34-5590
商品番号 34-5590

通販レコード→仏ブルーライン盤
我こそがカラヤンの後任 ― ロリン・マゼールがベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の名人技を見事にドライブした《管弦楽のための協奏曲》はオーソドックスな名演である。この演奏やEMIに録音したブルックナーの交響曲第7、8番を聴くと自負していた当時の気概が伝わってくる。最晩年のバルトークが、その作曲技術の粋を尽くして書き上げたオーケストラ機能のデモンストレーション曲ともいうべき「管弦楽のための協奏曲」は20世紀オーケストラ音楽の傑作。カラヤンがその生涯でスタジオ録音を行なったバルトークのオーケストラ作品は「管弦楽のための協奏曲」と「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」の2曲だけでした。カラヤンの録音で一番充実しているのは1970年代後半から80年代前半の録音。「ベルリン・フィルを使って残しておきたい」と念願込めて再録音の多いチャイコフスキー、ドヴォルザーク、ベートーヴェンと1970年代の演奏は緊張感が違うと思う。円熟してカラヤン節の極みとでも言える。レコード録音の壺を先天的に把握していたカラヤンのオーケストラの鳴らしっぷりは、ダイナミック・レンジが非常に大きい。ノイズに埋もれないレコード録音の理想を手に入れて弱音部では繊細きわまりない音楽を作り出し、強奏部分では怒濤の迫力で押してくる。その較差、落差と云ってもいいのかな、他の指揮者ではなかなか見られないカラヤン流の演出。ベルリン・フィルの迫力も頂点に達している。カラヤンとの因縁深いマゼール。作曲家でもある資質と卓越したヴァイオリンの腕前といった、カラヤンがコンプレックスを抱えていた才能のある ― ムターがウィーン・フィルとの録音でチェンバロを弾き、ヨーロッパ参加を作曲したのはカラヤンの抵抗だったとしたらマゼールはなかなかの存在だったと思える ― 指揮者。冴えた閃きでカラヤンの苦手としたレパートリーを攻めてくるのだからたまらない。しかもそれが、カラヤンに負けない変態ぶり。後世に残す手本と成る録音を残そうと頑張っていたカラヤンには、そうしたマゼールの気ままぶりも辛抱ならなかったかもしれない。1974年の「管弦楽のための協奏曲」はローター・コッホ(オーボエ)、ジェームズ・ゴールウェイ(フルート)、カール・ライスター(クラリネット)、ゲルト・ザイフェルト(ホルン)、コンラディン・グロート(トランペット)など、木管・金管に綺羅星のごとき名手を擁していた時期にあたり、ちょっとしたソロにも入魂の名人芸が披露され、パート間のバランスも完璧なまでに整えられたベルリン・フィルの機能が極限まで発揮されたバルトークだった。ジャケットに使われている革ジャンを着たスタイリッシュなカラヤンのイメージに、まさに相応しい豊潤・流麗なバルトーク演奏盤があるが、絶頂期のベルリン・フィルでしか成し得ないゴージャスな響きが見事に捉えたEMIの録音だった。その超弩級盤に真向から挑んだマゼールの気概。個々の楽器が当然のように巧いし、全体がよく揃っている。録音は基本は自然な音場のワンポイント録音と思うよう広がりがあるドイツ・グラモフォンのサウンドだが、マルチマイクが拾う「聴かせたい」パートを前面に出す、かなり思い切ったデフォルメも、そこここで聴かれミキシングの成したことかとさえ想像させる。マゼールは天下のドイツ・グラモフォンのエンジニア・チームさえ、ねじ伏せてしまっている。名演、優秀録音ひしめく中で当盤も手堅く色褪せることはない。
