し(1973年に解散)、自らは指揮者としての活動に本腰を入れBBC交響楽団やニューヨーク・フィル、クリーヴランド管弦楽団を指揮して国際的に活動するようになります。ちなみに「ドメーヌ・ミュージカル」。ブーレーズ時代13年間の公演数は約80、登場する作曲家は約50名、作品数は約150曲といいますから、当時からブーレーズのレパートリーの広さにはかなりのものがあったことが窺われます。1967年以降のブーレーズは英米の他、バイロイトにも登場して指揮者としての名声を高めていますが、その間にも作曲は行っており、『ドメーヌ』や『即興曲 ― カルマス博士のための』、『カミングス、詩人』、『典礼 ― ブルーノ・マデルナの追憶』といった作品が書かれています。そうした声望を受け1976年にはフランスに設立されたIRCAMの所長に就任、同時に創設された現代音楽専門のアンサンブル「アンサンブル・アンテルコンタンポラン」の音楽監督も兼任し、1990年代まで現代音楽に集中的に取り組むようになり、『レポン』、『デリーヴ』、『ノタシオン管弦楽版』、『固定/爆発』といった自身の作品の発表を行います。1990年代初頭、国際的な指揮の舞台に復帰したブーレーズは1995年からはシカゴ交響楽団の首席客演指揮者となり、以後、欧米各国のオーケストラを指揮して数々のコンサートやレコーディングも実施。そのため作曲の方は少なくなりましたが、それでも『アンシーズ』、『シュル・アンシーズ』、『アンテーム1』、『アンテーム2』の他、80歳となった2005年には『天体暦の1ページ」を書くなど、継続的に作品発表を行っているのは流石です。
1979年ステレオ録音。フリードリヒ・チェルハによる補完ヴァージョンを使用。4枚組、270P豪華仏語対訳本付属。
YIGZYCN
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