34-17050
商品番号 34-17050

通販レコード→仏ターコイズ黒文字盤
人間の魂を歌う巨匠 ― ブルーノ・ワルターはモーツァルトを得意としており、楽屋でモーツァルトの霊と交信していたという噂さえ伝説として残っているほどだ。生涯最後の録音も、モーツァルトのオペラ序曲集であった。晩年のコロムビアア交響楽団とのステレオ録音では交響曲第36番「リンツ」、第40番、またニューヨーク・フィルハーモニックとのモノラル録音では第35番「ハフナー」、第38番「プラハ」、第39番、第40番、第41番「ジュピター」などが名演奏として知られている。また、戦前のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団との『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』などの録音や、1952年のウィーン・フィルとの交響曲第40番のライヴ録音、ザルツブルク音楽祭での交響曲第25番、『レクイエム』のライヴ録音などは今でも名演奏と称えられている。オペラでは、メトロポリタン歌劇場での歌劇『ドン・ジョヴァンニ』、『魔笛』等が知られている。20世紀後半にモーツァルトの権威とされたカール・ベームも、「バイエルン歌劇場音楽監督であったワルターが私を第4指揮者として招聘し、彼がモーツァルトのすばらしさを教えてくれたからこそ、モーツァルトに開眼できた」と告白している。1782年、「ハフナー」を作曲したモーツァルトであったが、これはセレナードを転用したものであった。ウィーン時代、交響曲として構想された最初のものはこの「リンツ」と言って良いだろう。「死とはモーツァルトが聴けなくなることだ」と答えたアルバート・アインシュタインはケッヘルカタログの改訂を行ない、第3版で「本当の意味でのウィーン=シンフォニーの最初のもの」と解説している。ベートーヴェンに繋がる交響曲スタイルに発展しており、モーツァルトの後期の交響曲として一般的だ。アダージョの冒頭で気高い二重付点のリズムが鳴り響いた瞬間、聴き手はモーツァルト晩年の傑作がもつ音楽の世界に、たちまち入り込んでしまう。ウィーンの芸術上の自由、この都の傑出したオーケストラ奏者たちとの共同作業、ピアノ協奏曲や歌劇「後宮からの誘拐」で培ったオーケストレーションの経験、交響曲一般に対する真剣さを加えたアプローチが「リンツ交響曲」となって結実したことは明らかである。全楽章夫々非常に変化に富んでおり、リンツを好む指揮者が多いのも頷ける。1950年台末にビバリーヒルズで半ば引退していた〝ワルターの芸術〟をステレオ録音で残すべく、コロムビア・マスターワークス社が立ち上げたプロジェクトにより残された歴史的名盤。ワルターのために集められた「コロムビア交響楽団」はロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団とハリウッドの音楽家たちの混成で、メンバー選考にもワルターが関わったと言われます。このシリーズで残された他の録音同様、分厚く豊かに響くロマンチックな演奏は、現代ではピリオド奏法も盛んになったモーツアルトだからこそ貴重な歴史的遺産と言えるでしょう。
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芸術の品位は、多分、音楽において、とりわけ高貴にあらわれている。それは、音楽には余計な素材が何もないからなのだ。音楽は、ただ、形式と内容とだけで、その表現する一切のものを高め気高くすることが出来る。
このゲーテの言葉は、まず、誰をおいてもミューズの子ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756〜1791)を思い出させる。古典主義芸術の花が、芳しく咲き誇った18世紀の中頃、ドイツとイタリアのほぼ中間、オーストリアのザルツブルグの街に生まれたこの天才の残した足跡は、たしかに今日の私たちが18世紀から求め得る、最も豊かな美しい財産なのだ。交響曲が、それ独自の特性と、いわばモニュメンタルな意味をも持つためにはベートーヴェンを待たなければならないが、その兆しは既に、この6曲 ― 交響曲第35番ニ長調K.385「ハフナー」、交響曲第36番ハ長調K.425『リンツ』、交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」、交響曲第39番変ホ長調K.543、交響曲第40番ト短調K.550、そして交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」とハイドンの12曲からなる〈ザロモン・セット〉に見て取れる。とりわけ、元来がセレナードとして作曲されながら、そこにそれまで聴くことの出来なかった張り詰めた緊張を盛るのに成功した《ハフナー交響曲》は、新興の芸術形態として決して恵まれた環境にはなかった交響曲のあり方を示しているとともに、新しい時の到来を図らずも暗示している。それから始まる6曲の交響曲は、全4楽章の構成においてもハイドンの影響が見られる。