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ロリン・マゼール(Lorin Maazel)はクラシック界の巨匠と呼ばれる世界的指揮者。1930年3月6日、フランス・パリ近郊、ヌイイ=シュル=セーヌ(Neuilly-sur-Seine)生まれ。父はユダヤ系ロシア人、母はハンガリーとロシアのハーフ。生後まもなく一家でアメリカ移住。5歳頃からヴァイオリン、7歳頃から指揮の勉強を始める。8歳でニューヨーク・フィルを指揮。9歳でレオポルド・ストコフスキーの招きでフィラデルフィア管弦楽団を指揮。11歳でアルトゥーロ・トスカニーニに認められNBC交響楽団の夏季のコンサートを指揮。以後、10歳代半ばまでに全米のほとんどのメジャー・オーケストラの指揮台に上がっている。ピッツバーグ大学在学中はピッツバーグ交響楽団の一員として活躍。イタリアでバロック音楽を研究といった楽団員経験、まだまだ未開だったバロック音楽にも作曲、演奏の両面から造詣があった。その経験を経て、1953年に指揮者デビュー。1960年、フェルディナント・ライトナーと交代で「ローエングリン」を指揮してバイロイト音楽祭に史上最年少でデビュー。1963年、ザルツブルク音楽祭にデビューしたチェコ・フィルとのコンサートでは、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番を弾き振り。ヴァイオリンの腕前も魅せる。指揮者としての信頼厚かったことも、1965年にフリッチャイの後任として、ベルリン・ドイツ・オペラとベルリン放送交響楽団の音楽監督を皮切りに、1972年にセル死去後空席だったクリーヴランド管弦楽団の音楽監督に。そして、1982年のウィーン国立歌劇場総監督就任。マゼールはウィーンに行くまでの約10年の間に厳しいトレーニングによりクリーヴランド管弦楽団を以ってセル時代の規律を取り戻し、見事なオーケストラに戻すことに成功した。またボスコフスキーの後任としてニューイヤーコンサートの指揮者を1986年まで務めた経歴は良く知られる。1955年から25年にわたってニューイヤー・コンサートの指揮をしてきたボスコフスキーから引き継ぎ、務めたこの7年という連続期間はボスコフスキー、クレメンス・クラウスに次ぐ長さであり、マゼール以降は1年毎の交代になりましたので、ニューイヤー・コンサートを語る上では外せない重要な指揮者です。当時のマゼールは1982年からウィーン国立歌劇場の総監督に就任することもあり、ウィーンでは絶大な人気を博していました。だが1984年にウィーンのポストを追われてからは、それまでとは一転して挫折の連続。ロサンゼルス・オリンピックが行われたこの年、4度目のベートーヴェンの交響曲全集を作り上げたが、うんざりしてきたベルリン・フィルと軋轢を大きくし始めたカラヤンがベルリン・フィルで予定していたヴィヴァルディ「四季」にウィーン・フィルを起用。最晩年になってカラヤンはウィーン・フィルとの関係を強めていった。カラヤンの晩年の輝きは魅力を増し、マゼールの影は薄れます。そしてついに、1989年10月。カラヤン亡き後のベルリン・フィルのシェフを選ぶ選挙でマゼールはアバドに敗れ、新譜発売も途切れてしまいました。この居座古座にマゼールは巻き込まれた形だ。2002年からはニューヨーク・フィルの音楽監督に就任。初来日の1963年以降30回近く来日し、NHK交響楽団をはじめ日本の主要オーケストラを指揮。2014年5月のボストン交響楽団との来日公演をキャンセルしていたが、同年7月13日に米ヴァージニア州の自宅で肺炎のため逝去。享年84歳。
バルトークその人こそ、他に例のないほどの警戒心と感受性とをもって世界の一切の動きを見張り、絶えず変化し、形づくられていく宇宙の声と、苦闘し続ける人類の声とに、自らのうちにあって形を与えていく人である ― ベンツェ・サボルチ
ハンガリーの生んだ20世紀最大の作曲家のひとりといえば何びともベーラ・バルトーク(1881〜1945)を挙げる。否、20世紀最大の作曲家としても、まずバルトークから指を屈する人も少なくあるまい。バルトークは8歳年長のシェーンベルクのような芸術様式上の革命家でもなかったし、1年後に生まれたストラヴィンスキーのように若くして天才的な脚光を浴びた体験も持ってはいない。しかし、第2次大戦が終わり ― バルトークはこの年に亡くなってしまうが ― 新しい芸術活動の息吹が起こった時、バルトークに対する認識が急速に深まる。それは見失われていた芸術における精神活動の尊厳の回復を示すものであった。