父親や姉に反対された結婚で1783年、モーツァルトはコンスタンツェを連れてザルツブルクを訪問するが、あまり良い顔をされなかった。その帰途、夫妻はリンツに足を留め、そこで音楽愛好家として知られるヨハン・ヨーゼフ・アントン・フォン・ホーエンシュタイン伯爵の邸宅に到着したのが10月30日。リンツの劇場は早速11月4日に演奏会を開くことになり、伯爵は交響曲の演奏を所望するがモーツァルトはあいにく、その持ち合わせがなく大急ぎで作曲に取りかかり、4日間で全曲を完成してしまった。《リンツ交響曲》である。この話は非常に有名な話であるが、日本の作曲家三枝成章が写譜をしたところ、3日間はかかったという。すでに頭のなかに出来上がっていた音楽だったと思われ、楽器も整っていない状況下で作曲をし、訂正もないというモーツァルトの天才躍如たるものがここにも表されている。完璧に均衡のとれた形式をもち、オーケストレーションの技巧を尽くしており、急いで作曲されたという様子を微塵も見せない。モーツァルトはハイドンの手法を丹念に学んでいたらしく、この後に続く第38番や第39番でもアダージョの序奏が付けられることとなった。弦楽が主体であるところに、トランペットとティンパニが加えられている緩徐楽章は、交響曲としての深み、厚みを増すことにもなっている。交響曲楽章としては舞曲的性格が強いメヌエットは、その鄙びた旋律ゆえだろうかザルツブルクでの実用に供するために作曲したトリオに時折持ち込んだ、浮かれ騒ぎの要素がない。終楽章は独特な擬似ポリフォニー技法のパッセージを挿入し、ロンド風でもあり、このような展開が「ハイドン的」と指摘される所以だが、モーツァルトのオリジナリティはこの交響曲の各所にあらわれている。この交響曲はハイドンのモーツァルトに対する影響の頂点をさすものである。
たとえ実生活におけるモーツァルトは貴族の保護を離れて自由人として生きた最初の作曲家だったとはいえ、音楽家としての彼は、その時代の秩序を否定して新しい秩序を打ち立てるといった革命家ではなかった。だが、その与えられた秩序に誠実に生きるということは、取りも直さず、来たるべき時代に最良のメッセージを送れるということでもあるのだ。その意味において、これら6曲の交響曲は、彼が《魔笛》を書いてドイツ・オペラの基礎を築いた以上に、かけがえのない立場にある。ベートーヴェンの9曲、ブラームスの4曲、さらにそれに続く数多くの交響曲を、私たちが獲得するためには、どうしても、この6曲が必要だった。たしかに、100曲もの交響曲を作ったハイドンがいた。着実ではあったが極めて遅い歩みを見せた彼の天才は、彼が深い影響を与えたモーツァルトから、逆に影響を受けて真の実りを齎した。例えば、モーツァルトの死を悼んで作曲されたという、彼の最後の交響曲《第104番 ニ長調 ロンドン》には組み立ての確かさとか、表現の真実さとかいった、ハイドンの作曲家としての特質が最も好ましい形で示されている。だが、そこには、まだ、あのモーツァルトの音楽の持つ感じやすい表情がない、新しい形式や手法を編み出して、何よりも作品に安定と純粋さを求めたハイドンは、後世に交響曲という形式は残し得たがモーツァルトはそこに、柔軟性と細やかな感受性とを授けて真に魅力的なものとした。その芸術家が未だ、自らの個性を獲得していないのならともかく、その芸術を抜き差しならない形で確立してしまっている以上、先人をも含めて、外部からの力というものは、もはや天才の霊感に影を落とすことはない。《ハフナー交響曲》を作曲した1882年、26歳のモーツァルトは彼に与えられた玉座に進むべく、既に確実な歩みを始めていた。したがって、この6曲に関する限り、楽式からいってモーツァルトのハイドンへの影響は認めるとしても、楽想からいってハイドンからの影響は考えられない。たとえ、《リンツ》、《プラハ》《第39番 変ホ長調》が第1楽章に、ハイドン流の序奏を持っているとしても、である。つまり、これら、モーツァルトの愛を最も強く受けた6人の兄弟たちは、半音階的な歩みをみせる和声によって呈される虚ろに安い影、木管楽器と弦楽器との巧妙なコントラストによって醸し出されるニュアンスに富んだひだどりとによって、まさにモーツァルト独自の表情を備えている。そうした18世紀が終わろうとしている時に生まれ出た彼らの後姿は、当然、古い時代、つまり音の対位法的な取り扱いに対する感謝に満ちた眼差しと、和声的なスタイルに敏感に反応する皮膚とを、殊のほか美しい形で取り揃えているのだ。モーツァルトの音楽は、躍動するような陽気と、明るい諧謔を爆発させているので、まことに古典的な優美、流麗な天衣に包まれていると概念的には言われることが多い。然し彼の音楽は、ハイドンの古典と比較して、おおよそ大きな隔たりがあるように感じられる。パリやイタリアの孤独な客舎で書かれ、ウィーンの陋屋で呻吟しながら作られた神韻縹渺たるモーツァルトの音楽は、聴く者の心をして深く沈潜せしめる「寂しさ」と「悲しみ」を彼の音楽のどこかにそっと忍ばせている。