例えば、その頃の現代音楽を扱った書物の記述に数多くの例が窺われる。フランスの急進的な批評家だったアントアーヌ・ゴレアが1954年に刊行の「現代音楽の美学」(野村良雄他訳)の中で、「彼は死後僅か何年かで20世紀の作曲家の中で、おそらくアルチュール・オネゲルを除いては最も良く演奏される人となり、又現代音楽及び、その偉大と闘争と苦闘の象徴となった。 …… 現代の音楽的ヒューマニズムの代表者の中で最も悲愴な、又最も活き活きとした方法でこれを具象化している」。また1955年出版のドイツの音楽学者ハンス・メルスマンの「西洋音楽史」(後藤暢子訳)で「ストラヴィンスキーがヨーロッパ文化の汎ゆる思潮に向かって心を開いていたのに対し、バルトークは偉大な孤独の境地で生き、且つ創造したのである」、そして日本では柴田南雄が1958年刊の「現代の作曲家」の中で「バルトークを〈巨匠〉と呼ぶ時、今や我々はベートーヴェンに対する時と対して違わぬ感情を抱くに至っている。殆ど倫理的といえるほどの芸術と人生への厳しい態度が、この二人の人間像を相似たものにしているためであろう」、これらの引用はほんの一例にすぎないもので1950年代はバルトーク評価が非常に高まったことを示すものである。1960年代以降バルトーク熱は下降したかのように見えるが、そのことが彼の音楽史上の位置づけをより明確にさせることになった。20世紀前半を生きた作曲家の中でシェーンベルク、ストラヴィンスキーとバルトークが3大巨峰であることは定説となった。例えば、あの厖大な「新オックスフォード音楽史」は第10巻(1974)を現代音楽(1890〜1960)に充てているが、最も多くの影響を与えた作曲家としてドビュッシーとシェーンベルクを重視している、しかし個人としての記述に一番多くのページが割かれているのはバルトークの25ページであり、ついでストラヴィンスキー、ベルク、ウェーベルンとなっている。バルトークは多作家ではなかったが、寡作家とも言えない。彼の作品は、ほとんどあらゆるジャンルの音楽に及んでいた。広く言われるように彼は中欧・東欧の民族音楽の研究の成果を彼の芸術音楽に採り入れているが、その有り様は高度に芸術的に昇華されたものであった。バルトークはシェーンベルクの無調音楽の影響を受けているし、ストラヴィンスキーとも無縁の人ではなかった。しかし、それらが作品に具現された時、バルトーク以外の何びとも書き得なかったものとなる。このことは彼の妥協のない創作態度の厳しさを物語っている。作品の数に比較してオーケストラのための作品が異例と言ってよいほどに少ないことからも、それが窺われる。彼が名を成すに至った1910年代の中頃以降、バルトークの書いたオーケストラのための作品は「舞踏組曲(1923)」、「弦・打楽器・チェレスタのための音楽(1936)」、「弦楽のためのディヴェルティメント(1939)」、「管弦楽のための協奏曲(1943)」の4曲しか無い。またピアノ協奏曲は未完に終わった第3番までの3曲とヴァイオリン協奏曲が1曲、これも終結部を残して絶筆となったヴィオラ協奏曲の4曲あるのみである。
バルトークが前年の母の死を機に、ディッタ夫人とともに着の身着のままの状態で渡米したのは、1940年10月30日のことであった。この頃、彼以外にもナチスから身を守るためにアメリカへ移住した音楽家に、ヒンデミット、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ミヨーなどがいた。このため当時のアメリカ音楽界の活況は大変なものであった。これらの音楽家たちはいずれもそれぞれの才能にふさわしい地位を得て、安住することができた。ところが、それと同時にバルトークが亡命したアメリカはシェーンベルグに代表されるような無調の音楽がもてはやされているときで、民族主義的な彼の音楽は時代遅れの音楽と思われていました。そのため、彼が手にした仕事は生きていくのも精一杯というもので、ヨーロッパ時代の彼の名声を知るものには信じがたいほどの冷遇で、その生活は貧窮を極めました。アメリカへ移住して約1年半後の1942年3月、彼はかつてのピアノの弟子宛に、次のような書簡を送 っている。「私たち二人の状態は日ごとに悪化しています。耐えられないといえば誇張になりますが、ほとんどそれに近いものです …… 私は、かなりの悲観論者になりました。どんな人をも、どんな国をも、またどんなことをも信じられません …… 」それに加え彼の体は白血病に冒され始め、ようやくコロンビア大学で民族音楽の名誉博士号を得て嘱託講師の地位を受け入れた彼は、民謡の録音からの採譜と分類に従事しながら、次第に衰弱していく一方でした。そんなバルトークに援助の手をさしのべたのがボストン交響楽団の指揮者だったクーセヴィツキーでした。もちろんお金を援助するのでは、バルトークがそれを拒絶するのは明らかでしたから、作品を依頼するという形で援助の手をさしのべました。そのおかげで、私たちは20世紀を代表するこの傑作「管弦楽のための協奏曲」を手にすることができました。クーセヴィツキー財団からの委嘱として、自身の70歳記念とボストン交響楽団指揮者就任20周年記念演奏のための作品を書いてほしいと切り出し、バルトークをいたく感激させた。彼にとっては、渡米後初めての作曲の委嘱である。バルトークは体力に自信が持てなかったため、この申出をいったんは断ったがクーセヴィツキーは期限を設けなくてもよいからと彼を説得し、作曲料の半額に相当する額面の小切手を彼の枕元に置いて席を立ったといわれている。実はこの時、クーセヴィツキーはライナーとシゲティの二人から依頼を受けてやって来ていた。バルトークと同郷の友人、指揮者のフリッツ・ライナーとヴァイオリニストのヨーゼフ・シゲティはアメリカ作曲家協会(ASCAP)に働きかけ、その援助でバルトークが安心して療養できるように取り計らった。1943年夏、こうして彼はASCAPの世話でニューヨーク北部の山中にあるサラナック湖畔で療養生活をすることになった。
その後、バルトークは信じられないスピードで委嘱された作品を仕上げる。彼は同年8月15日、作曲に着手し同年10月8日には作曲を完了している。こうして作曲されたのが《管弦楽のための協奏曲》 であった。そして翌年の12月に初演されている。初演後、クーセヴィツキーは「過去の50年を通じて最 高の傑作だ」と彼を讃えた。バルトークは初演時の演奏会プログラムに次のように書いている。「作品全体の雰囲気は ― 第2楽章を除くと ― 第1楽章の厳粛さと第3楽章の死を悼む歌から終楽章の生への肯定へと移行する漸進的な推移を示す。 …… この交響的なオーケストラ曲にこのような題をつけたのは、諸楽器を協奏的及び独創的に使用する傾向からきている …… 」この曲は名人揃いのボストン交響楽団の各プレイヤーの優れた腕前を発揮させるために作曲されただけあって、バロック時代のコンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)を思わせる内容となっている。バルトークの楽譜を出版しているブージー・アンド・ホークス社の社主ラルフ・ホークスが彼に宛てた「バッハのブランデンブルク協奏曲集のような作品を書いてみたらどうでしょう」という書簡や、コダーイの同名作品の影響が発想になったとも思われる。多楽章で、第5楽章「終曲」のコーダの部分は、バルトーク自身の「エンディングが唐突過ぎる感がある」との反省を基に改訂がなされている。今日の演奏ではこの改訂版を使用している。ライナーやクーセヴィツキーはバルトークの自筆楽譜を使って録音しているが、カラヤンは最終的な出版楽譜に忠実なところはバルトークでも変わらない。この曲とヴァイオリニストのユーディ・メニューインの委嘱で作曲した《無伴奏ヴァイオリン・ソナタ》の成功で、さてバルトークの晩年は経済的にも精神的にも充実した日々を送ることができた。だが、病魔は既に彼の体を蝕んでおり、1945年9月26日バルトークはニューヨーク市内のブルックリン病院で息を引き取った。
1979年12月ベルリン、フィルハーモニーでの、ステレオ・セッション録音
FR DGG 2531 269 ロリン・マゼール バルトーク・管弦楽…
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