ブルーノ・ワルター(Bruno Walter)は1876年9月15日ドイツ、ベルリン生まれの大指揮者。1962年没。ベルリンのシュテルン音楽院でピアノを学び、9歳でデビュー。卒業後ピアニストとして活動したが、後に指揮者に転向した。指揮デビューは1893年にケルン歌劇場で。その後1896年ハンブルク歌劇場で指揮をした時、音楽監督を務めていたグースタフ・マーラー(1860〜1911)に認められ決定的な影響を受ける。交友を深め、ウィーン宮廷歌劇場(後のウィーン国立歌劇場)にもマーラーに招かれる。その後はバイエルン国立歌劇場、ベルリン市立歌劇場、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの楽長、音楽監督を歴任した。1938年オーストリアがナチス・ドイツに併合されると迫害を避けてフランス、スイスを経てアメリカに逃れた。戦後、1947年から2年間ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽顧問を務めたほかは、常任には就かず欧米で精力的に活躍を続けたが、1958年に心臓発作で倒れてしばらく休養。1960年暮れにロスアンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会で当時新進気鋭のヴァン・クライバーンと共演し、演奏会から引退した。80歳を越えた晩年のワルターは米国は西海岸で隠遁生活送っていたが、米コロムビア・レコード社の若き俊英プロデューサー・ジョン・マックルーアに説得されドイツ物中心にステレオ録音開始するのは1960年から。日本の北斎に譬えられたように、まさに80歳にして立つと言った感じだ。録音は穏和な表情の中にどことなく哀感が漂うような独特の味わいがあります。ベートーヴェンも、巨匠ワルターの芸風に最もしっくりと馴染む作曲家の1人だったように思う。しかしアルトゥール・トスカニーニの熱情や烈しさ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーのような即興性を持たなかったし、テンポを誇張するスタイルでなかったが抒情的な美しさと気品で我々聴き手を包み込み、活気に欠けることはなかった。こうした特徴は数多く存在するリハーサル録音を耳にすると判りますが、少しウィットに富んだ甲高い声で奏者と自分の間の緊張感を和らげ、その反面集中力を最高に高めるという共感を持った云わば対等の協力者として通したこと独裁者的巨匠が多い中で稀有な存在であったのでは無いか、また、それがSPレコード時代に聴き手に、しっかりと伝わっていたのではないか。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団でのベートーヴェンの交響曲〈パストラル・シンフォニー〉以来、評判と人気の源は、そこにあったかと想像できます。ワルターはアメリカのオーケストラに多大な影響を及ぼした最重要人物の一人である。彼はヨーロッパのオーケストラにある熟成された深みのある響きを、アメリカのオーケストラを使って自分なりのやり方で練り上げた。アルトゥル・ニキシュ、マーラー、トスカニーニがアメリカに遺した足跡は確かに偉大だが、豊潤な音楽をもたらした使徒ワルターの功績はそれ以上にある。ワルターのスタイルは低音域を充実させたドイツ・タイプの典型的なスタイルで、ロマンティックな情感を適度に盛り込みながら柔らかくたっぷりと歌わせたスケール感豊かな名演を必然的に産む。こうしたスタイルを86年の生涯最後まで通したワルターは凄い才能の持ち主だったことは明らか。なにかと戦前の演奏をSP盤で聴いてしまうとニューヨーク・フィル時代、ステレオ時代のワルターは別人に思えてしまうのです。ワルターの演奏スタイルの変遷を簡潔な言葉で表すと、戦前の典雅、戦後の雄渾、晩年の枯淡ということになると思う。しかも老人の音楽にならず、アンサンブルの強靭さ、柔軟さ、懐の深さ、いずれの面でも不足はない。その響きは若木ではないが枯れ木でもない。コロムビア交響楽団時代が無ければ埋もれた指揮者に成ったかもしれないが、彼は20年間で成熟をし続け、枯れることなく円熟に円熟を重ねることができた。天才は凡人の想像を超えるものとはいえ、それにしても音楽家としての器がよほど大きくなければ、そして芯の部分が柔軟でなければ、こういう円熟の仕方は出来ない。ワルターの変容ぶりには戸惑わされる。今が聴き頃と言うべき円熟した音楽の実りがここにある。強さだけでなく大きさを増していくようなこの指揮者の求心力がオーケストラの響き隅々に行き渡っている。心臓発作で倒れてからは演奏会の数も少なくなり、彼が作り出す音楽をステレオ録音で遺すために組織されたコロムビア響とのセッションに専心し、1962年2月17日に85歳で亡くなった。
CBS 77603 でリリースされた7枚組から選ばれた、C.I.D.I.S. Louviers によるプレス。第1面が第1楽章と第3楽章、第2面が第2楽章と第4楽章となっている。リリースは1976年。
FR CBS CBS61191 ブルーノ・ワルター モーツァルト・交…
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